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独行法反対首都圏ネットワーク

☆教育基本法問題 新聞社説集   更新記録=11月28日、12月1日(1本)、12月4日(1本),12月5日(1本)


『佐賀新聞』社説  2001年12月4日付

 教育基本法 希薄な見直し理由

 文部科学省は中央教育審議会に教育基本法見直しを諮問した。諮問は人格の完成など普遍的理念は維持し、不足している事項について、一年をかけ論議していくという。だが、諮問内容からはなぜ今、見直しなのか、確たる理由がなかなか見つからない。

 文科省は、見直しの視点として@時代の変化に対応A個人の能力や才能を伸ばすB伝統、文化の尊重や日本人としての自覚を促す−などを挙げている。

 だが、今の基本法があるために、できないことがあるわけではない。現に文科省も「いま改正しないとできない施策はない」と言っている。

 例えば「伝統、文化の尊重」などは学習指導要領にも盛り込まれている。生涯学習や家庭の役割の明確化という見直しの観点も示されたが、これも既に趣旨は盛られている。

 諮問が弊害として強調している過度の画一主義も、中央集権的な教育行政に起因するもので、基本法のせいではない。

 基本法制定に当たった当時の文部官僚らが、制定の後に著した「教育基本法の解説」というものがある。教育の機会均等について「すべての児童や青年に同一の教育を与えることではない。個人差に応じる教育を施すことが個性を完成する…」としていることからも分かるだろう。

 今回の見直し諮問は、戦前の教育勅語の再評価をいう森喜朗前首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」が改正に向けた「お墨付き」を与えたことが発端だ。

 昨年末、同会議の報告を受けた町村信孝前文相も抜本改正に意気込みを見せていた。しかし、首相も文相も代わり、諮問は、そのような流れのものにはならなかった。

 基本法見直しは戦後、何回か政治日程に上ったことがある。愛国心を強調しようとする改正論が起きたが、広範な世論の支持を得ることなく今日に至っている。

 今回も、ただちに国家主義的な観点を強調する改正にはならないだろうが、ほかの基本法と同様の「政策型」に性格を変えることを視野に入れており、憲法の平和主義や、民主主義との結びつきが弱まるのではないかとの見方がある。

 また一九四七年に制定、戦後教育の理念的な柱となってきた教育基本法の改正は、憲法改正への道を開くための足がかりにするものだと警戒する意見も上がっている。

 見直しを提起した教育改革国民会議は「国家至上主義的な考え方や全体主義的なものになってはならない」と、わざわざくぎを刺しているが、いったん見直し論が動き出すと憲法改正の露払いとするような不毛なイデオロギー論争に陥りかねない。

 それは、基本法改正をタブー視する護憲勢力と改憲派の政治的駆け引きという構図がつきまとい、教育の何が変わるのかを示しにくくなり、従って国民の関心を集められない−そのようなことにもつながりやすい。

 PTAも基本法問題への関心は高くないようだ。改正への必要性が国民的合意を得ているわけではない。

 いじめ、不登校、学級崩壊、学力低下…。いま、教育は多くの問題を抱えている。このような教育の荒廃が、基本法に不足があるために生じているのだろうか。論議の末、そうであるのなら、そこで見直せばいい。

 中教審論議は、あくまでも教育の現実に立ち、初めに「見直し」ありきの諮問とは距離を置いた論議を期待したい。(上杉芳久)

☆【教育基本法】見直す前に実践こそ 
.『高知新聞』社説  2001年12月03日付-up12/4 .-

『熊本日日新聞』社説  2001年11月28日付

 教育基本法見直し それで現場が変わるのか

 文部科学省が、中央教育審議会に教育基本法見直しを諮問した。

 昨年十二月に出された「教育改革国民会議」の最終報告を受け、抜本的な法改正を図るのが狙いである。文科省では、一年をめどに答申を得て、早ければ二○○三年の通常国会への改正案提出をめざすという。

 教育基本法は、一九四七(昭和二十二)年に制定された。前文の後段には「日本国憲法の精神に則(のっと)り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する」とあり、憲法とのかかわりが深いことから「教育の憲法」とまでいわれてきた。

 制定から五十四年が経過。(1)国際的共生や環境問題についての言及がない(2)「男女共学は認められなければならない」等の表現が今の実態にそぐわないなどの意見もあるが、基本法の掲げる平和と民主主義の精神が、戦後教育推進の柱となってきたのは間違いなかろう。

 それを見直すということである。だが、これまでの国民会議などの論議からは、法の見直しだけで教育改革や、教育現場の荒廃問題の解決につながるとはとても思えない。

 法律を少しいじっただけで、子どもの環境や意識が変わるわけでもあるまい。まして、基本法を見直さない限り、立案不可能な政策があるというわけでもなかろう。

 諮問によると、「人格の完成」など教育の目的を定めた第一条や、自発的精神を養うなど教育の方針を定めた第二条など普遍的な理念はそのまま維持。現行規定に不足している事項について論議を進めるという。

 国民会議の最終報告を受けた、当時の町村信孝文相が「あらあらの法案に近い形でまとめ、諮問したい。一からやり直すつもりでやりたい」と強い意欲を示したのと比べると、諮問そのものの意義が後退した印象は否めないところだ。

 遠山敦子文科相は、諮問理由の中で、現行の教育基本法について(1)時代や社会の変化への対応(2)創造性・独創性に富んだ人材の育成(3)伝統、文化の尊重など国家、社会の形成者として必要な資質の育成の三つの観点から議論が必要とした。

 (3)は、教育理念についての見直しの視点を示したものだが、基本法の前文には「普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底」とある。

 基本法の制定に携わった文部官僚たちが、その後著した「教育基本法の解説」では、「個性というのは、単に文化形成者個人の個性のみでなく、その人の属する民族、国民に固有な個性を含む」と述べている。つまり、提起されているこの項目は、既に織り込み済みの内容なのだ。

 学習指導要領に「文化と伝統を大切にし、国を愛する」(小学校の道徳)と盛り込まれているのもそのためである。「愛国心を養う」などの表現を、基本法に加えるよう主張する意見は、これらの事実を十分理解していないが故の発言であろう。

