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われわれは「国立大学法人法」案に反対する 
 .国立大学法人化問題を考える山形大学人文学部教員有志の会 
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2003年4月17日(木曜日)午後
発:松本邦彦(山形大学人文学部 総合政策科学科)
「国立大学法人化問題を考える山形大学人文学部教員有志の会」世話人

◎われわれは「国立大学法人法」案に反対する◎

国立大学法人化問題を考える山形大学人文学部教員有志の会
2003年4月16日

○はじめに

  現在、政府・文部科学省によって、国立大学の位置づけを根本から変更
する試みが進められている。2月28日に国会に上程された「国立大学法人
法」案(以下、「法案」と略記)がそれである。しかし、有事関連法案や
個人情報保護法案などの他の重要案件と比べて、「法案」に関して流通す
る情報量は極端に少ない。「法案」の内容はもとより、それが国会審議に
付されていることさえ、国民は十分に知らされていないのではないだろう
か。

 日本の高等教育制度を根底から覆し、ひいては日本社会の自由と公正の
価値を根底から掘り崩す危険性のある「国立大学法人」制度が、主権者国
民の明示的な意思が不在のまま、なし崩し的に成立させられようとしてい
る。事態は極めて深刻な局面にある。

 われわれ山形大学人文学部教員有志は、このことを深く憂慮し、国立大
学をめぐっていま何が行われようとしているのか、それがいかなる問題を
含んでいるのか、そしてそれにどのように対処すべきかにつき、以下のよ
うな見解を表明する。

1)「法案」に至る経緯

  「改革」が相次いで呼号されているが、それらが果たして、社会的公正
さを実現し、国民全体の福祉を増進するものであるかは、往々にして疑わ
しい。「大学改革」としての国立大学法人化も同断である。なぜなら、こ
の企ては、教育施設・設備の整備・拡充を通じて国民の高等教育を受ける
権利の保障・充実を目指すものではなく、その反対に、国家行政のスリム
化を目指す政府方針の下、「行政改革」の一環として推進されてきたとい
う事情があるからである。

 国立大学の法人化とは要するに「独立行政法人」化ということである
が、この「独立行政法人」制度は、公務部門のアウトソーシング(垂直的
減量)を図るために、橋本内閣時代の行政改革会議によって案出された。
国の行政組織から切り離されて法人格を与えられた機関が、主務大臣から
与えられた目標にもとづいて業務を行い、その達成度を一定期間ごとに評
価される、という仕組みである(1999年制定の「独立行政法人通則法」に
その基本構造が定められている)。

 国立大学はその抱える職員数の多さから、国家行政組織の減量化の標的
とされ、国立大学の独立行政法人化が本格的に政治的な議論の対象となる
に至った。2000年7月から、文部省(後に文部科学省)内の調査検討会議
で国立大学の独立行政法人化に関する検討が進められ、2002年3月に「最
終報告」が出された。そこでは、学校教育法上は国を設置者とする原則が
固守されたものの、学長への権限の集中、教職員の非公務員化、通則法に
沿った業務運営と評価の仕組みが盛り込まれていた。そして、現在、国会
審議に付されている「法案」は、大学の設置者を国ではなく「国立大学法
人」とするなど、「最終報告」の線と比べても、幾つもの点で後退した内
容を含むものとなっている。

2)「国立大学法人」制度の仕組みとその問題

  では、「法案」の定める国立大学法人制度は具体的にどのような構造を
もっているのか、また、その仕組みにはいかなる問題があるだろうか。以
下、6点にわたって指摘したい。

(1)設置形態

 「法案」では、法律により設立される「国立大学法人」が「国立大学」
を設置するものとされている(2条)。現行法上、国立大学の設置者は国
であり、設置者負担主義を定める学校教育法5条により、国が国立大学の
経費負担を行ってきた(もっとも、後述するように、国の財政責任の果た
し方は極めて不十分である)。しかし、国を設置者としない「法案」の定
めでは、国立大学の第一次的な財政負担責任を国は免れうることになる。
実際、大学運営に当てられる運営費交付金に関する定めは「法案」には存
在しないし、財源措置に関して国は「全部又は一部に相当する金額を交付
することができる」(通則法46条)とされているにすぎず、大学運営の財
源保障は不確実なものとならざるをえない仕組みとなっている。

 なお、国際的に見ると、大学の設置に責任を負うのは基本的に国家(ま
たは州)であり、そのうえでなお、政府からの大学の独立性が追求され、
大学の自治的運営を尊重した法整備が進められてきている。この点、「法
案」の仕組みは、国の財政責任をより一層弱める反面、後述するように、
行政権への大学の全面的従属を強いるものであることが留意されるべきで
ある。

(2)中期目標・中期計画と評価

 この点については、通則法のスキームがほぼ踏襲されている。すなわ
ち、「法案」では、文部科学大臣が国立大学法人に対し「中期目標」を示
し、これに従って各国立大学が「中期計画」を作成して、文部科学大臣の
認可を受けるものとされている(30・31条)。また、中期目標終了時に
は、文部科学省に設けられる評価委員会から「業務継続の必要性」にまで
踏み込んだ業務実績評価を受け、さらに、総務省に設置の審議会から「事
業の改廃」に及ぶ内容の勧告が行われる可能性がある。

