分析メモ 改訂版

国立大学法人法案概要と法制化グループ意見

20022月7日

独立行政法人反対首都圏ネットワーク事務局

 

131日の国大協法人化問題特別委員会で、文部科学省から「国立大学法人法案の概要」(以下「概要」)と国大協特別委員会法制化対応グループから「『国立大学う法人法案の概要』について」(以下「法制化グループ意見」または「意見」)が提出された。

 

「概要」は、1225日の「国立大学法人法案の概要(骨子案)」(以下、12月バージョン)を基本的には引き継いだものであるが、重大な変更も含まれている。法案策定作業の内容は、時を追って悪化しつつあると言える。

この間の国大協の態度を簡単に振り返ってみよう。昨年4月時点では、国大協が「最終報告」(に関する「会長談話」)を「了承」すること自体が、国大協総会レベルでは異常な手続きをもってしかなしえないものであった。「最終報告」は国大協にとって望ましいものではなかったのである。しかし、「意見」は、「最終報告」をクリヤーしてさえいればよいという基準を設定し、かつ、国大協自身が設定したミニマム(昨年920日法制化グループメモ、同11月「重要論点」)をも逸脱する「概要」を詭弁をもって弁護するものになっている

「法制化グループ意見」は、結局のところ「概要」が「最終報告」の趣旨に合致するものだという説明を行なうことによって、国大協に「概要」を了承させることを意図するものになっている

 

1.             独立行政法人と通則法

 

 「概要」によれば、「独立行政法人通則法に規定する独立行政法人ではない」(1)が、「独立行政法人通則法の必要な規定を準用する」(30)とされている。つまり、通則法に基づく独立行政法人ではないということが明らかである。しかし、通則法に規定する独立行政法人でないが独立行政法人であるのか、そもそも独立行政法人ではないのか、はここからは判然としない。他方、「意見」によれば、国立大学法人は、通則法に基づく「狭義の独立行政法人」ではないが、広義の「独立行政法人」である(「意見」II-13)という。

 そもそも「狭義の独立行政法人」と「広義の独立行政法人」がありうるのか、これはいまだ明確にされているわけではない。通則法は、およそ一般的に「この法律は、独立行政法人の運営の…」(第1条)と規定しているから、「独立行政法人」であるが、通則法の規定は適用されないというのは難しい。通常国会への提出予定法案の説明において、「国立大学を独立行政法人化する」とされていることからも、これは明らかである。

 もともとこの問題は、「独法化」とそれに対する反対(当初の文部省、国大協)という構図から始まり、通則法制定後は、「通則法のままの独法化反対」(国大協)という議論に変化・退化した。すでにここから「通則法によらない独立行政法人」なるあいまいな概念が生まれたことになるが、それがどのような意味をもつのか、実は真剣な議論はなされなかった。

 簡明に言えば、国立大学法人をなぜ広義のであれ「独立行政法人」と呼ばなければならないのかということが問題である。独立行政法人一般について規定する通則法に基づくものでないのなら、たんに「国立大学法人」と言っておけばよいはずである。それをあえて「(広義の)独立行政法人」と言い、かつ「独立行政法人通則法の必要な規定を準用する」というのは、結局のところ、「国立大学法人法」が通則法の特例法であると言っているに等しい。「必要な規定を準用」は、結局のところ、国立大学法人法に規定のない点については通則法によるという運用になると言ってほぼ誤りはないであろう。例えば、法案「概要」には規定のない総務省の評価委員会について、調査検討会議「最終報告」は通則法どおり当然に適用されると記述しているのである。「意見」自身が「独立行政法人制度の基本的な枠組みを活用しつつも」(II-1)と述べるのもこれを証明している。

 「広義の独立行政法人」と言い、あたかも大学にとって有用かつ必要な規定のみを「準用」するかのような表現は、ことの本質を見誤らせるための虚言と言わざるをえない。独立行政法人通則法を基礎に、大学に特殊な事項についてのみ特例法的に独自の規定を用意するというのが、「概要」が示す国立大学法人法案の基本的な性質にほかならない

       最近明らかになった条文草案(概要12月バージョンに対応?)では、独立行政法人通則法の大幅な準用をおこなっており、総務省による評価、独立行政法人の改廃、財務・会計などについては通則法が全面的に適用される。「国立大学法人」とは、大学版独立行政法人にほかならない。

 

2.             設置者としての「国立大学法人」または「間接方式」

 

