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独行法反対首都圏ネットワーク

田中弘允「国立大学法人制度の本質的問題点」  
 .「大学と教育」(東海高等教育研究所) No 35(2003.5)巻頭言  p2-3 
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「大学と教育」(東海高等教育研究所) No 35(2003.5)巻頭言  p2-3

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                    国立大学法人制度の本質的問題点

                               田中弘允

                           たなか・ひろみつ
                      前鹿児島大学長・同名誉教授
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21世紀の初頭、国際社会は大転換期を迎えている。わが国でも21世紀型社
会構造の転換が必要とされ、聖域なき構造改革が推し進められている。国立大
学の構造改革についてみると、当初から行財政改革の主導下に一方的に進めら
れ、学問の立場からの意見はないがしろにされて来たように思う。国立大学の
独法化問題はその典型である。

そこで、国立大学法人制度につき、それが内包する二つの本質的事項を指摘し、
学問の立場から考察を加えてみることにした。

国立大学の法人化は、本来大学の自主・自律の拡大を意図していたはずである。
ところが、「新しい『国立大学法人像』について」(最終報告)では、予算、
組織、人事等に関する運営上の裁量の拡大は記されているが、大学の本来の任
務である教育、研究については、逆に自主・自律が失われているのである。何
故なら独立行政法人通則法を基本とする本制度においては、従来大学側が一体
となって持っていた企画・立案・実施の諸機能は分割された上、企画・立案は
文科省の権限に移され、大学には実施機能しか割り当てられないからである。
しかも文科省には、大学が実施した業務の達成度の評価と資源配分や大学の改
廃を決定する権限までも与えられている。したがって、大学の教育、研究、管
理運営は、文科相の権限下にある「改革サイクル」の歯車の中にガッチリと組
み込まれることになる。

具体的には、「文科相による中期目標の策定」「文科相による中期計画の認可」
「文科省におかれる国立大学評価委員会による達成度の評価ならびに分野別の
研究業績等の水準の評価」「評価結果に基づいた予算措置と次期の中期目標策
定、中期計画の認可」といったサイクルがそれである。

大学に対するこのような国の縛りは、現行制度にはもちろん存在せず、本制度
において初めて設けられたものであるから、大学に対する規制の強化を意味し
ている。このことは、構造改革の旗印の一つである規制緩和と明らかに矛盾し
ている。そもそも「政府による目標の指示、実行計画の認可、変更命令という
ような『独立行政法人』的手法を採っている例」は、欧米の大学に存在しない
のである。学問に従事する者として、また、国際社会の一員として、まことに
恥ずかしい制度であるといわねばならない。

改革サイクルの中で特に問題とすべきは、評価と予算配分の段階に大きな権限
が集中し、しかもその両者が、政府権限の中で直接的に結びづけられていると
いう点である。これに対して、欧米諸国では、「大学に対する資金交付に当たっ
て政府の干渉を抑制すため」様々な方策が講じられている。例えばイギリスの
場合、ファンディング機関は、政府と各大学との間に「緩衝機関」として設け
られ、政府への権限の集中化と政府からの各大学への直接的権限の行使を回避
している。また、ファンディング機関と評価機関は、それぞれ独自の目的のた
めに、独立した組織として分離して設置されているのである。

国立大学法人制のもつ第二の問題点は、そこに組み込まれている競争原理であ
る。競争原理導入による大学の活性化という発想には根本的なパラドックスが
潜んでいるのである。この発想は、学問の内実に即して内発的に教育研究に従
事している人々には必要ではなく、むしろ有害であるのに対して、そうでない
人々に対してのみ多少有効に機能するからである。それは、日本の大学の最低
水準を引き上げるためには多少役立つかも知れないが、逆に最高水準を押し下
げ、全体としても水準を低下させる可能性が極めて高い。何故ならそれは、教
育研究の外面的評価、特にその数値化と相まって熱心で有能な人々の学問的内
発性を削ぎ、人間精神の純粋な創造的・発見的エネルギーを撹乱低下させるか
らである。イギリスの大学は、既にそれによる多数の頭脳流出を経験した。研
究者は、学問的関心そのものに従って面白いから研究を行っているのであって、
競争のためではないのである。もし競争するにしても、それはあくまでも学問
的関心の結果なのであって、競争が学問的関心を育てるのではない。競争原理
による学問の活性化の試みは、一時的な効果を生むかも知れないが、たちまち
息切れし、全体として日本の高等教育、学術研究を凡庸な水準に收斂・停滞さ
せるであろう。中長期的には意図した活性化ではなく停滞が、結果として生じ
ることになる。

上述の通り、国立大学法人制度は、改革サイクルという独立行政法人の基本的
枠組を通して学問の自由を侵犯し、教育の本質を歪め、学術研究の衰退を来す
ものといわざるを得ないのであり、大学の真の活性化と結びつくはずはないの
である。このような懸念は、この問題が報道され始めた頃の文部大臣反対声明
や、その後の数々のパブリックコメント(「新しい『国立大学法人像』につい
て」ーー中間報告ーに対する)、諸家の論文、新聞論調などにも表明されたと
ころである。それにもかかわらず、法人化問題は文科省の法案の概要説明とい
う段階まで進んだのである。この事実は、大学改革に対する行財政改革の巨大
な圧力を物語ると同時に、この改造の危うさを象徴的に示している。

経済にますます従属を深める今の日本杜会にあっては、教育・医療・福祉など
の国民生活の最も基本的な部門が押し潰され、社会不安をもたらすことは必至
である。このまま進むならば日本の未来は極めて暗い。

私達は、この国の未来を大きく左右するこの重大な問題に対し、勇気と使命感、
忍耐をもって真正面から取り組み、社会に向けて警鐘を鳴らし続けなければな
らない。

                                                  2003年2月28日
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