 文科省は、基本法見直しと同時に中長期的な政策目標と財政措置を示す「教育振興基本計画」の策定についても論議することを求めた。「教育のめざす姿を国民に明示する」ことは必要なことであり、策定を急ぐことに異論はないところだ。

 だが、基本法見直しとセットで検討を求める必然性は見当たらない。十年先の目標を立て、その財源を確保することは政府の責任で実施すべきものであり、理念を示す基本法の手直しとは別の問題ではないか。

 教育現場の問題を直視した上で、教育のあるべき姿や改革の具体的方策を導く論議をまず深めてほしい。


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教育基本法問題 新聞社説集

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『毎日新聞』社説  2001年11月27日付

基本法見直し 教育の現状踏まえた論議を

 教育の基本理念、原則を定め、50年余にわたって戦後教育のバックボーンになってきた教育基本法について、遠山敦子文部科学相は26日、「新しい時代にふさわしい在り方」を中央教育審議会に諮問した。基本法見直しを中教審に諮るのは初めてだ。
 諮問は、首相の私的諮問機関、教育改革国民会議の報告(昨年12月)を踏まえている。報告には、教育勅語の再評価を言う当時の森喜朗首相の強い意向を反映する形で、基本法の見直しが組み込まれた。町村信孝文相(当時)は「事務方であらあらの法案を作り、早期に諮問したい」と、抜本改正に意気込みを見せていた。

 しかし今回の諮問は、そうした流れのものにはならなかった。基本法の普遍的原理は維持し、現行規定に不足しているのは何かという視点で幅広く検討するよう求めるにとどめている。文科省自身の新基本法案は、示していない。

 首相も文相も代わり、政府の力の置きどころが変化したことが背景にあるが、注目されるのは、教育振興基本計画の策定について同時に諮問し、かつ基本法に先駆けての審議を求めたことだ。

 基本計画は、国民会議の報告にも盛られた。教育の目標や教育改革の基本的方向を打ち出し、その実現のために政府が実施すべき施策、教育投資の在り方を定めるものだ。閣議決定され、政府の計画という性格を持つ。諮問はまずこの基本計画の策定を目指し、次の段階で基本法の理念や原則を吟味するよう要請したのである。

 現実的な手法なのではないか。基本法は、極めてセンシティブな問題だ。一部保守派などからは、日本の歴史、伝統、国家、道徳の記述がないなど、改正を求める声が制定当初から出ていた。憲法改正の前段と位置付ける考え方もあり、戦前回帰を警戒する護憲派などは、強く反発。厳しい対立が続いてきた経緯がある。

 個人の信条や国家観ともかかわる理念的な問題であり、政治的な思惑もからむだけに、論議は、教育の現実とはかけ離れた、不毛な空中戦に陥りがちだ。そもそも伝統尊重にしろ、規範意識の確立にしろ、法律に書けば、それが現実のものになるとは限らない。

 やはり、教育の現状の何が問題で、今後のあるべき教育を実現するには何が必要か、を議論することから、始めるべきなのである。次代を担う子供たちの教育のための、財政的裏付けを持つ基本計画は確かに必要であり、実のある議論の取っ掛かりになるだろう。大方の支援が得られる計画に仕上げていくことが大切だ。

 その過程で、基本法に特定の規定があるために、あるいはないために、いじめや不登校、学級崩壊、学力低下などの問題現象が生じ、これからの教育を進める上で支障があるという認識にもし至れば、改めて論議すればよい。

 基本法を聖域とする必要はないが、「初めに改正ありき」では、失うものの方が多いだろう。中教審には、現実に立脚した、地に足の着いた論議を望みたい。


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『琉球新報』社説  2001年11月27日付

教育基本法・なぜいま見直しなのか


 文部科学省は二十六日、教育基本法改正について中教審に対して諮問した。昨年十二月の「教育改革国民会議」の最終報告を基に抜本的な改正を図るのが目的で、一年をめどに答申を得たいとしている。

 諮問内容を読むと、現在の教育基本法で十分に対応できることばかりで、なぜ今見直しが必要なのか、理解に苦しむ。

 たしかに学級崩壊、青少年の非行など日本の教育が抱える問題は深刻である。しかし、これは教育基本法を見直したところで改善できるものではない。

 教育基本法を見直すことより生かすほうが先だ。まず教育基本法の理念を国の教育行政、学校現場、地域、家庭で実践していくことが大切だ。

 諮問では教育理念について「伝統・文化の尊重など国家、社会の形成者として必要な資質の育成」と見直しの視点を示しているが、基本法前文には「普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造」とある。学習指導要領には「文化と伝統を大切にし、国を愛する」(小学校道徳)と既に盛り込まれている。

 諮問が、弊害として強調している過度の画一主義も、中央集権的な教育行政に起因するもので、基本法のせいではない。

 教育の目指すところも諮問の「人材・教育大国」でなく、基本法が掲げている「自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成」(前文)が国際協調の時代にふさわしい。

 先に小中高での奉仕活動の積極的推進などを盛り込んだ教育改革関連三法が成立した。

 教育基本法改正は戦後教育見直しの残された課題と位置付けられている。「この十年の間に、国家安全保障基本法、財政構造改革基本法を制定し、憲法と教育基本法を改正すれば日本の長期路線は確立できる」(中曽根康弘元首相、八月二十五日付朝刊「安保50年 問われる憲法/長老が語る戦後とこれから」)

 教育基本法改正を憲法改正の露払いにしようとする人々もいる。

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『山梨中央新報』社説  2001年11月27日付

教育基本法/見直しよりも具体的政策を

 文部科学省が中央教育審議会に教育基本法見直しを諮問した。教育基本計画の策定と合わせ、一年がかりで結論を出す。

 諮問によると、人格の完成など教育の目的を定めた第一条、自発的精神を養うなど教育の方針を定めた二条などの普遍的な理念は維持し、現行規定に不足している事項について論議していくという。

 昨年末、教育改革国民会議の報告を受けた町村信孝前文相が「あらあらの法案に近い形でまとめ、諮問したい。一から書き直すつもりでやりたい」とした姿勢から見れば、腰が引けた諮問である。