 この法的仕組みによれば、大学教員は、政府が定めた目標に即した教育
研究活動を、政府の強力な監督権の下で、実質的に強要されることにな
る。これは、日本国憲法23条の保障する「学問の自由」(および、その論
理的帰結である「大学の自治」)に違背するし、また、同条の趣旨を受
け、教育への「不当な支配」を禁じた教育基本法10条1項にも抵触する。

(3)国立大学法人の管理運営組織

 「法案」は、法人の管理運営組織として、学長・役員会、経営協議会、
教育研究評議会という組織を設けている(2章1節)。大学法人の運営に関
する決定は、学長とその任命する理事からなる役員会の議を経て行われ
る。学長は、役員会のほか、経営協議会と教育研究評議会をも主宰し、ま
た、学長選考会議に加わることができるものとされている。役員会の権限
の強さと相俟って、学長を頂点とする大学法人執行部の権限は極めて強力
なものとされている。

 他方、経営協議会と教育研究評議会の設置は、経営と教学の分離を明示
するものであり、前者は「国立大学法人の経営に関する重要事項を審議す
る機関」、後者は「国立大学の教育研究に関する重要事項を審議する機
関」と位置づけられている。この仕組みにおいては、教員の発言権は、教
学の領域に封じ込められるうえ、教育研究組織の設置または廃止の決定と
いう重大な事項には及ばないことになる。また、教学から分離された経営
の議論は、教育研究の現場の状況や意向から遊離する危険性が高いと思わ
れる。

 結局、「法案」の描く法人の運営組織は、法人の長たる学長が、役員会
を機軸として、大学法人および大学運営の全般にわたる意思決定をトップ
ダウンで行う体制であると言える。しかし、学長とて全能ではなく、「業
務実績の悪化」を理由に文部科学大臣から解任される存在でもある。この
ような組織体制が教育研究機関たる大学に相応しいと論ずる根拠は、一体
どこに求められるのであろうか。

(4)教授会の地位

 大学の自治の中心的機関である教授会について、「法案」は何ら言及し
ていない。確かに、学校教育法59条1項(「大学には、重要な事項を審議
するため、教授会を置かなければならない」)において教授会は必置機関
とされているし、同条にいう「重要な事項」の内容は教授会の自主的判断
に委ねられるとする解釈が学界では有力である。教授会の権限に関わる定
めをする教育公務員特例法や国立学校設置法が適用されないかまたは廃止
されるということは、現行法制度からの後退と捉えられようが、それをも
って直ちに教授会の権限が空洞化すると考えるべきではない。問題なの
は、「法案」の予定する管理運営組織が、そもそも教授会の審議権を著し
く制約するよう構成されていることである。

 「法案」では、学外者が多く加わる役員会と経営協議会の審議事項とし
て、学部・学科など大学の教育研究組織の設置・改廃や予算決定を含む重
要な事項が配されている。教育研究の専門家である教員を大学の管理運営
の場から実質的に放逐し、次に述べるように学外者の参画を奨励する「法
案」の制度設計は、明らかに大学の自治を軽視するものであり、また、教
育基本法に定める「全体の奉仕者」たる教員の地位(6条2項)並びに教育
の直接責任性の原理(10条1項「教育は、不当な支配に服することなく、
国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである」)に背反す
るものであると思われる。

(5)学外者の参画

 「法案」では、大学構成員の発言権を著しく減少させる一方で、大学運
営に対する学外者の参画を強く奨励している。役員会や学長選考委員会、
経営協議会(学外委員が委員総数の2分の1以上)、さらに、文部科学大臣
が任命する監事にも、学外者が含まれていなければならないとされてい
る。

 ここに色濃く投影されているのは、日本の産業競争力の強化と人材大国
化への衝動を基点に、大学運営に民間経営原理を貫徹させ、大学を教育研
究組織ではなく“経営体”と捉える「遠山プラン」(2001年6月)の戦略
である。しかし、こうしたやり方は、学校の公共性(教育基本法6条1項)
を考慮せず、教育の直接責任性の原理(同法10条1項)にも反するのでは
ないか。学外者の野放図な参画により国策と一体化し企業経営の論理に偏
した国立大学は、大学に向けられた真に社会的な要請からは乖離すること
になると思われる。

(6)教職員の非公務員化

 今回の国立大学法人化は、国立大学・国立学校の教員等が教育公務員と
しての地位を喪失させられるということを意味している。現行法制上は、
教育基本法6条2項の、「全体の奉仕者」たる「教員の身分は、尊重され、
その待遇の適正が、期せられなければならない」とする定めを受けて、国
公立学校の教員等につき、一般公務員とは異なる教育公務員としての身分
上の特例を規定する教育公務員特例法が設けられているが、今回の法人化
に伴う法整備により、国立大学の教員等が教育公務員たる身分を有すると
する特例法の規定が廃止されることになっている。

