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独行法反対首都圏ネットワーク

☆東京大学卒業式総長告辞
 
.[he-forum 3753] 東京大学卒業式総長告辞より
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東京大学卒業式総長告辞

http://www.u-tokyo.ac.jp/jpn/president/index.html

理系2002年3月28日
文系2002年3月28日

(前略)

 ところで人生は歴史の刻印を免れることはできません。日本が高度成長を謳
歌していた時代には時間は常にわれわれの味方であり、個人の能力その他を不
問に付すような形でシステムが魔法のような効果を発揮しているように見えま
した。しかし、皆さんが物心ついて以降はシステムの機能不全が目立ち、時間
は無気味なクレバスをあけてわれわれを待っているように見えてきました。相
互信頼過剰と見られていた日本社会は今や相互不信増幅社会となり、他のバッ
シングによって自らの免罪符を手に入れようとする粗雑な議論が横行するよう
になりました。その典型的なものとして、日本経済の不振の最大の原因を大学
の研究教育に求めるような議論があります。しかし、あたかも大学が莫大な不
良債権の原因であるかのような議論は正気の議論とも思えません。また、大学
から成功赫赫たるベンチャ−企業が大量に発生し、そこに日本経済の回復シナ
リオの一つの核心があるといった発言が新聞紙上に溢れていますが、私はこう
した議論が「奇跡」頼みのものではないかということを心から恐れております。
他の先進諸国と比較して日本の高等教育への投資が対GDP比で圧倒的に低い
ことはすでによく知られております。それは皆さんがこの数年間を過ごした施
設の貧弱さに如実に現れております。こうした事実を無視し、その上極端な悲
観論に基づいて勝手な大学バッシングを繰り広げることは自ら墓穴を掘るよう
なものです。

 この過度の楽観論と過度の悲観論の振幅は日本社会に特有のものではありま
せんが、日本社会がこの一世紀の間に二つのシステムについてこの巨大な振幅
を味わったことははっきりしています。言うまでもなく、大日本帝国システム
と高度経済成長システムの二つをめぐる歴史ドラマがそれに相当します。これ
はわれわれのユニ−クな歴史的経験です。少なくとも、他のアジア近隣諸国に
はこうした経験は皆無です。しかし、このユニ−クさを指摘して満足すること
がここでのテ−マではありません。

 問題の核心は二つあります。第一は、何故にこのような極端な振幅が起こっ
たのか、特に、何故にこうしたシステムの失敗が起こったのかという問題です。
勿論、外部勢力の「陰謀」に全ての原因を求めようとする人々に事欠くもので
はありません。そこでもっと限定的にいえば、仮にわれわれのシステムに問題
があったとすればそれはどこにあったのかという問いかけです。夏目漱石の
『三四郎』の冒頭部分において三四郎が日本は「亡びるね」という言葉を発す
る人物に出会って驚愕する場面がありますが、その場面に示唆されているよう
に問題が知的、精神的なものであればわれわれそれぞれの問題であり、特に、
大学において教育に従事している者は無視するわけにはいきません。これは技
術的・専門的知識の問題とは次元を異にした思考態度に関わるものであり、人
間の社会生活に関わる重要問題の洞察力と解決能力に基本的な問題があったと
いうことでしょう。

 第二は、この二つのシステムをかつてと同じように繰り返すことはできない
し、あるいは、すべきでないという点に関わります。今から百年前に立ち戻り、
ナイ−ブに自らの可能性について構想するにはわれわれは余りにも重い歴史体
験を重ねてしまいました。丁度今から百年前、本学の前身の一つである第一高
等学校の寮歌として有名な「嗚呼玉杯に花うけて」が発表されましたが、あそ
こに漂う健康なナイ−ブさをわれわれは失ってしまいました。しかし、そのこ
とを嘆いたり、過去を「なかったことにする」のは新たな混乱と新たな失敗の
原因を自ら作ることにつながるだけです。むしろ、それらを精神的な糧として
将来のシステムを構想することが課題だと考えられます。次のシステムの実像
はこれから刻まれ、自らの資源と制約条件の下で創造されなければなりません。
しかし、兵器やモノ、カネに頼り切るよりも知恵と自発性を軸に新たな公共性
を構想することを前提にするものであることは容易に想像されます。その意味
でナショナリズムと経済成長という二十世紀的シナリオしか見られないこの地
域において先駆的な意味を持つ試みと考えられます。皆さんの世代が見事にこ
の挑戦において成果をあげるよう大いに期待しております。