 だが、法律をいじったところで、子どもの現実が変わるわけではない。基本法があるためにできない政策があるわけでもない。諮問内容を読んでもなぜ今、見直しなのか納得できる理由があるとも思えない。分かるのは、初めに「見直し」という三文字ありきの姿勢だけである。

 諮問内容を見てみよう。

 教育理念については「伝統・文化の尊重など国家、社会の形成者として必要な資質の育成」という見直しの視点を示している。

 だが、基本法前文には「普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造」とある。

 法制定に当たった文部官僚らが、制定の後に著した「教育基本法の解説」では「個性というのは、単に文化形成者個人の個性のみでなく、その人の属する民族、国民に固有な個性を含む」とされている。提起された中身は既に織り込み済みだ。学習指導要領に「文化と伝統を大切にし、国を愛する」(小学校道徳)と盛り込まれているのもそのためだ。

 文部科学省は「理念を明確化することが必要だ」としているが、何のために明確化しなければならないのか、肝心の説明がない。

 見直しを提起した教育改革国民会議は「国家至上主義的考え方や全体主義的なものになってはならない」とくぎを刺しているが、いったん見直し論が動き出すと、基本法論議を憲法改正の露払いとするような不毛なイデオロギー論争に持ち込まれかねない。あらぬ方向にいかぬよう願いたい。

 諮問が、弊害として強調している過度の画一主義も、中央集権的な教育行政に起因するもので、基本法のせいではない。教育の機会均等について「解説」が「すべての児童や青年に同一の教育を与えることではない。個人差に応ずる教育を施すことが個性を完成するゆえんである」としていることからも明らかだろう。

 人とかかわる中で、初めて社会の中で生きていける自分ができていく。だが、目の前には、社会的自立にほど遠い子どもの現実がある。家庭が大切だと基本法を書き換えたところで、家庭の抱える問題が改善されるわけではない。

 学級崩壊の裏には、家庭で寂しい思いをした子どもたちの姿がある。寂しい子どもたちに学校や社会がどう対応できるか考える方が先である。必要なのは具体的政策だ。

 長、中期的な教育政策としての教育基本計画の策定自体は評価したいが、基本法見直しとリンクさせる必要はない。

 その目指すところも諮問のいう「人材・教育大国」でなく、基本法が掲げている「自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成」(前文)でいい。教育は経済の下請けではない。

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『信濃毎日新聞』「斜面」  2001年11月27日付


〈個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期する〉〈普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造〉。教育基本法の前文には、こうありたい教育の姿が簡潔に掲げられている

   ◆

このどこがいけないというのだろうか。遠山敦子文部科学相が、教育基本法の全面改正を中央教育審議会に諮問した。一年後をめどに答申を得て、二〇〇三年にも国会に改正案を出す段取りである。森喜朗首相時代の教育改革国民会議の提言を受けてのこととはいえ、胸に落ちない

   ◆

第一条は「教育の目的」をうたった。〈教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充(み)ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない〉。この通り、ではないだろうか

   ◆

真理と正義を愛するところに、いじめは生まれない。個人の価値が尊重されるならば、独創性あふれる才能に活路が開く。勤労と責任を重んじれば、物を大切にし人への感謝の気持ちも芽生える。心身が健康であってこそ、おのずと地域に愛着を覚え、国を愛する人間をはぐくんでいく

   ◆

創造性、独創性に富んだ人材の育成など遠山文科相が諮問に当たって示したものは、教育基本法の精神と何ら矛盾しない。むしろ教育基本法のめざす方向へ教育行政を具体的に推し進めることで、展望が見えてくる。もう一度、全文を読み直すよう勧めたい。


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『北海道新聞』社説  2001年11月27日付

教育基本法*見直しは改憲露払いだ

 遠山敦子文部科学相が中央教育審議会(中教審)に、教育基本法の見直しを諮問した。

 教育振興基本計画の策定と併せた諮問のかたちをとっているが、その狙いが、平和と民主主義という戦後教育の理念をターゲットにしていることは明らかだ。

 教育基本法は、戦前の国家主義的教育に対する反省から生まれた。憲法と密接不可分な関係にあり、「教育の憲法」と呼ばれる。

 その基本法が改正されれば、戦後の教育が重大な転機を迎えるばかりか、憲法改正にも結びつきかねない。

 なぜ、いま基本法の改正なのか。あらためて問わなければならない。

 諮問は現行基本法の前文はもとより、各条文を見直すことを求め、その際の視点まで提示した。

 その前文は、個人の尊厳の重視、真理と平和を希求する人間の育成のため、「憲法の精神にのっとり」と、教育の目的を示している。

 しかし、前文が変更されると、基本法の位置づけそのものが変わってしまう恐れが大きい。

 教育の目的にかかわるところでは「伝統、文化の尊重など」を挙げている。愛国心をことさら強調することを狙ってはいないか。

 宗教教育では、宗教的情操をはぐくむ観点からの再検討が必要だとした。靖国参拝問題などに“配慮”するものではないか。

 憲法に規定する信教の自由や政教分離の原則を曲げかねないことを懸念する。

 基本法見直しは、首相の私的な諮問機関「教育改革国民会議」が昨年末に提言した。文部科学相の諮問理由は、その提言に忠実そのものである。

 当時の森喜朗首相は、教育勅語を評価したり、「神の国」発言で物議をかもした経緯がある。

 国旗国歌法の制定に象徴されるように、復古主義や教育の統制を強める近年の教育行政の流れを思うと、危うさを覚えざるを得ない。

 憲法と教育基本法の理念は平和主義と民主主義だ。基本法の改正は憲法との一体感を失わせ、憲法改正への露払いにするもくろみも感じられる。

 公的審議会とはいえ、文部科学相の一諮問機関が国の方向にまでかかわる論議をするのには疑問が残る。

 教育振興基本計画の策定そのものは理解できる。中・長期的な視野で、国民に分かりやすい教育目標や国の施策を提示するのは大切だ。

 しかし、基本法に手をつけなければ、基本計画が策定できないとも思えない。

 学級崩壊や学力低下など、教育が抱えたさまざまな悩みを、どう解決していくか。文部科学省には、優先して取り組む課題があるはずだ。


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『徳島新聞』社説  2001年11月28日付

教育基本法見直し 国民合意得られる論議を


 遠山敦子文部科学相は、中央教育審議会に教育基本法の見直しとともに教育振興基本計画の策定を諮問した。

 基本法は一九四七年の制定以来、これまでにも何度か見直しを求める動きはあった。しかし、憲法論議と密接に関係するため見直しを疑問視する声もあり、修正されてこなかった。