 「設置者は国であるとの基本的な枠組みを維持する必要があること」(「意見」II-2)というのは国大協がいわば最後の砦として主張してきたミニマムの基準であった。しかし、この点で、「概要」は、明白に、「国立大学を設置することを目的として…設立される法人」として「国立大学法人」を規定している(1)。

 端的に結論を言えば、国を設置者とすべきであるという国大協の主張は「概要」によって拒否されたのである。「概要」において、設置者は「国」ではなく、「国立大学法人」とされている。にもかかわらず法制化グループ意見は、「観念的には法人と大学が分離した存在と見られる整理がなされている」としつつ、「『…国を設置者とする』との提言を実質的に実現したものと理解することができる」(II-2)として、これを容認している。法制化グループの弁解的説明は、引かれものの小唄にすぎない。意見が引用する国大協「重要論点」は、明確に、国を設置者とすることの「法制的整理は可能」と述べているからである。法制化グループの意見には、なぜ国を設置者としてはならないのかという問が立てられていない。「国」を設置者としても、「法人」を設置者としても実質は異ならないというのなら、「国」を設置者としてもよいはずである。

国大協が最後まで固執したこの問題について、「概要」があえて法人を設置者としたのは単なる法技術的な理由によるのでなく、まさに実質的な理由によると見るべきである。実質が異なる、あるいは少なくとも異なる可能性があるからこそ、「概要」は“間接方式”と呼ばれてきた法人を設置者とする方式を、いわば強引に採用したのではないのだろうか。それを糊塗する「意見」の難解かつ晦渋な議論は、「概要」を擁護するための、ためにする議論にすぎない。

 

実質的な理由は、二つある。ひとつは財政であり、もう一つは管理運営にかかわることがらである。

財政については、「意見」が引用する「重要論点」に示されている。すなわち、「法人化後の国立大学に対する国の設置者としての責任の明確化」がそれである。言うまでもなく、ここでの設置者としての国の責任とは、学校教育法第5条に定める経費負担の責任にほかならない。「意見」は、「国として運営費交付金等の交付を通じて財政的な責任を果たす」(II-2)のだからよいのだ、と主張するが(また、「国は、国立大学法人とともに…教育研究の新興を図る立場に立つことを意味する」とも言うが、こうした抽象的な命題がいったいなにを意味するのだろうか)、国が直接の設置者である場合と法人が設置者である場合とで差異が生じる可能性のあることは火を見るより明らかである。それゆえに国大協はこの点に固執してきたのではなかったか。「間接方式」をとることで、国立大学の財政の直接的な責任は法人に転嫁される(学校教育法5条)のであり、国は、容易に法人の第1次的な責任を理由に必要な負担を回避することが可能になるのである。例えば、ミニマムにも満たない運営費交付金を国が負担し、あとは法人の責任において自己収入・外部資金でまかなうべきだという論理が法的には可能になるのである。もっとも、こうした財政システムは今次の「法人化」構想がめざすものにほかならず、またそれゆえに「間接方式」が強行されようとしているとも言いうるのである。法人を設置者とすることのまず第1の意味は、国の直接的な財政責任を軽減し、国立大学法人にそれを転化することにある

 

第二の問題は、管理運営組織のあり方である。「意見」が言うように法人と大学が観念上分離することによって、しかし「意見」は明示的に指摘しないが、大学は、理論上、設置者である法人が管理するものになる(学校教育法5条)。「概要」によれば、大学の管理運営組織のほとんどは「法人」の組織として規定され(役員、役員会、経営協議会に関する5項から10項まで、学長の任命、学長選考会議に関する15,16項、および理事・監事以下法人の業務など17項以下)、「国立大学」の組織として規定されるのは「教育研究評議会」(11から14項)のみである。

現行の国立大学の最高意思決定機関である評議会の地位は、教育研究(いわゆる教学)分野にその権限を縮小し、かつ最高意思決定機関でもなくなる(最終的意思決定は役員会と学長に移行する)。また、学校教育法上、大学の重要事項を審議する機関とされている教授会の地位は、まったく不明である。

他方、大学の管理責任は「法人」に移り、法人の機関である「経営協議会」が「経営に関する事項」を管轄することになる(最終的意思決定は上と同じ)。理論上は、「法人」の機関が大学を管理・経営し、「大学」の機関は研究教育に関する発言権をもつにすぎないことになる。「間接方式」が意味する管理運営上の基本的な枠組みはこれである。大学運営における根本的な法制上の変化が生じるといってよいであろう。「概要」の枠組みは、「意見」が言うように「『大学の運営組織と別に法人としての固有の組織を設けない…』との『最終報告』の提言に沿った方向で整理されている」(II-2)というものではまったくない。「法人」の組織が基本となり、「大学」固有の組織は極小化されるのである

