☆「新しい『国立大学法人』像について(中間報告)」に対する意見書(筑波大学教職員組合)
200110.30 筑波大学教職員組合
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東職,独立行政法人反対首都圏ネットワーク事務局殿:鈴木亨@筑波大教職組です。
本教職組が文部科学省に提出した「意見書」をテキストファイルで添付します。
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「新しい『国立大学法人』像について(中間報告)」に対する意見書
文部科学省高等教育局大学課大学改革推進室御中
2001年10月29日
筑波大学教職員組合
文部科学省に設置された「国立大学等の独立行政法人化に関する調査検討会議」(以下,「調査検討会議」と略)が,さる9月27日,「新しい『国立大学法人』像について(中間報告)」(以下,「中間報告」と略)を公表しました。
筑波大学は,東京高等師範学校,東京文理科大学,東京農業教育専門学校,東京教育大学を前身とし,あらゆる学問分野に関わると同時に,小・中・高・盲・聾・養護のすべての校種を附属学校にもち,歴史的にも規模,構成の上でも,我が国を代表する総合大学です。私たちは,筑波大学で,研究・教育に携わる立場を代表し,下記意見を提出します。最終報告に反映されることを強く要望します。
記
1.基本的な考え方について
(1)独立行政法人との関係が曖昧
「中間報告」は,「国立大学法人法(仮称)」ないし「国立大学法(仮称)」を提唱していますが,すでに制度化された独立行政法人との関係が曖昧です。教育研究機関が,単なる行政機関と異なるという独自性の問題,職員数が13万人にも及ぶという規模の問題から,国立大学を仮に法人化するとしても,全く独自の制度設計がなされるべきであることは,すでに多くの指摘(たとえば,石井紫郎「『学術公法人私案』−『独立行政法人』の対案」ジュリスト2000.6.1号)の及ぶところです。
提唱される「国立大学法人法(仮称)」ないし「国立大学法(仮称)」は,独立行政法人通則法に対する下位法でなく,独立法のようです。独立行政法人は,中央省庁等改革基本法第4章第3節第36条−第42条に規定されているものです。
同法は,第4節第43条で,「政府は,施設等機関について,……各施設等機関の性格に応じて独立行政法人への移行を検討するものとする。」としていますが,第2項で,「国立大学が教育研究の質的向上,大学の個性の伸長,産業界及び地域社会との有機的連携の確保,教育研究の国際競争力の向上その他の改革に積極的かつ自主的に取り組むことが必要とされることにかんがみ,その教育研究についての適正な評価体制及び大学ごとの情報の公開の充実を推進するとともに,外部との交流の促進その他人事,会計及び財務の柔軟性の向上,大学の運営における権限及び責任の明確化並びに事務組織の簡素化,合理化及び専門化を図る等の観点から,その組織及び運営体制の整備等必要な改革を推進するものとする。」とはしていますが,第3項で国立病院及び国立療養所について,第4項で国の試験研究機関について「独立行政法人に移行すべく具体的な検討を行うこと。」と明言していることに比べれば,国立大学については明らかに独立行政法人化を規定していないことになります。
また,同法同条第6項で,「文教研修施設(国立学校を除く。)及び作業施設について,国の行政機関としての必要性を見直し,その結果に基づき,民間事業への転換をはじめ,民間若しくは地方公共団体への移譲若しくは廃止又は府省の編成に併せた統合を推進するほか,行政機関の職員のみを対象とする研修施設以外のものの独立行政法人への移行等により,その運営の効率化を図るものとする。」として,国立学校を完全に別枠と想定していることになります。
「調査検討会議」が,そもそも「独立行政法人制度の下で,大学の特性に配慮しつつ,国立大学等を法人化する場合の法令面や運用面での対応など制度の具体的な内容について必要な調査検討を行うことを目的」としたものