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独行法反対首都圏ネットワーク

☆独法化問題をめぐるイデオロギー 
. [he-forum 2980] 独法化問題をめぐるイデオロギーup11/26.-

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佐賀大学の豊島です.
独法化問題をめぐっての思想状況について私なりに分析してみました.でも物理の
人間によるイデオロギー論などはだれもまともには受け取ってくれないと思います
ので,是非とも専門の方に徹底批判なり何なり是非ともフォローをお願いします.
専門外の事なので,たとえどよのうにけなされても落ち込むことはありません.

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http://pegasus.phys.saga-u.ac.jp/UniversityIssues/ideology.html

独法化問題をめぐるイデオロギー
                       佐賀大学 豊島耕一

国立大学の独法化問題については,他の政治的アジェンダに対する反応に対比して,
一般の知識人だけでなく国立大学内部でもこれを重視した反対発言が少な過ぎるよ
うに思われる.しかも知識人の相当のパーセンテージが所属するであろう国立大学
において,みずからの職場のありかたについての問題であるにもかかわらずこのよ
うな情況にあるというのは,私にはどうにも理解しがたいことである.その理由を
考察し,少しでも阻止運動の助けになることを期して,以下の分析を提案したい.

1.反対派自身の問題a--- 独法化を民営化への「単なる」ステップととらえてい
るのではないか?
 反対論の中にも,これを教育基本法や憲法との関わりで論じる割合は未だに少な
いし,これらに言及する場合でもいわば「儀礼的」なものに止まっているようだ.
憲法にかかわる問題,しかも自分の職場が直接関係する「憲法問題」に,国立大学
のいわば「進歩的」著名人が鋭い反応を示さないというのは大きな謎である.おそ
らくこれが憲法問題であるとの,すなわち憲法23条の「解釈改憲」であり,それと
密接した教育基本法10条の実質改訂とも言える問題であるという認識がなされてい
ないのではないだろうか.
 このような態度の背景には,この問題を「新自由主義」イデオロギーの文脈でだ
け,あるいはこれをほとんど支配的な要素としてとらえるという姿勢があるのでは
ないかと思われる.つまり今日の支配のもう一つの重要な要素である「国家主義イ
デオロギー」を軽視しているのではないか,ということである.「新自由主義」の
テーゼは「小さな政府」であり,それが国家統制などを打ち出してくるはずはない
し,かりにあったとしてもそれは「マージナル」なものであろうというわけである.
このような見方からは独法化が持つ国家統制の危険性は重大なものとしては受け止
められないだろうし,「解釈改憲」との危機感も生まれにくいであろう.
 一ツ橋大学の渡辺治氏による「憲法『改正』は何をめざすか」(1) は,九条問題を
中心に網羅的かつ鋭い分析として多くの人に読まれるべき優れた文書だと思う.し
かし改憲のイデオロギー的な動機をほとんど「新自由主義」のみに求めているよう
に思われる.国家主義への言及は小林よしのり等在野の「ネオ・ナショナリズム」
だけしか俎上にあげられていない.しかし「官」による国家主義イデオロギーの布
教と強制は,おそらく世界に冠たるイデオロギー官庁である文部科学省*を中心に
系統的かつ強力に,そして休むことなく推進されているのである.このことがいわ
ば日本的特徴としてもっと重視されるべきであろう.強力な軍隊は「新自由主義」
だけでは支えきれないはずだ.
 もちろんこれは日本だけの話ではない.しかし例えばアメリカでは,伝統的な軍
事国家としてのイデオロギーと文化の体系は,一度も本格的に否定された経験のな
い無傷のミリタリズムとして,そしてこれを戦前からの確固たる資産として保有し
ており,あらたにメンタルな「インフラ」として整備する必要はないのである.こ
れに対して一度全面否定された我が国ではそうはいかず,どうしても再構築が必要
なはずである.

2.反対派自身の問題b --- 「ガッツ」ないしエンパワーメントの問題
 これは知識人にありがちな職業病的な傾向かも知れないが,社会現象を単に
objectiveな対象と見なし,自分はそれを観察し,評価し,予測する,という限りに
おいてだけしかこれにかかわらないという態度も見られるのではないか.(しかし
そのような人でもなぜか自分の属する狭い社会,例えば講座や教室のことなどにな
ると決して黙ってはいない.)このような態度は民主主義とは,特に国家のスケー
ルでの民主主義とは相いれないものであることに気付くべきだろう.
 このような態度はまた,ガッツ(guts)とか気概といった言葉を「精神主義」と
見なしがちで,そのような気風が蔓延していることも運動の停滞の大きな原因では
ないだろうか.イデオロギー化した科学主義と言ってもいいだろう.しかし人間社
会に起きる変化においては,少数の集団であってもそれが持つ士気の高さ,ガッツ
という要素が担う度合いは決して少なくない.運動は「数」だけではなく,数×ガッ
ツの積分によって推進されるのであり,またそれ自身が非線形に再生産され発展す
るものだとの認識が重要である.これこそが科学的な見方というものだろう.