       条文草案では、「教育研究評議会」も「国立大学法人」の組織と規定されている。「国立大学」の法的組織はカラになるのか?学校教育法59(教授会)との関係はどうなるのか?などの問題を生じる。

 

「意見」は、国立大学法人の長が学長である(概要5)ことで法人と大学の「一体的な運営」が確保されていると言う。もちろん、法人の長が教学の長である学長とを分離する制度もありうる。そうした場合に比べれば、教学の権限が確保されているという趣旨であろう。しかし、学長が教学の意思を代表するという保証はない(学長選考手続き)し、また学長がもっぱら経営の視点を重視して振舞う可能性も排除できない(法人化の制度設計は全体としてそれを促進する)。さらに法人法制定後にこの条項だけが改正されるということもありえないではない。つまり、「意見」は、わずかな彌縫策に着目することで、「概要」のめざす本質的な本体部分を見失っているのである。ここでも「意見」の議論は詭弁の域を出ない。「概要」における「間接方式」の採用は、管理運営の点で見れば、「大学の自治」の根幹を覆すものにほかならないのである

 

3.             管理運営組織 −強まる学外者の発言力−

 

 「概要」5項以下は国立大学法人および国立大学の管理運営組織を規定する。その基本的な枠組みは、学長を最終的な意思決定権者とし(6)、役員会を経営・教学両面にわたる議決機関とし(6)、その下に審議機関として「経営協議会」と「教育研究評議会」を置くというものである。これは「最終報告」の枠組みと基本的には異ならない。もっとも、法制化グループ「意見」と異なり、われわれは「最終報告」の枠組みが維持されればよいとは考えない。「最終報告」の構想自体がきわめて問題の多いものであることは周知のとおりである。これまでの経緯に照らしてみれば、法制化グループ「意見」が国大協の総意を代表するものであるかきわめて疑わしい。

 しかも、「概要」の法案構想は、「最終報告」のそれよりも一層問題の多いものになっている。

 まず、役員会と経営協議会(「最終報告」の運営協議会にあたる)の学外者構成員の割合が増えることが予想される。まず、役員会の構成が、学長と副学長(「最終報告」)から「学長及び理事」に変更された(6)。この変更の理由は「概要」にはもちろん、「意見」にも記されていない。「意見」によれば、これによって、「副学長」でない「理事」が置かれうるし、また「理事」でない「副学長」が任命されることも可能になるという(II-4)。この後段は疑わしい(理事でない副学長といったものを想定できるだろうか)が、前段は大いにありうることである。「副学長」といったタイトルでは就任しにくい学外者が「…担当理事」という形で就任することはより容易であろう。つまり、アカデミックな印象を与える副学長ではなく、経営専任の理事の方が、一般に、学外の経営者などには受け入れやすいと考えられるのである。つまり、「副学長」から「理事」への名称の変更は、単なる名称の変更に止まらず、役員会の実質的な構成に影響を与える可能性があると言わなければならない。

 もうひとつ重要な点は、「経営協議会」における学外委員の割合を「2分の1以上」としたことである(8)。「最終報告」において「相当程度の人数」とされた点は、学外委員の比率を高める方向にシフトしたと見てよい。「意見」は「学内・学外同数とすることを含め…柔軟な運用が可能になる」(II-4)と言うが、「相当程度」と比べて厳しい枠がはまったことは明白である。これによって、財務・人事管理を中心とする「経営」に関する学外委員の発言力は決定的なものになる可能性が高い。これを「役員」における「理事」への変更と合わせて考えれば、大学における「経営」の中枢を学外のプロフェッショナルに委ねるという「概要」の構想が透けて見える。

 「経営協議会」における学外委員の発言力の強化という考え方は、「学長選考会議」の構成にも貫かれている。「概要」によれば、学長専攻会議の経営協議会側からの委員は「学外委員」に限定される(16)。学長選考会議は、「研究教育評議会」から選出される学内委員と「経営協議会」から選出される学外委員とが同数で(場合によってこれに学長・理事を加える)構成されることになるのである。こうした経営協議会からの委員を学外委員とするという考え方は「最終報告」ではまったく示されていなかった。「意見」は「法制的要請」と言うが、真のねらいが上述の点にあることは明白である。

 

