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独行法反対首都圏ネットワーク

国大協臨時総会は「検討結果」を了承できない

2002年4月16日

独立行政法人反対首都圏ネットワーク事務局

 2002年4月1日に国大協の設置形態検討特別委員会は、「最終報告「新しい『国立大学法人』像について」の検討結果」と題する文書を作成した(http://www.ne.jp/asahi/tousyoku/hp/nethe3750.htm)。この文書は、4月12日の臨時理事会に提出され、そこで「大筋で了承」されたと言う(『日本経済新聞』4月13日付)。4月19日の臨時国大協総会は、この文書とそれを「了承」した臨時理事会の立場を検討する決定的に重要な場となる。

 この文書の内容は以下にみる通り、国大協の従来の立場と照合してみても、極めて問題の多いものである。臨時総会では、この文書を批判し、国大協の立場の明確化をはかることが強く求められる。

一、「総評」について

 「検討結果」では、「最終報告の法人像は、(中略)国立大学におおむね適合的な法人像になっている。」とする。しかし、最終報告は独立行政法人通則法の基本的枠組みをそのまま踏襲するものであり、「通則法にもとづく法人化に反対」という国大協の従来の立場から見て、どうして「おおむね適合的」と言えるのか理解に苦しむ。この問題は、憲法23条の「学問の自由」と大学自治の根幹に関わるものであり、「おおむね」などという曖昧な表現で解消しうる論点ではない。

 また、「検討結果」は、「最終報告」が「高等教育・学術研究等への効果的で十分な支援について責任が問われる」としていることをもって、「国の責任が明示されている。」と評価するが、「最終報告」には、具体的に高等教育予算をどうするのか、まったく明言されていない。それをどうして「明示されている」と読むことができるのだろうか。

 そもそも、中間報告に対する国大協の「意見」(2001年10月29日)においては、「国と大学の関係」について、「国の管理を最小化するといった観点が必要」と述べていた。「最終報告」を全体として見れば、構造改革の一環として、産業競争力強化のために大学を利用し、むしろ「国の管理」を最大化することが目的となっている。これを批判しない「検討結果」は、国大協の基本的見地さえ裏切るものとなっている。

二、運営組織

 「検討結果」は「最終報告」が経営と教学の一致をうたっている点を評価して、「一定の配慮がなされている」としている。しかし、この運営組織案は、評議会から経営権限を剥奪することを目的としたものと見なければならない。加えて、運営協議会が「主に経営に関する」と「主に」が追加され、教学にも介入する余地を作ったことを過小評価している。さらに、国大協の中間報告に対する意見では、「運営協議会」が「経営」事項として審議する事項を、「明確に列挙して特定すべきである」としていた。そうした限定が最終報告では実現されていないばかりか、教学への容喙も可能となっていることを、いったいどう考えるのか。

三、非公務員型

 「検討結果」では、「非公務員型の長所」について縷々語っているが、非公務員化が教職員の身分に関わるものであるだけでなく、教育公務員特例法の不適用を最大の目的としていることに触れていない。さらに、「非公務員型で任期制を広く導入するための法整備や労使関係を円滑に処理する仕組み、国家公務員に準じる公共性の確保、職員身分の切り替えに伴う各種の代替措置や移行の問題など、なお検討課題が多い」としている。そうであるのなら、第一に、このままの形態では非公務員型は不可能であると結論するのが当然である。第二に、ここで国大協は任期法の三類型をこえて任期制を大々的に導入する立場に移行している。第三に、非公務員化の問題は、国立大学にとどまらず、旧国研の非公務員化に道を開くと同時に、教特法が事実上準用されていた私立大学の自治にも決定的な影響を与えることが看過されている。

四、教員等の人事

 「検討結果」は教員等の人事について、国大協が教特法に代わる法令化を求めてきたとしている。しかし、「最終報告」では法令化について全く語っていないのであるから、この点でも国大協の意見は容れられていない、と解すべきである。また、学部長等の選考について「教員と同様の基準・手続き等を採りうると解する」と言う。「解する」というのは希望的観測であろうか、それとも「落し所」を探る姑息な手段であろうか。

五、学長選考

 この点では、「検討結果」は「ある程度大学ごとの工夫の余地も残すものと理解する」としているが、文部科学省が「工夫の余地」を認めることの保障はない。大学構成員による学長選挙を極力排除しようとする最終報告は、ついには「意向聴取対象者」なる嗤うべき概念まで生み出している。学長の解任についても、文科相の発議によって解任手続きが開始されることに全く警戒心がないことに驚かされる。

六、目標・評価

 中期目標については、「最終報告」では、「文部科学大臣」が「定める」としている。「定める」というのは、文言の上でもまたスキームの点からも通則法そのままであり、どのような限定を設けたとしても、国大協の立場から見て到底容認できるものではないはずである。 本来、国大協の立場は「各大学が「作成」し、文部科学大臣が「認可」するという方式を採用すべきである」(中間報告への意見)であった。私たちは、もとより「認可」という形態を容認するものではないが、よしんばその立場を取ったとしても、文科相が「定める」という最終報告は、国大協の立場と矛盾することは明らかである。

 ところが、「検討結果」では「かなり大学らしい特徴が出るようになった」と評価しており、全く理解できない。国大協の中間報告に対する意見では、「学術研究と高等教育の特性にさらに配慮していく必要がある」と述べていたが、国大協は、最終報告ではいかなる「配慮」によって「大学らしい特徴」が出るようになったと評価するのか明示する責任がある。これは「運用上の考慮」によっては解消することのできない根源的な問題である。

七、財務会計

 「検討結果」が言うように、「最終報告」には、「高等教育や科学技術・学術研究に対する公的支援を拡充する」具体的な方法は書かれていない。具体的な方法なしの「口約束」だけでは、法人化を受け入れる論拠となりえない。そもそも、国大協の中間報告に対する意見書では、財政的基盤の問題を「法人化の前提となるべき」ものと述べていた。「前提」が実現されていないのだから、「法人化」も不可能というのが論理的帰結である。

おわりに

 総じて、「検討結果」では、一方で、国大協のこれまでの立場から見て、問題である点を種々列挙しているにもかかわらず、結論のみが「おおむね適合的」という容認路線となっている点が不可解と言う他ない。「検討結果」は、はじめに容認を前提として、あとから看過に看過を重ねた「論拠」を連ねるという形式を取った摩訶不思議な文書である。このような文書を国大協として認めるなどということはありえない