☆独法中間報告案への public comment
200110.29 [he-forum 2782] 独法中間報告案への public comment
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みなさまへ
これまでに出た意見は大変おとなしいものが多いように思えます。当方のはとても辛辣な文章かも知れません。独法化の動きに反対の声を公的に出せる、 最後の機会と思って、力をこめたからです。
本日新潟大学は、評価機構により、教育評価を受けました。
1)13:30〜15:50
学部長、研究科長、学科長、などの委員が列席する大会議室での会議。質疑応答。
2)16:00〜17:30
数学、物理、生物、地質化学、自然環境、大学院専任(女性助手を含む2人)
のメンバーと、評価委員との小規模な話し合い。質問は上と重複しているが、
管理層とは違った答えが出るかも知れないとの期待があった模様。
(学生・卒業生との懇談では、更に
小規模の懇談会では、結構評価機構の委員の人達の本音も耳にしながら
懇談しました。
その席上、もし中間報告案が通ったら、現在行われている評価作業は
一体どうなるのか(中期目標・計画の点検以外に更に一般の評価を行う
ということがあるのか否か)について、評価機構事務部長に質問をしました。
しかし明確な回答はなく、とにかく今の評価機構の作業をきちんと行う
ことが当面の目的という感じです。
更に、本日受けた様な評価作業には、評価委員の自由な観点が質問と
して出されている(これも現実は親委員会の相当の束縛が有る模様)と感じ
ましたが、独法化の後の評価は、飽くまでも目標・計画がいかなる程度に
達成されたかという制約のもとでの評価になってしまう恐れがあります。
どこかでこの作業を取り仕切る人達が居るようです。
------------------------------------------------以下意見
文部科学省 高等教育局
大学改革推進室 御中
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1. 氏 名: 渡辺勇一
2. 学校名: 新潟大学理学部 生物
3. 住 所: 新潟市五十嵐二の町8050番地
4. 電話番号: 025−263−5210
5. 意 見: 以下の通り。
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独立行政法人化検討会議中間報告(案)に対する意見
はじめに)論点が曖昧となることを避けるため、報告案の条項の逐一批判はせず、
現在構想されている法人がいかに日本の科学の発展を阻害するかという
点について、根本的な立場から述べたい。
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1)「研究には自由が最大限必要である」=法人化で研究環境が悪化する。
私は昨夜、若き日の江崎玲於奈氏がNHK教育テレビで発言するのを聞いた。
江崎氏は「優れた研究をするためには、全ての拘束から自由になっていなければ
いけない」と強い調子で述べていた。
同様の意見を、日本のノーベル賞を授賞した学者が、研究の絶対必須条件と
して種々の著作や新聞などで述べている。
今回の中間報告案は、研究や教育に最も必要である「自由」を窒息させる
のに十分過ぎる程の制約と拘束とを至る所に示している。
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作成した方々には、もう十分おわかりの事であろうが、一応下に示す。
・文科省から派遣され、大学を監視する「監事」の存在
・自由であるべき、活動の計画・目標が自分で策定できない事
・学長を大臣が罷免でき、学部長を自ら選べない等「人事の束縛」
・大学外の意見を大幅に取り入れる事による、大学運営の混乱
・一般教員が運営から遠ざけられ、ひたすら労働を要求されること
(しかもこの労働は、あらゆる活動面に関する書類作成などである)
まだあるが、これだけ述べれば十分過ぎるであろう。これらの項目について、
いちいち詳細に問題点を指摘することはしない。私以外の多くの意見が寄せられる
であろうし、一般のマスコミも「大学の自由の低下」を強調している。
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2)日本の大学の研究レベルを落とす、意味のない目標・計画づくり
今回の独法化の動きの中での、極めて大きい提案は、大学全体の組織をあげての
目標・計画づくりである。いまだかって誰もこの空しい作文作業に批判をしてこな
かったのは、概算要求などで、理念・目標などを提示しないと、省庁の認可が得られ
ないという状況での「我慢のため」だった。
今後は、運営交付金を少しでも多く獲得したいという、これまで以上の圧力が
強くかかってくる。組織全体の目標計画がいかに無意味であるかと言う批判行動は
この機会にしかできないので、ここで展開しておきたい。
2a)教育も、研究も、個人の活動が基礎である。
授業など教育活動が一人で努力する地味な作業であることは、誰の目にも明らかで あり、
誰しも常にその孤独を感じているものである。だからこそ、教師「個人の評価」が学 生に
よってなされることが可能となる。
他方研究はどうだろう。ノーベル賞は決して組織には与えられず、研究者個人に
与えられている。研究者の常識であるけれど、自由闊達な発想というのは、共同では
むしろ束縛される危険があるのである。共同研究は、頭というより、技・考え方・議 論の
面で限定的になされることが多い。