 法制化グループ「意見」は、「現在の国立大学法制を踏まえ、教育研究に関する自主的決定と大学運営への学外有識者の知識の積極的な活用とのバランス…」という国大協の「重要論点」が「最終報告」に生かされており、また「概要」は「最終報告」に沿ったものになっているという(II-4)。しかし、「概要」の構想は、「現在の国立大学法制」(その核心は教授会と評議会による大学運営である)を踏まえたものになっていないし、大学が「学外有識者の知識」を活用するという域をはるかに越えている。「大学運営」=経営の意思決定自体を左右しうる程度に学外者の発言権は強められているといえよう。もっとも、「意見」もこの点については自信をもっていないように見える。「双方[経営協議会と教育研究評議会]をともに『国立大学法人』の審議機関として対等に位置付けることが必要であり、国立大学法人案の策定に当っては、かかる制度設計とするよう強く要請する」(II-4)と要望しているからである。明らかに両機関が非対等になる可能性が存在しているということになる。そして、われわれの見方からすれば、「概要」においてこの対等性はすでに崩れている。

 

4.             管理運営 −低下する評議会の地位−

 

 「概要」において、「教育研究評議会」は唯一の「国立大学」の組織として規定されている(前述)。すなわち、研究教育評議会は、国立大学の教育研究に関する審議機関である(11)。

 まず、「概要」において12月のバージョンまで残っていた「評議会」という名称は「教育研究評議会」と名称が変更された。この場合、実質的な意味はないとも言えるが、評議会の権限が大学運営全般に及ぶのでなく、研究教育(教学)分野に限定されるということを改めて明確にする、ということが変更の理由であろう。実際、「教育研究評議会」は国立大学の組織である(11)ということによって、観念上は、法人の組織からは切り離され、法人の管理運営には発言権を持たないことになっている。「教育研究評議会」が法人の管理運営にかかわるのは、唯一、学長選考に関して発言権を有する(16)ということだけである。経営と教学は分離され、現在の評議会の地位は大いに低下し、教学分野のみの審議機関(決定権限は役員会・学長に移る)になる。そのような前提のもとで、法人の経営に関する審議機関「経営協議会」と「教育研究評議会」との立場の対等性を語るのはもともと無理がある。学長選考会議への代表委員数の対等性を除いては、「意見」の言うような形式的な意味での対等性をはかる尺度は存在しない。ただ、実質的な意味で言えば、経営協議会が財務権限を掌握するという点で、より強力な権限を手にすると考えるのが常識的な見方であろう。

 

一般に、「経営」事項に含まれる財務・会計は、教育研究活動に不可欠の条件であり、これに関する決定権限を欠いた「教学」の自治が成り立ちうるか疑わしい。教学事項と経営事項はことの性質上オーバーラップし、仮に両者を管轄する機関を分けるとすれば、両者の権限関係は重要な争点になる。

 その点で、「概要」が「最終報告」からも12月のバージョンからも後退している点を指摘しておかなければならない。それは、「概要」において、「教育研究組織」が教育研究評議会(以下、単に評議会)の審議事項(ただし例示列挙)から脱落したことである。

 「最終報告」は、「教育研究組織」を評議会の審議事項とし、「組織編成」を運営協議会の審議事項としていた。この時点ですでに両者の関係は問題となりえたのであるが、少なくとも「教育研究組織」(の新設・廃止・再編など)が評議会の審議事項として明示的に示されていたのである。これは、12月バージョンまで維持された。すなわち、教育研究組織の編成という教育研究の基本にかかわる事柄は教育研究サイドで決定すべきである(制度上は審議)という考え方が存在していたと言いうるのである。「概要」において、これは単純に脱落し、「意見」はこの点について沈黙している。他方、「概要」においては、経営協議会の審議事項からも「組織編成」が脱落している。この点が明示的に示されているのは、役員会の議決事項「重要な組織の設置・廃止」である(6)。常識的には教育研究組織の再編成は評議会の審議事項「教育研究に関する重要事項」(13)に当たるであろう。しかし、「教育研究組織」が評議会に固有の明示的な審議事項として脱落したことは、評議会の権限を弱める可能性をもっている同じ条項における教員人事の項目について想起すればそれは明らかであろう。この点に関する経営協議会の発言権の強化を背景にしたトップダウンによる教育研究組織の再編がなされる可能性が強まると言える。そして、それは、この間の「法人化」をすすめる政策の核心の一つであった。「経営的に」ペイしない研究分野・研究教育組織の存続は脅かされるであろう