 教育の荒廃は、深刻な状況にあり、教育の根本問題について幅広く論議することに異論はない。ただ、「初めに改正ありき」では、国民の合意を得ることはできない。

 次代を担う子どもたちの教育のために、基本法のどこに問題点があり、何が足りないのか。見直しによって今日的な課題の解決が図れるのか。論点を明確にし、改正の是非も含めて審議することが重要だろう。

 基本法の見直しは、教育改革国民会議(首相の諮問機関)が昨年十二月の最終報告で政府に求めていた。

 基本法改正に積極的だった森喜朗前首相の意向もあったからだが、具体的にどう改正するかについては意見集約ができなかった。見直しを諮問された中教審でも、意見集約が難航することが予想される。

 最大の理由は、基本法改正が憲法改正につながるとの警戒感がつきまとっていることにある。

 基本法は前文で「日本国憲法にのっとり」としており、各条文の理念や諸原則も憲法と関係する。今回は、「人格の完成」など普遍的な教育理念には手をつけないものの、前文を検討の対象にするなど憲法改正への道を開く可能性をはらんでいる。

 加えて、国旗国歌法制定や奉仕活動の義務化など、復古主義的な国家観、道徳観が教育の場に持ち込まれようとしている。基本法見直しもそうした意図で審議されれば、これまでと同様に護憲派と改憲派との政治的な駆け引きの場になる恐れがある。

 国民会議の最終報告は「改正議論が国家至上主義的な考え方や全体主義的なものになってはならない」とくぎを刺す一方、対立の構図にとらわれず幅広い議論を促している。

 教育の理念や目的などを定めた基本法を変えることと、教育現場の改善がどうつながるのか。現状を踏まえた論議からスタートすべきである。

 基本法の見直しとともに、教育振興基本計画の策定をセットで諮問し、さらに基本法の見直しより先に基本計画を策定するよう求めたのは、現実的な対応だろう。

 基本計画は、中長期的な視点で教育施策を推進し、「人材・教育大国」を実現するのが狙いだ。

 少人数学級や教員の増員など、具体的な目標を立てて教育投資額を確保していくことは、教育環境を充実させていくうえで不可欠だ。早期に基本計画が策定されるよう望みたい。

 気掛かりなのは、文科相が一年程度で答申を得たい意向を示したことだ。短期間で、果たして深みのある審議ができるのか疑問である。

 期間にこだわれば、基本法の見直しはもとより、基本計画の策定にも影響を及ぼしかねないことになる。

 中教審の審議は、戦後の日本社会をとらえ直し、新たな教育改革の方向性を示すという極めて重い役割を担っている。各委員はそうした認識を共有し、慎重に審議してもらいたい。


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『北日本新聞』社説  2001年11月27日付

教育基本法/見直しより生かす方が先

 文部科学省が中央教育審議会に教育基本法見直しを諮問した。教育基本計画の策定と合わせ、一年がかりで結論を出す。

 諮問によると、人格の完成など教育の目的を定めた第一条、自発的精神を養うなど教育の方針を定めた二条などの普遍的な理念は維持し、現行規定に不足している事項について論議していくという。

 昨年末、教育改革国民会議の報告を受けた町村信孝前文相が「あらあらの法案に近い形でまとめ、諮問したい。一から書き直すつもりでやりたい」とした姿勢から見れば、相当に腰が引けた諮問である。

 だが、法律をいじったところで、子どもの現実が変わるわけではない。諮問内容を読んでもなぜ今、見直しなのか納得できる理由があるとも思えない。

 諮問内容を見てみよう。

 教育理念については「伝統・文化の尊重など国家、社会の形成者として必要な資質の育成」という見直しの視点を示している。

 だが、基本法前文には「普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造」とあり、提起された中身は既に織り込み済みだ。学習指導要領は「文化と伝統を大切にし、国を愛する」(小学校道徳)としている。

 文部科学省は「理念を明確化することが必要だ」としているが、何のために明確化しなければならないのか、肝心の説明がない。

 見直しを提起した教育改革国民会議は「国家至上主義的考え方や全体主義的なものになってはならない」とわざわざくぎを刺しているが、あらぬ方向にいかぬよう願いたい。

 諮問が、弊害として強調している過度の画一主義も、中央集権的な教育行政に起因するもので、基本法のせいではない。生涯学習や家庭の役割の明確化という見直しの観点も示されたが、既に趣旨は盛られている。書き込まなくても政策上支障はない。

 基本法を論ずるなら、不足部分の見直しなどというけちなやり方でなく、子どもの現状が基本法の目指す「人格の完成」といかに遠いところにあるか見据えることが先だ。はなから基本法を被告席に座らせるようなやりかたは疑問だ。

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『読売新聞』社説  2001年11月28日付

 [教育基本法]「時代にふさわしい見直し論議を」


 教育基本法の見直し作業が文部科学省の中央教育審議会で始まった。タブーなき活発な議論を期待したい。

 教育基本法の見直しは、昨年末、教育改革国民会議が提言した。これを受けて、前の文部科学大臣は、今春にも「改正案」の形で中教審に意見を聞く意向を示していた。

 しかし、結局、諮問は一年後になってしまった。諮問内容も、国民会議の提言をほぼ踏襲しただけで、前大臣の言う法案の形とはほど遠い。

 教育問題に積極的だった森内閣が小泉内閣に代わり、熱が冷めたようだ。それにしても、前政権の方針がこうも簡単に覆されると、国民は戸惑う。

 文部科学省はこうした慎重姿勢について、国民を二分する対立があるためと説明する。確かに、教育基本法はこれまで憲法とセットで語られることが多く、改正論議はしばしばイデオロギー対決の様相を呈してきた。