 「大学の自治」の中核をなす大学教員人事の自治を含みこんだ特例法上
の身分保障規定は、学問の自由・大学の自治を法制上保障するものであっ
たし、また、その適用を受けない私立大学における自治の慣行を事実上下
支えするものとしても機能してきた。それゆえ、国立大学教員を非公務員
化する立法は、教育施設設置者・雇用者の教員に対する恣意的支配への歯
止めを失わせる危険性が高く、学問の自由・大学の自治の保障の見地から
は重大な疑念を表明せざるをえない。

3)国立大学法人化の及ぼす影響

  以上のように、「法案」は数多の問題を孕んでいるが、それにもとづく
国立大学法人化が実現された場合には、大学世界の内部にとどまらない深
刻な影響を日本社会にもたらすことになると危惧される。

  第1に、「法案」にもとづく法人化は、教育の機会均等原則を破壊する
よう作用すると思われる。既に現在でも、文部科学省が自ら認めるとお
り、日本の高等教育に対する公財政支出の対GDP比は0.5%で、OECD加盟国
のなかで最小である(『教育指標の国際比較(平成15年版)』)。また、
大学の学生納付金は、欧米の主な国々と比べて高額であるが、法人化され
た「国立大学」の学費は、現行よりも上がることが確実視されている。そ
の場合、日本育英会の廃止という事態も相俟って、学生およびその家族の
経済的な負担が今以上に増すことは明らかである。経済格差により教育機
会の平等性が損われるとしたら、それは不公正である。「法案」の予定す
る国立大学の法人化は、「経済的地位」による教育上の差別を禁じ、教育
の機会均等の原則を定めた教育基本法3条を無意味化する危険性が高いと
思われる。

  また特に、今回の国立大学法人化は、これまで国立大学が果たしてきた
役割に対する正しい認識を欠いていると言わざるをえない。国立大学は、
比較的低廉な学費で国民に高等教育を提供することで教育の機会均等原則
の実現に大きな役割を果たしてきたはずである。「法案」の描く法人化が
実現した場合、とりわけ、山形大学のような地方国立大学にとって、現在
の総合大学としての研究教育体制を維持し発展させることは極めて困難な
ものとなるだろうし、また、地域社会との均衡のとれた協力・連携を追求
するなかで、地域の行政・経済・文化の諸領域における長期的な発展に貢
献するという課題も、その実現を阻まれることになるだろう。

  第2に、「法案」にもとづく法人化は、憲法・教育基本法の価値理念を
空洞化し消滅させることにつながると思われる。上記2)で説明したよう
に、今回の大学「改革」は、学問の自由・大学の自治の保障をはじめとす
る憲法・教育基本法の規範的な要請に反する形で、すなわち行政権による
大学の全面的支配・統制を機軸として行われているのであって、文部科学
省が言うような、大学の自主性・自律性を高める制度的な仕組みは「法
案」には存在しない。法人化が大学の自由を実現するという期待は幻想に
すぎない。しばしば指摘されるように、今回の国立大学法人化は、企図さ
れている教育基本法「改正」に向けた露払いの役回りを担うものである。
初等・中等教育を含めた日本の公教育体制全体が、強い国家統制と経済的
効率性に支配されたシステムへの変質を迫られているのである。

  第3に、「法案」にもとづく法人化は、日本社会から自由な空気をより
一層失わせることになると思われる。そもそも、学問の自由・大学の自治
は、社会自身が自由の価値を認め、それを基礎に大学が社会の知的進歩の
リーダーシップをとるよう期待していることを前提に、大学・研究者が真
理の探求に向けてその職責を果たす不可欠の条件として、社会がその利害
の見地から、大学・研究者に与えたものである(高柳信一『学問の自
由』)。今回進められている国立大学の法人化は、自由な社会の認める学
問の自由・大学の自治の価値を甚だしく軽視している。このことは、社会
の自由で柔軟な雰囲気が失われつつあることを示していないだろうか。ま
た、法人化がその傾向をより一層助長する可能性があることを告げるもの
ではないだろうか。実際、「有事」の脅威や各種の「危機」が喧伝される
なか、日本社会の治安主義化や監視社会化が指摘されており、このような
危惧はあながち杞憂ではないと思われる。

○おわりに

  以上のように幾つもの困難と問題を抱えた国立大学法人化をこのまま推
し進めれば、大学および日本社会の将来に取り返しのつかない禍根を残す
ことになると思われる。21世紀の大学政策としていかなる選択がありうる
のか、いま一度、憲法・教育基本法の基本理念に立ち戻って、冷静に考察
すべきである。そのための時間は決して不足しているわけではない。足り
ないのは、政策を見直す勇気と決断力である。われわれは、このように考
え、「法案」が廃案とされるよう強く求めるものである。
                             以上

(2003年4月16日現在:賛同人28名)

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