3.体制派の問題 --- シニアおよび中堅世代の「挫折」と「転向」
 現在の管理者層を構成する60歳前後の世代は「60年安保」を,そして準管理者
層ないし中堅層を構成する50歳代は,ベトナム反戦,「70年安保」,そして大学
紛争をその青春時代に経験しており,それなりに社会や政治への関心を開かせるの
に十分な社会環境があった.単に事件があったというのではなく,それに対しての
大衆運動など集団的な係わり合いが確固として存在した,という意味での環境であ
る.そして実際に多くの人々が何らかの実践に関与してもいる.(それに比べてポ
スト紛争世代が社会問題にみずから関わりを持とうとすることが相対的に少ないの
は統計的にやむを得ない.)
 しかしそれらの世代の一部はみずからの重要な経験を「挫折」の言葉で単なる青
春の感傷に変えてしまったのではないだろうか.また一部の人たちはソ連の崩壊と
ともにかつて心に抱いた全社会的ないし地球的スケールの理想までも清算してしまっ
たかのようも見える.そしてそれらの人々にとっては現在の社会には重大な矛盾な
ど存在せず,民主的に形成されているはずの政府とその官僚らといかにうまくやっ
ていくかという事が中心テーマとなってしまったようである.(実際,東欧・ソ連
の崩壊と時期を同じくして社会体制に対する批判精神の社会的積分値が大きく減退
しているのは世界的現象のようでもある.)
 このような態度は,遡ってそれらの人々が描いた理想を単なる「若気の至り」だっ
たり,あるいはソ連への信仰にすぎなかったということにしてしまうのではないか,
つまりみずからの過去を貶めることになってしまうのではないだろうかと思う.と
いうのは,個人的な道徳心に根ざした理想ではなく,単なる青臭さやあるいはイデ
オロギーの表現でしかなかった,という様に過去を「再定義」してしまうと思われ
るからである.
 しかし現実をよく見ると,この世界には重大な矛盾が存在しないどころではない.
冷戦が終わったにもかかわらず大量の核兵器が存在し配備され続けている事はその
矛盾の象徴である.では矛盾解決の指針とすべき理想が消え失せたのだろうか?そ
んなことももちろんない.「世界人権宣言」はグローバルかつコンスタントな「ス
タンダード」であるが,今なおまだその達成からは程遠い目指すべき理想として存
在しており,心ある人にとっては使命感や義務感をかき立てる主題としての輝きを
失ってはいないはずだ.
 したがって,かつての社会問題への関心と関わりとを上のように全面否定するの
ではなく,それらを今日的に「グローバル」に再定義し,その文脈で国内の諸問題
をも分析し直すことをお願いしたい.そして民主主義とは「永久革命」の制度化で
あったことを思い起こし,そのプロセスが阻害されないための社会的工夫や運動に
関心を向けてもらいたいと思う.そしてそのような視点で独法化問題や「大学構造
改革」問題も捉えなおしていただきたい.

4.一般的共通問題 --- 封建的イデオロギーに対する免疫反応の活性化
 次に私は「反儒教キャンペーン」を唱えようとしているが,これを不思議に思わ
れる方が多いだろう.たしかに公式の文書ではだれも儒教や孔子などをあからさま
に引用したりはしない.中教審も大学審にも論語は出て来ない.しかし実はそれら
が出す膨大な文書に「権利」の二文字が一切,あるいはほとんど出現しないという
ことにその「儒教精神」が現れているのである.
 もちろん旧来の封建的なイデオロギーは儒教だけに結びついたものではないだろ
う.しかし若い世代にも「先輩・後輩」という言葉が根強く生き残っていることに
象徴されるように(孟子の「長幼の序」),旧来の封建的文化は今日でも重要な役
割を果たしている.これに何らかのラベルを付けることによって「可視化」しない
限り,これを退治することも出来ないのである.ちょうど免疫システムにおいてマ
クロファージが侵入者のたんぱくの一片を「抗原提示」するように,日常生活の中
に現れるこの中世からの病原体の断片を常に提示する必要がある.この提示の役割
をするものは言葉であり,その実体に最も近似するものとしての「儒教イデオロ
ギー」という言葉を提案したいのである.
 日常生活では見えにくいかも知れないが,多少なりともフォーマルな「会議」と
もなれば,参加者の儒教的行動パターンがだれにも容易に観察できるはずだ.例え
ば沈黙を美徳とする風習は教授会(おそらく国大協総会も?)における出席者の行
儀の良さに大きく貢献しており,これは論語の「巧言令色鮮なし仁」にその責任の
一部を負わせられよう.そして権威づけられた「決定」として社会を支配するのも
この種の会議なのである.
 決して良い記憶ではないが,儒教批判と称してかつて中国で「批林・批孔」のス
ローガンが使われた.リズム感は悪くないので,もしこれを借用するとすれば
「林」の代わりに誰を入れたらよいかを考える必要がある.韓国では儒教批判の本
(2)が大量に売れているとのことだが,我が国ではこの分野はまだ緒に着いたばかり
である(3).
 「儒教イデオロギー」のコロラリーとして「忠臣蔵イデオロギー」や「水戸黄門
イデオロギー」も提案したい.前者は「藩」あるいは「学部」のような小さな集団
への忠誠を普遍的な価値--例えば「学問の自由」--よりも上に置くという,いわゆ
る「生き残り論」に貢献している.また後者の不断の供給源は同名のテレビの永年
番組であるが,これが視聴者の意識下に毎週送り続けるメッセージは「権力は究極
的には善である」というものである.どちらも「法の支配」の理念や民主主義にとっ
て有害なものである.(2001.11.26,ver.1.0)

(1) 岩波ブックレットNo.547,2001年10月
(2) 邦訳:金経一,「孔子が死んでこそ国が生きる」,千早書房,2000年.
(3) 浅野裕一,「儒教 ルサンチマンの宗教」,平凡社,1999年
*「さざれ石」は文部科学省の中庭に実在するらしい.

TOYOSHIMA Kouichi
Dept. Phys., Univ. of Saga
豊島耕一,佐賀大学理工学部物理科学科