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上の様な事が単純明瞭に解っている筈なのに、なぜ教育研究の理念・目標づくり
が組織的に行われるのだろうか。これは教育研究を理解していない人間が強要したもの
としか考えられないのである。教員は教育や研究を始める時に、相当確固とした計画
目標を持っているものである。これはしかし長い作文に書いて示せるものではなく、
教育に関しては、「yyyを解りやすく理解させたい」程度のもの、そして研究については
「xxxの謎を解きたい」程度のものである。
現在の研究教育の理念・目標計画の作文が、何故空しいのか。それは、個人的な
活動レベルで生き続けている教員達が、組織全体の目標を作らされるからである。
このようなものを、いくら立派に作成しても、何の役にも立たないし、その作業その もの
が、研究・教育の時間を食いつぶすことになるのである。労働時間のこの様な甚大な
侵食が起きている事を最も痛感し、研究教育の荒廃を感じ初めているのは、昨今の大学
教員である。
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2b)日本の国立大学は、既に国際的なレベルにある
私は、白川氏の言を引いて毎日新聞10月17日号に投稿し、その中で日本の研究
レベルの高さを強調した。日本のどこの大学でも、研究の成果を論文にまとめ、国際 誌に
投稿することは、日常茶飯事になっている。
国際誌に論文が出るのは、余りにも当たり前なので、声高にこれを宣伝する人は
少ない。既に研究者総覧などがどこの大学も公表されているから、文部科学省の人間も
「国際的な」我が国の研究活動を知っているはずである。
それを知ってか、知らずか、日本の研究を「国際的なレベル」に高めたいと言う 望みも
中間報告案の至る所に見られる。
現状ですでに十分国際的な水準にある大学に無理な圧をかけ、目標・計画づく りと
評価のための資料の準備に多大なエネルギーを使わせることは、教員の時間とエネル ギー
をいたずらに浪費させ、現在の国際的なレベルにある大学の諸機能を著しく低下させ ること
は疑いない。
これが、報告案にある独立行政法人国立大学の行く末である。
3)競争を組織間に持ち込むことの愚
もうひとつ、運営交付金の多寡を暗示しながら、将来の法人の間に競争を煽ると いう
点についても言及したい。私は研究教育成果が競争により促進されるとは考えない が、最大限
譲って顔の見える個人の間での競争は、時に刺激になるかも知れない。しかし前項で も述べた
様に、研究・教育が個人を中心に行われる観点からは、組織ぐるみでの競争は、様々 な問題
を引き起こす。
優秀ではないとみなされた組織の研究者は、全員低い位置におとしめられるべき なの
であろうか。また逆に選別された組織の人間が全て優秀ということはない。もし組織 間の
競争が歪んだ形で行われれば、数々の優秀な人間が捨てられてしまうだろう。
●競争を評価する体制の不備と難しさ
最後に、我が国の評価体制の貧しさに言及したい。既知のことであるが、白川氏は
日本化学会の学会賞を与えられて居ない。またその著書の中で日本の雑誌に投稿した 論文が
無理解な査読者によって、拒絶された経験を白川氏は書いている。独創的な研究業績 か否か
の判断は功成り名遂げ勲章を貰うほどの有識者にも、困難な事が多い。
また、科学技術基本計画に添って、巨額の投資が「未来開拓型予算」として、文 部省に
付けられたとき、その審査に当たった有名大学の教授達の半分近くが、自らの研究室 に予算を
当ててしまい、ネーチャーで厳しい批判を浴びた事実がある。これが、我が国の研究 評価
システムの致命的な脆弱性を示す厳然たる現実である。
今後、文部科学省に置かれる、国立大学評価機構、またそれと共同作業を行う、 大学評価
機構において、著しく細分化が進行し、また次々に新たな知見がもたらされる、現代 自然科学の
研究がどのように評価されるのか、余りにも不安材料が多い。
研究の道筋を大いに制約してしまい兼ねない、評価と連動した運営交付金の減額 すら
当たり前に行われる「競争的」環境で、将来花咲く研究が絶えてしまっても、誰にも 解らない。
研究の非予測性を悪用した安易な評価は、創造的研究の芽を見境なく間引きする、大 変危険な
行為である。体面だけを保つためにこのような仕組みを作っているのだとしたら、科 学への
重大な冒涜であろう。
「この国のかたち」を変えるという言葉で始まった行政改革であるが、大学に有 る程度
しかない自由と自律性を根こそぎ奪い去る様な、この報告案を、司馬遼太郎氏が目に したら、
余りにも粗末な改悪行政のあり方を一体どれくらい嘆くであろう。
真の改革は、学問・研究・教育に携わって苦闘している現場の人間の声を聞か なくては
達成できない。無理矢理にその言葉を封じ込めれば、因果応報という言葉で示される 結果が必ず
訪れる。最高の高等教育を受けたはずの、文部科学省を始めとした官僚の人達が、こ こに示さ
れた「大学いじめ」としての意味の強い、報告案の内容を理解できない筈はないと信 じつつ
批判の文を閉じたい。
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渡辺 勇一 Yuichi G. Watanabe
〒950-2181 新潟市五十嵐二の町 8050
新潟大学 理学部 生物学科
E-Mail: watayu@sc.niigata-u.ac.jp
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