 しかし、その憲法でさえ、今や過半数の国民が改正を支持し、国会では具体的な論議も始まっている。現実に有用かどうか。多くの国民の関心は既にそこに向かい、主義主張にはないことを思い起こさなければならない。

 基本法見直しの論点としては、例えば「伝統文化」「生涯学習」「家庭教育」などがある。いずれも、現行基本法に欠けているテーマで、それを補うかどうか議論するのは、極めて自然なことだ。タブー視せず、正面から論じ合うことこそが求められている。

 いじめ、不登校、学力低下など、いま教育は多くの問題を抱えている。その処方せん作りを急ぐべきで、基本法見直しはその意味では何の役にも立たない、との意見がある。これも一面的だ。

 教育現場に近い所から遠い所まで、あらゆる段階で、できることを模索することに意味がある。理念や大きな改革の方向が示されることで、新たに見えてくるものもきっとあるはずだ。

 文部科学省は、基本法の見直しと同時に、教育振興基本計画の策定についても中教審に諮問した。基本法に先立って審議するよう求めている。

 中長期的な目標を立て、それへ向けての具体的な施策と財政支援をうたう計画は重要だが、あくまで基本法の中に位置付けるべきものだ。審議は、どちらかを優先するのではなく、双方を一体のものとして進めなければならない。

 今の時代に役立つように、制定から半世紀が過ぎた教育基本法の姿形をどう整えるか。中教審に求められているのは、それ以上でもそれ以下でもない。


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『朝日新聞』社説  2001年11月27日付

 教育基本法――基本計画法こそつくれ


 文部科学省が、教育基本法の見直しを中央教育審議会に諮問した。

 国家のため、が主眼だった戦前教育の反省から、個人の「人格の完成」をめざす基本法が施行されて半世紀余。「国への忠誠心がない」「道徳教育を強化すべきだ」と改正を求める動きが繰り返し起きたが、公式に論議のテーブルにのるのは初めてだ。

 首相の私的諮問機関の「教育改革国民会議」が昨年末、最終報告で見直しに取り組むよう政府に求めたのを受けた形である。

 検討の視点として文科省は、時代や社会の変化への対応、伝統・文化の尊重、家庭の役割の明確化などを挙げている。

 今の学校教育が混迷を深めていることは、だれの目にも明らかだ。

 いじめや不登校、学級崩壊が広がり、子どもたちの学習意欲が低下している。学習内容を3割削減する新学習指導要領への不安の声も高まっている。

 状況を少しでも良くするために、具体的な施策を急がなければならない。小中学校の少人数学級化を進め、教師を増やす、高等教育の予算も他の先進国並みに引き上げる、といった手立てである。

 今回、教育基本法の見直しと教育振興基本計画の策定が同時に諮問された。5年先、10年先のわかりやすい目標を立てて、財源を確保する基本計画はぜひつくってほしい。しかし、なぜ基本法と抱き合わせでなければならないのか。

 基本法と基本計画は、そもそも性格が異なる。前者は理念を示すのに対し、後者は中長期的で具体的な目標を明らかにするものであろう。

 文科省は、「まず改正ありき」ではなく、計画を立てる過程で何が欠けているかを議論して、それを基本法の検討に反映させたいという。「教育振興基本計画を定めるものとする」といった一文を基本法に加えるのが目的の一つだ、ともいう。

 それなら、いっそ「教育振興基本計画法」をつくったらいいではないか。

 だいたい、基本法に書かなければ実現できない施策などあるはずはない。あれも足りない、これも付け加えようと基本法をいじったら、木に竹を接いだようなおかしな代物になりかねない。

 教育基本法は憲法と同じ年に施行された。前文で「(憲法が示した)理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」とうたっている。

 憲法と基本法の改正論者がしばしば重なり合うのは、基本法改正を憲法改正につなげたいと考えるからなのだろう。今回、基本法の前文が検討の対象となっていることは、そういう意味で見過ごせない。

 戦後教育は、公選の教育委員が任命制になるなど統制が進み、基本法は骨抜きにされてきた面がある。理念の手直しなどより、教育現場を改善する具体策を計画的に実施することこそ必要ではないか。


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『沖縄タイムス』社説  2001年11月28日付

教育基本法 見直しより生かす道を

 文部科学省が教育基本法の見直しを中央教育審議会に諮問した。「教育の憲法」とされ、半世紀余にわたる戦後教育の理念的な柱となってきた基本法が、公式のテーブルで議論されるのは初めてだ。

 基本法の見直しは、教育改革国民会議が昨年十二月の最終報告で求めていたもので、教育振興基本計画の策定と合わせて一年がかりで結論を出す。

 今回の諮問の特徴は、基本法見直しの前に基本計画の審議を置いたことだろう。具体的問題を議論した上で、基本法を検討する構えである。

 言うまでもなくいまの学校現場は多くの問題や矛盾を抱える。いじめや不登校、学級崩壊などが珍しいことではなくなった。

 学習意欲だけでなく、社会的な自立にほど遠い子どもの姿も目立つという。教科の時間が三割減らされる来年四月からの新学習指導要領に、子どもの学力低下を心配する声も根強い。

 これらの問題解決には、長、中期的な視点でとらえた教育政策がなんとしても欠かせない。目標実現に向けて基本計画を策定する。そのための財源確保は必要だ。

 しかし、なぜ基本計画と基本法見直しを抱き合わせで検討しなければならないのか、疑問を禁じ得ない。

 文科省が早急に取り組むべきは、少人数学級や教員の増員など、教育現場を改善する具体的施策である。基本計画にはそうした計画を盛り込むべきである。

 諮問は、社会や時代変化への対応▽家庭の果たすべき役割▽男女共同参画社会への変化▽宗教的な情操のはぐくみ―などを見直しの論点に挙げる。

 すでに議論し実践されていることもある。諮問内容に、いま、どうして基本法の見直しが必要なのか、十分に納得させる理由は見つからない。

 そこから透けて見えるのは、憲法の実現を理念とする現行教育基本法の理念的性格を薄める狙いではないか。現実を踏まえ、基本法の理念を生かすことが問われている。

 基本法は前文で、憲法を「この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」と期待しているのである。もし基本法が見直されれば、憲法の平和主義や民主主義との結びつきが弱まるのは避けられまい。