(後略)


博士課程2002年3月29日

(前略)

 ここで、皆さんの前途に横たわっている一つの大きな社会的問題に言及せざ
るを得ません。それは大学・研究所を除き、日本の諸組織が博士号を持つ人々
に対して極めて閉鎖的であるという点です。この状態を解消しない限り、日本
における人材の有効活用は極めて困難であるというのがわれわれの判断です。
一方で、日本の組織は官庁に見られるように学位に無関心なところがあり、長
い間にわたってそれに安住してきました。昨今、高度先端技術開発による産業
の活性化が言われつつも、事態に大きな変化が起こっているという話はほとん
ど耳にしません。大学の知的資源の活用を唱えつつ、博士号修得者に門戸を広
く開けるわけでもないということでは、日本の経営者は一体何を考えているの
か分からなくなります。文部科学省は博士号修得者を採用するメリットを訴え
始めておりますが、その影響はなお限定的であるといわざるを得ません。他方、
大学の方はこの三十年余り、学問研究のための学問研究の傾向がますます強く
なって来ました。これは私の体験からしてもかなり確実に言えることです。そ
してそれが日本の研究水準の国際的飛躍など多くのプラスを生み出してきた反
面、先のように博士号修得者の増加にもかかわらずその活動の場がなかなか広
がらないという現象の一因になったとも考えられます。ご存じのように、現在
は博士号修得者への門戸開放よりも、専ら産学連携の推進に傾いている状況に
あります。

 この問題について大学にできることは限られていますし、特に、即効性のあ
る対策が手許にあるわけではありません。しかし、この問題を超えてわれわれ
研究者として考えるべき点として、「何のために」(for w hat ? )
という発想をもう少し念頭に置くという課題が考えられます。改めて述べるま
でもなく、この問題は細心の注意を払って取り扱う必要があります。若し、
「何のために」を極めて即物的で目先の利便性といったものに限定するような
ことがあれば、学術研究は自滅の道を辿ることになります。実際、大学という
組織の最大の特徴はそのメンバ−がこの「何のために」を極めて自由に設定し、
自由に構想することができる点にあります。このことを放棄すれば大学は自滅
するか、他の組織と大差のないものになってしまいます。従って、世間の目か
らすれば甚だ迂遠としか言えない「何のために」であっても大学はそれを守ら
なければなりませんし、守るべきです。しかし、このことと学問研究はおよそ
「何のために」という発想と無関係であるべきだという主張とは違います。

 私がここで言おうとしているのは、この「何のために」をもう少し意識に上
らせ、そうしたことについてお互いに語ることを躊躇しないようにしようとい
うことに尽きます。先程の言葉を使えば、「何のために」という問いは「内面
のバネ」とも決して無関係ではないでしょう。そして、基礎とか実用とかいっ
た既存の枠組みに頼って事柄を処理することは却ってこの問いの顕在化を妨げ
ることにつながります。互いの研究に十分な敬意を払いながら、新たな飛躍と
結合を求めてこうした語り方をもっと日常化させていくことは研究者としての
大事な任務であると考えます。これは今後の大学運営においても大事なポイン
トですが、そのことはまた研究者と社会との接点を広げ、やがては人材の流動
化にもつながる可能性を秘めているように思われます。

(後略)