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独行法反対首都圏ネットワーク

☆国立大法人化 問われる自らの責任と自主性 
. [he-forum 2900] 福井新聞社説10/17.-up11/16-

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『福井新聞』社説  2001年10月17日付

国立大法人化 問われる自らの責任と自主性

 文部科学省が検討していた国立大学法人化の中間報告が先ごろ公表された。

 予算や組織などに関する国の規制を大幅に緩和、大学の裁量を広げる一方で、
評価に基づく資源配分を徹底するなど経営責任を明確化するというのが骨格だ。

 行政機関の一部としてカネや人、教育研究組織などさまざまな面で、国が大
学を縛りつけていた事前規制を緩め、日常の運営は大学に任せようというもの
だ。大学の自主性や自律性が広がるなら歓迎する。

 しかし報告では、評価結果をどう資源配分につなげるかなど肝心な部分が不
明確だ。各大学の中期計画を文部科学省が認可するとしている点を含め、運用
次第では、逆に国のコントロールが強まりかねないところもある。

 目指すべきは、大学の自主性・自律性拡大だ。これをどう具体的に担保する
のか。最終報告までに制度運用の中身まで踏み込んだ提示を求めたい。

 国立大学は、国による「統制」と、その裏返しの「庇護(ひご)」のなかで、
ずっとぬるま湯につかり、自己変革のエネルギーと社会に対する緊張感を失っ
てきた。

 改革は、徹底して大学に任せ、大学が責任をとる仕組みをつくることから始
めなければならない。国立大学を政府の下請けにしてはならない。行革論議で
浮上した「独立行政法人」の枠組みから、組み替えることも必要だろう。

 評価結果の資源配分への反映も、気になる点だ。配分と評価のリンクは、一
歩間違うと国によるコントロールに直結する。税金の投入だからチェックは必
要だが、国の統制から自由でなければ独創的研究は育たない。

 大学への学外者の参加も今回の目玉の一つだ。閉ざされた大学を開くのは結
構だが、開き方まで国が決めるようなやり方は疑問だ。大学の主体性に任せる
べきだろう。必要なのは大学の活力を引き出すことだ。

 ともあれ、大学の裁量は大幅に広がり、大学の自己責任が厳しく問われるこ
とになる。使い道を特定しない交付金をどう学内に配分するか。どんな教育研
究を組み立てるか。まず問われるのは大学の見識である。

 管理も経営も、大学が主役になる。既得権を守るだけの自治では、もう済ま
ない。右肩上がりの時代ではない。改革はスクラップ・アンド・ビルドのリス
トラ型になる。

 学内のあつれきを調整し、与えられた「大学の自治」でなく自分たちでつく
り上げる自治を目指さなければならない。