 基本法の見直しを、憲法改正への前段になりかねないと警戒する指摘があるのはこのためだ。

 中教審には公正で地に足が着いた論議を求めたい。広く国民的な論議とするのも忘れてはなるまい。


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『河北新報』社説  2001年11月28日付

教育基本法見直し/旧来型の論争に陥らずに


 教育基本法の見直しが始まった。教育振興基本計画の策定と併せ、中央教育審議会が1年の予定で論議する。

 かつての「改憲」対「護憲」の硬直した構図に見られたような、旧来型の理念対立には陥ってほしくないと、まず思う。

 「国家至上主義」やら「戦後教育の荒廃」やら、声高に相手方を非難し合うような論争になってしまっては、関心の広がりも望めない。その意味で、文部科学省が基本法よりも振興計画の審議を優先するよう求めたのは、現実的な選択だ。

 教育政策の足りないところ、財政投資の在り方。そんな課題が計画の柱になる。学級崩壊や不登校、学力低下などを抱え込む現場の問題点を点検し直しながら、反映させたい。

 現状分析や検証の裏付けを欠く短絡的な改正論が、共感を呼ぶはずはない。一方、基本法は「教典」ではないと考えるのなら、一言一句いじるなといった考え方も同様だろう。

 今回の諮問は昨年12月、森喜朗前首相の私的諮問機関である教育改革国民会議がまとめた最終報告に基づいている。前首相は基本法の改正に積極的だった。しかし、経済構造改革を掲げる小泉純一郎首相に交代して、基本法改正の優先度は低くなった。

 文科省が諮問に当たって示した「基本法より振興計画優先で」との判断には、この間の政権交代という事情が絡んでいる。

 背景としてはさらに、戦後の論争の歴史が浮かんでくる。「教育の憲法」と位置付けられる基本法は、憲法自体と同様に改正の圧力にさらされてきた。「国に対する忠誠はどこに書いてあるか」と閣僚が批判したことさえあった。

 もちろん、それに対する反発は根強い。昨年の国民会議報告が結局、「国家至上主義的考え方になってはならない」と歯止めをかけたのは、その表れだろう。

 「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期する」。基本法は前文でこううたい、「平和的な国家及び社会の形成者」としての国民の育成を教育の目的に掲げている。

 こうした基本理念を、短期間で変えようとするのは無理がある。基本法を貫く理念、精神のどの部分が、現在の教育現場の問題点につながっているのか。その論証が不可欠だ。

 一方で視界に入れておきたいのは、憲法そのものをめぐる論議の現状である。

 「議論した結果、改正することがあってもよい」(56%)を含め改正容認論は77%(8年前の前回に比べ5ポイント増)、反対論は15%(同6ポイント減)。河北新報社など加盟の日本世論調査会が今年4月に実施した全国世論調査は、こんな結果を示している。

 伝統・文化の尊重や宗教的情操の育成。国際化や生涯学習社会への対応。家庭教育の役割と学校の関係。男女共同参画とのかかわり。文科省が挙げる論点には、こんな項目も含まれている。改正の是非だけにこだわらずに論議が深まるのはいいことだと思う。

 「即時全面改正」でもなく「改悪絶対反対」でもなく、2項対立のそんな発想から離れた場所から審議の行方に関心を持ちたい。


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『東奥日報』社説  2001年11月28日付


 教育再生へじっくり審議を

 文部科学省は教育基本法の見直しを中央教育審議会に諮問した。中長期的な教育政策としての教育振興基本計画の策定と合わせ一年がかりで結論を出す。

 教育基本法は一九四七(昭和二十二)年、戦前からの教育勅語に代わって策定された。民主主義教育の目的、方針を明示「人格の完成」「個人の価値の尊重」「男女共学」など教育行政について定め、「教育の憲法」として、半世紀あまり、戦後教育の柱となってきた。これまで、一度も改正されていない。

 諮問は「国家、社会の形成者として必要な資質の育成」などの観点から検討を求めており、改正されれば、これまでの教育を大きく転換させることになる。審議の行方を注目したい。

 昨年末、首相の私的諮問機関、教育改革国民会議が最終報告で人間性豊かな日本人育成を唱えて家庭重視、道徳教育の強化を打ち出すなど、基本法の見直しを提言、今回の諮問はこれを受けた形である。

 基本法をめぐっては「愛国心の規定がない」として自民党など保守勢力が繰り返し改正論を主張してきたが、反対も根強く、具体的な改正の動きにブレーキをかけてきた。だが、教育改革国民会議が改正に「お墨付き」を与えた格好になり、今回の流れをつくったと言える。

 検討の視点として、文部科学省は新しい時代にふさわしい基本法の在り方を挙げ、現行の基本法について(1)時代や社会の変化への対応(2)創造性、独創性に富んだ人材の育成(3)伝統、文化の尊重など−の三点から議論が必要だとしている。

 実際、わが国の教育は少子化や都市化の進展から、家庭や地域の教育力が低下、いじめ、不登校、学級崩壊など深刻な事態に直面している。

 また、個人の尊重を強調したため協調性に欠け、「公」を軽視する青少年が増え、「孤の世界」に引きこもる傾向も見られ、戦後教育のひずみが顕在化してきているという。こんな問題にどう取り組むか、早急な議論が待たれる。

 気がかりなのは「憲法改正」が見え隠れしていることだ。現行法の「前文」は「憲法の精神にのっとり教育の目的を明示」したとしているが、諮問は「前文」についても改正を検討するよう求めており、内容いかんでは憲法改正問題も視野に、入ってくるからだ。

 日教組は「日本国憲法の改正手続きを事実上スタートさせる重大事態だ。今、必要なのは憲法と教育基本法の関係を再確認し国民的な議論を起こすことである」と警戒感をあらわにしている。審議会には特に慎重な論議を願いたい。

