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☆大学改革−−quo vadis, Domine井出 嘉憲(長野大学学長)
 .教育学術新聞 2003-01-22
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教育学術新聞 2003-01-22

                    大学改革−−quo vadis, Domine?

                      井出 嘉憲(長野大学学長)

「改革」は状況認識に発し、課題認識に導かれる。状況=課題認識があやふや
であれば、改革との取り組みもあいまいになる。

1980年代に、日本学術会議の訪英ミッションに加わり、オックスブリッジなど、
自己評価制度の導入に揺れるイギリスの大学改革の実状を見聞した時、彼此の
大学をめぐる状況=課題認識の差異を痛感させられた。

1990年代に米国で、AAHEなどの諸機関を訪ね、大学院を含む高等教育機関のア
クレディテーションの仕組みと運用実態について調べたときにも、同様の印象
を強く抱かされた。

今や我が国でも、大学改革のうねりが渦巻いている。少し前には考えられなかっ
たような大変動が、あれよあれよという間に現実のものとなり、抗しがたい時
の勢いとなって大学に押し寄せている。パラダイム変動に比せられる改革の動
きが、果たして、どれだけ内容のある主体的な状況=課題認識に導かれている
のかは、実は、甚だ心もとない。状況=課題は、主体の認識にかかわっており、
その意味では、改革主体としての大学の認識そのものが問われていることにな
る。

考えてみると、いうところの「構造改革」を始め、日本の命運にかかわるさま
ざまの改革や戦略・政策の選択についてみても、そもそも状況=課題のとらえ
方には、周知の「問題先送り」に端的に象徴されるように、"パーセプション
のにぶさ、やわさ"がつきまとっているといえるかも知れない。

課題認識がなおざりで、やわなものにととまっているとしたら、対応は状況に
流され、その場しのぎの、小手先ないし現状糊塗の対応策に終わり、改善どこ
ろか、逆に改悪にさえなりかねない。大学改革についても「改革という名の崩
壊」が論じられていることは周知のとおりである。

改革すなわち、"リフォーム"(語源は、"re=formare")は、本義は、"to
convert into another and better form" を意味するが、同時に、"to alter
to a worse state" の反義も内包する(ODE)。改革の名の下に、どこに行くの
かーーー"quo vadis, Domine?"

「未」年を6回重ね、国公立大学を経て、いま地方の小さな私立大学("公設民
営" 型の先駆的実験モデルとも目される生い立ちを持つ)に籍を置く者の悩み
は尽きない。
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