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教育ななめ読み 21 「愛すればこそ」
  .『文部科学教育通信』No.74(2003年4月28日号) 
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『文部科学教育通信』No.74(2003年4月28日号)

教育評論家 梨戸 茂史 

教育ななめ読み 21 「愛すればこそ」

 「恐ろしくて途中で挫折した」とか「夜中にトイレに行けなくなった」など
の評がある「ペットセマタリー」を読んだ。S・キングのホラー小説。映画に
もなったので見た方がおられるかも知れない。本当は「セメタリー(霊園)」
とすべきところを子どもの書いたスペル間違いを題名に使ったのでEがAになっ
たという設定。不気味な導入でもある。が、ただ怖いだけの話ではないことを
発見した。「死」の恐怖をめぐる話だがその結末に向かう主人公ルイス・クリー
ドの家族愛がこの筋書きを貫くモチーフ。それが最後に取り返しのつかない悲
劇、恐怖へまっしぐらに向かって進むのだ。この手の小説はストーリーを明か
してはいけない定めなのでこれ以上は小説(文庫本になっています)を読んで
ください。

 さて、国立大学などの法人化の法律案が国会に提出され審議が始められた。
要すれば、国立大学に法人格を与え、教職員を非公務員とし柔軟な人事管理を
可能とし、学長に強い権限を与え専決的な大学運営を認めた上で、事後に厳格
な評価を行おうという発想。

 ちょっとこの問題を振り返ってみると、そもそもの出発点が公務員の定員削
減という行政改革だったことは常識。悪化一途の国の財政の再建をめざし、支
出削減を目標に国家公務員数を二五%削減する目標を立てたところから始まっ
た。何としてもこの計画を達成したい旧総務庁サイド。国の行政改革を進めな
くてはこの国が破綻するという「愛」国心からの発想。この話を受けた当時の
大学出身の文部大臣は教官が公務員型でいくことができ、かつ大学、高等教育
に欧米並の予算がくるならばと大学を「愛」する気持ちから決断したようだ
(その方向に行かなかったのは政治の常)。次は工学や医学のセンセイたち。
予算の制約や文部官僚があれこれ口出しして意のままにならないのは国の枠に
大学が入っているからだと考えた。しからば「国立」大学を国から独立させる
と良いのではないかと思うは当然のこと。また教官は研究費が国の予算の仕組
みにとらわれず自由に年度をまたいで使えたり人件費に回せたりできるように
したいとも考えたわけだ。研究や学問を「愛」すればこその発想。一方、日本
の経済がふるわなくなって新たな産業創出をもくろんだ旧通産省・現経済産業
省は国立大学に新たな産業のシーズが埋もれているのでこれを発掘するための
手だてを模索。産学協力の推進だ。一つには大学発の特許を種にしたベンチャー
企業の創出。教官に企業の役員などを兼ねさせ積極的に産業にかかわらせよう
とするシステム作り。この国の将来を憂え産業の振興を図るという国を「愛」
することからの発想。官邸や与党の立場からは公約の公務員数の削減が達成で
きることとなり政権基盤を確かなものにする。これも国を「愛」する変形であ
ろう。元や前の学長たちは自分の意志が通用せず時間ばかりかかる大学システ
ムの改善のため強力なリーダーシップを標榜した。学長さんたちの大学を「愛」
すればこその発想。文部科学省はと言えば、法人化を容認することによって
「国立」大学を民営化から守りきることができると踏んだ。これも国立大学を
「愛」した結果。

 皆それぞれの目指す「愛」が出発点だ。そのことが法人化の反対論を唱えに
くくしている。結局、良かれと思って考えた善意の集大成が「国立大学の法人
化」なのだ。法案は、ある程度これらを実現するだろうが、複合の愚と副作用
の可能性も少なくないはず。つまり公務員数は表向き非公務員化で減った形に
はなるが給与は国の予算から支出され財政の観点からは何ら変わらない。学長
の強力なリーダーシップの名の下に間違ったトップダウンになるおそれもある。
個々の教官の意見は大学の運営には反映されず教授会は無気力化し、ひたすら
自分の研究の殻に閉じこもりかねない。と同時に「評価」だらけで会議とペー
パー作りに忙殺されるだろう。一方で成果の出にくい研究分野の教官は年々研
究費が削減されついにはその講座もなくなる恐れもある。

 小説のように「愛」導いた悲劇となり、大学の「死」のにおいがするのは気
のせいか。