 また、教育振興基本計画の策定を評価したいが、基本法見直しとリンクさせる必要があったのか疑問である。というのも、基本法は教育理念、基本計画は教育投資などがテーマであり次元が違うからである。

 大事なのは現実の教育で対応し切れない点はなにか、どこに問題があるか、を一つ一つ洗い出し検証することである。

 家庭が大切だと基本法を書き換えたところで家庭の抱える問題が改善されるわけではない。

 学級崩壊の裏には家庭で寂しい思いをしている子供たちの姿がある。寂しい子供たちに学校や社会がどう対応できるかを考えるのが先ではないか。必要なのは具体的政策である。

 「二十世紀後半が学校に背を向けた子供たちを増加させた」と指摘する教育関係者もいる。であれば、二十一世紀は子供たちが生き生きと学校生活を過ごせる教育再生の時代にしたい。答申まで一年という制限を設けず、じっくり審議することを望みたい。


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『中国新聞』社説  2001年11月28日付

教育基本法見直し 議論一年で大丈夫か 

 教育基本法の見直しを文部科学省が中央教育審議会に諮問した。同時に教育振興基本計画の策定も諮問した。教育基本法は一九四七年に制定され、戦後教育の理念的な柱になってきた。これまで見直しは何度か浮上しては立ち消えになった。見直しを公式に中教審に諮るのは初めてである。

 きっかけになったのは、首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」の報告(昨年十二月)である。当時の首相は森喜朗氏、文相は町村信孝氏。ともに積極的な見直し派で、森前首相は教育勅語の再評価にも言及していた。報告はそうした意向を色濃く受けた内容になっていた。

 今回、首相と担当相が代わって諮問のトーンは落ち、文科省も「初めに改正ありき」でないとしている。答申のめどは一年後。同省は二〇〇三年にも国会に改正案を提出したいようだ。だが、基本法と基本計画の両方を一年で処理するのは短かすぎはしないか。少なくとも「教育の憲法」といわれる基本法の見直しは憲法改正と連動しやすい。結論を急がず腰を据えた論議を求めたい。

 教育基本法は、戦前の国家主義的な教育への反省から、民主的で平和的な社会の基礎を築く教育を目指して制定された。しかし、愛国心や伝統の尊重といった記述が抜け落ちているとの批判が絶えなかった。

 基本法の改正に対する遠山敦子文科相の諮問理由は@時代や社会の変化への対応A創造性・独創性に富んだ人材の育成B伝統、文化の尊重など国家、社会の形成者として必要な資質の育成―の三点からの検討である。その上で、例えば義務教育については家庭や学校の役割、教員の使命を明確にする必要性を指摘。中でも「教育の原点は家庭」と、公教育の守備範囲の縮小を示唆している。家庭教育の重視は分からないでもないが、現状でそれがどこまで可能なのか疑問が残る。

 普遍的な理念は維持するとしながらも、「憲法の精神にのっとり、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する」などとした基本法の前文を見直しの対象にしていることも見逃せない点である。

 時代や社会の変化に対応するためとはいえ、憲法の精神を踏まえた事実上の「教育の憲法」の改正は、法の位置付け自体を変えかねないからだ。同時に、中曽根康弘元首相もつい先日、基本法の見直しが憲法改正につながると期待を込めて語っていたように、基本法と憲法の改正はしばしばセットで語られてきた。

 文科省の思惑がどうであれ、前文の見直しは憲法改正に道を開く可能性をはらんでいる。じっくりと論議に時間をかける慎重さが求められる。

 諮問に当たって文科省は、基本法より先に基本計画の審議を求めているのはうなずける。いじめや不登校、学級崩壊の続出など子供を取り巻く環境は悪化、学力の低下や常識のなさも指摘されている。学校が混迷を深める中で、急がれるのは国や地方自治体の具体的な手だてである。中教審のメンバーに望まれるのは、教育の現状を直視し、まず中・長期の基本計画を練り上げることだ。


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『山陽新聞』社説  2001年11月28日付

◇教育基本法諮問 国民もじっくり考えよう


 遠山敦子文部科学相が、教育基本法の改正について中央教育審議会に諮問を行った。

 基本法の見直しは、故小渕恵三元首相時代から議論が始まり、首相の諮問機関である教育改革国民会議が昨年末に行った最終報告で提言していたものだ。諮問はこれを受ける形で行われた。

 基本法については早くから伝統や文化の尊重や、国家の視点がないといった批判があった。国民会議の最終報告もそうした点に配慮した見直しを求めていた。

 遠山文科相は諮問理由として現行の基本法について「時代や社会の変化への対応」「創造性・独創性に富んだ人材の育成」「伝統、文化の尊重など国家、社会の形成者として必要な資質の育成」の三点から議論が必要としている。

 教育基本法は憲法と同じく一九四七年に生まれた。憲法は戦争の反省に立ち、戦争の放棄や国民主権を定めた。基本法はこの理念に沿って制定され、前文で憲法の理念を確認した上で、その実現は「根本において教育の力」によるとしている。基本法と憲法とは不可分の関係にある。

 制定から時が経過し、世界の中での日本の立場、家族のありようと、社会は大きく変わった。教育は学級崩壊や少年事件の続発といった重い課題に直面してもいる。

 時代に応じて基本法の中身を議論し、必要が認められるなら改めることもあってよいだろう。

 しかし、その前に、基本法のどこが時代に合っていないか、足りない部分があるとすればどこか、また基本法の理念が実践されているかといった点検がいる。

 例えば戦後教育は横並び、画一的であり、個性に乏しい人材を生む一因になったという議論がある。

 基本法は第一条で「自主的精神に充ちた(中略)国民の育成」をうたい、第二条で自発的精神を養うことを説いてもいる。日本人が概して没個性的であるとするなら、教育の実践に問題があって、基本法の目標が実現できていないと見るべきだろう。

 諮問は基本法改正の審議に先立ち、まず教育施策や財政措置の在り方を定める教育振興基本計画づくりから議論していくよう求めている。

 教育は百年の大計である。基本法の改正は、その将来を左右する重大な事業だ。腰の座った議論が望まれるのは当然だが、国民も関心を持って議論の行方をしっかりと見極めていく必要がある。一人ひとりの問題でもある。教育基本法を読み直すところから始め、議論を重ね、深めていかねばならない。