 

 最後に、「意見」がふれる「業務規定」について述べよう。「概要」の「業務に関する規定を置く」(20)に関して、「意見」は、「教育研究評議会は国立大学の教育研究に関する重要事項を審議する立場から国立大学法人の各種業務に関して審議を行なうことができるものとして認識しており、そのような枠組みとされたい」(III「業務規定について」)という要望を出している。これは、「概要」の枠組みが、「法人」の業務に関して評議会が発言権をもたない構造になっていることを示している。「意見」は、その意に反して、「概要」の重大な欠陥を指摘していることになる。そして、この要望が受け入れられる保証もない。

 

5.             学長の選考と権限

 

 すでにこれまでの文脈からも明らかであるが、学長の権限はきわめて強大なものになる。制度的に見れば、大学運営の基本的な事項について決定権を有する(6)ほか、二つの審議機関、「経営協議会」と「教育研究評議会」のいずれをも主宰する議長になるのである(10および14)。「最終報告」は、「学長は、…[運営協議会と評議会の]審議を踏まえ、最終的な意思決定を行う」としており、そこに示された機構図は、あたかも運営協議会と評議会という審議機関と執行機関としての学長を含む役員会とがそれぞれ独立しているかのようなイメージで描かれている。しかし、「概要」の描く機構はそのようなものではまったくない。二つの審議機関の双方について学長・役員が正規メンバーとして参加し、かつ学長がそれらを主宰するのである。制度を観察するかぎりでは、それは、学長・役員会の専決体制と言ってよいものになっている。しかも、役員=理事は、学長が任命するのである(17)。明らかに、「概要」の制度設計の仕方は、「最終報告」よりも一層トップダウンの色彩を強めている。それは、他の組織に類例を見ないものだと言ってよい

 「意見」がこの重大な点について何も言わないのは奇異と言うほかない。「意見」が述べるのは、ただ1点、学長選考会議の議長を学長以外にすべきであるという点にすぎない(III「学長選考について」)。学長を選考するための会議を現職の学長が主宰するなどとは常識的に考えられない。「意見」がこのような要望をするとは、法制化グループではそのようなこともありうると考えているのであろうか。

              すでに法案草案では、学長以外の議長が想定されている。このような問題をあたかも国大協が自主的に「要望」しているかのごとき装いをこらすのは欺瞞以外のなにものでもない。

 

 このように学長に権限が集中するということは、そのような学長をコントロールすることができれば、大学外の権力が「国立大学法人」と「国立大学」とをともに支配しうるということを意味するであろう。そのような学長を大学外からコントロールするためのトゥールのひとつが、学長選考会議における学外委員の高いウェイト(最大2分の1)であり、他のひとつが、解任手続きである。解任事由に「業務悪化」が加えられたこと(19)により、大学評価と解任手続きは一体となって学長を外部からコントロールする有力な手段になりうる。さらに、より実際的な面から見れば、学長がこのような強大な権限をすべて単独で行使しうるわけがない。実際上は、役員会が集中した権限を行使することになる。役員会を構成する「理事」に学外者を含まねばならない(16)という規定もまた、同様の役割を果たしうるのである

 

6 むすび

 

 他に触れなければならないことも多いが、「最終報告」に関してなされてきた議論との重複を避ければ、「概要」の主要な論点は以上のようなものである。

 検討の結果を要約すれば、「概要」は、「最終報告」から後退しているだけでなく、その12月バージョンからも後退している。その核心は、国大協「重要論点」のいう「現在の国立大学法制」からますます遠ざかっているということである。「最終報告」との関係で言えば、重要な設置形態の点が180度ひっくり返っただけでなく、学外者の発言権が強化され、学長権限もまた強化されたということである。「概要」によってもたらされるであろう大学像は、現行法制が予定するそれとはまったく異質なものになる可能性が高い

 法制化グループ「意見」は、「概要」が「最終報告」にも、国大協「重要論点」にも反しないと強弁する。しかし、「意見」のほとんどは、本質的でない些細な点(例えばII-4の「法制上の要請」)を強調したり、単純に詭弁を弄したりするものになっている。われわれは、この「意見」が国大協の総意ではないと信じたい。「意見」は、「重要論点」や同じ法制化グループの昨年9月20日メモとさえ明白に相違しているからである。国大協は断固、「概要」と「概要」に基づく法案策定を拒否すべきである

 「概要」と「概要」に基づく法案策定は、「大学の自治」を破壊し、大学のあり方を根本から変えることになる。