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『神戸新聞』社説  2001年11月28日付

教育基本法/「改正」を急ぐよりも


 遠山敦子文部科学相が、教育基本法の改正と、教育振興基本計画の策定について中央教育審議会に諮問した。

 基本法改正の諮問は初めてである。戦後教育の大きな転換にもつながるわけだが、今、なぜ、改正か。改正によって何がもたらされるのか。おおかたの国民を納得させる答えがないまま、改正論議だけが一人歩きすることは避けねばならない。

 むしろ、教育現場の困難な状況を改善するための教育振興基本計画の策定こそが急務であるはずだ。

 教育基本法の改正は、昨年末に出された教育改革国民会議の最終報告で、見直しが提言されていたが、当時の森喜朗首相が退陣、その論議も沙汰(さた)止みとなっていた。  一年ぶりの“改正復活”で、遠山文科相があげたポイントは、基本法前文の見直しをはじめ、(1)時代や社会変化への対応(2)創造性に富んだ人材育成(3)伝統・文化の尊重など国家、社会の形成者としての資質育成―をあげている。

 確かに、変化への適切な対応は必要で、創造性豊かな人間や、伝統・文化を尊重した社会人の育成にも異論はない。

 これらは、いずれも「教育の常識」の範疇(はんちゆう)に入るものだろう。これが現場でおろそかにされているなら、困ったものだが、それは基本法の問題でなく教育手法など各論の問題だ。このために、基本法を変えねばならないというのは説得性に欠ける。

 基本法前文は、憲法とのかかわりが極めて深い。基本法前文にある「日本国憲法の精神にのっとり」「個人の尊厳」「真理と平和を希求する人間育成」といった崇高な理念は、人類の理想を実現しようとする憲法の精神が色濃く反映されている。

 基本法前文改正には、憲法改正の動きが連動しているとの見方も強い。改憲にしろ護憲、論憲にしろ、教育と憲法という深いテーマについての論議は、中教審のみの議論で片づけることはできない。もっと幅広い別の会議をおこし、国民的な議論を深める必要がある。

 こうした観点に立つと、教育基本法の改正は、急ぐべきではないと考える。

 遠山文科相は、諮問の中で基本法の普遍的理念の維持をうたうと同時に、まず、教育振興基本計画の策定から着手するよう要請している。この考え方については一定の理解は得られるかもしれない。

 不登校、いじめ、学級崩壊、教師不祥事そして学力低下…。荒涼たる教育の立て直しは、基本法よりむしろ、基本計画、この一点から進めるべきである。


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『岩手日報』論説  2001年11月28日付

教育基本法 見直しに慎重な議論を 
  

 文部科学省は中央教育審議会に、戦後教育の理念的な柱となっていた教育基本法の見直しを諮問した。教育改革の方向性や改革に向けた財政措置の在り方などを決める教育振興基本計画策定も併せて諮問した。

 諮問は「国家、社会の形成者として必要な資質の形成」を主な観点として検討を求めており、この方向で改正されれば、戦後教育は大きく転換する。

 「新時代や社会への対応」「伝統、文化の尊重と継承」「創造性・独創性に富んだ人材の育成に向けた基本計画の策定」の3点を具体的な論議として求めている。

 人格の完成、自発的精神の養成などの普遍的な理念は維持し、家庭教育や生涯学習の在り方、いじめや不登校、学級崩壊など各種問題への対応−と現行規定に欠けている事項を審議する意向だ。

 しかし、教育基本法をめぐり自民党などの保守勢力は特に「愛国心」を強調しており、内容いかんでは戦前の教育思想の復活につながるとの懸念の声も少なくない。今、改正に当たっては、国民の間に積極論と慎重論が交錯している。教育基本法のどこに問題があるのか、納得のいく論議が不可欠である。

 必要か理念の明確化

 確かに教育をめぐる問題は山積している。だが、法律をいじくったところで、子どもが直面している現実が変わるわけではない。現状の教育の何が問題で、今後、在るべき教育を実現するためには何が求められているのか、の論議がまず必要である。

 現行の教育基本法が、「具体的施策遂行の支障になっている」とは思えない。諮問内容には「なぜ今、見直しなのか」のきっちりとした提言が見られない。諸問題の要因を基本法に求めるより、基本法の条文や精神をこれまでの教育施策に生かしてきたかを、あらためて点検することが先だろう。

 中央教育審議会で幅広く論議することには、異論はない。ただ、はじめから「見直しありき」の姿勢には疑問が残る。その意図はどこにあるのか。文部科学省は「個性というのは、単に文化形成者個人の個性のみでなく、その人の属する民族、国民に固有な個性を含む」と提起する。

 「理念の明確化」(文部科学省)とするが、何のためにわざわざ明確化しなければならないのか。教育改革国民会議も国家至上主義、全体主義的思考にはクギを刺す。基本法の見直し論議が、不毛なイデオロギー論争とならないよう厳に慎みたい。

 見据えたい学校現場

 いじめ、学級崩壊など荒れる教育現場を前に、諮問には「家庭教育」や「生涯学習」の在り方、見直しの観点も示された。しかし、「家庭教育」が大切であると、教育基本法に新たに書き加えたところで、それぞれの家庭が抱えている問題が改善されるとは考えられない。

 子どもたちが、なぜ学級崩壊を起こすのか、どうしたら学校や社会に対応できるのか、熟思、論議する姿勢こそ必要である。求められているのは、現状を見据えた具体的な施策の確立なのだ。

 子どもたちは、人とのかかわりから社会で生きていく自分をつくっていく。だが、社会的自立には程遠いすさんだ現状が広がりつつある。中央教育審議会には、多くの子どもたちに広がるこうした問題に、真摯(しんし)に取り組み、現実に立脚した実のある論議を重ねてほしい。

 教育基本法の目指すところは、前文に掲げられている通り、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成である。民主的で平和的な社会の基盤を築く志向を忘れない、慎重な論議が重要である。

(吉田誠一)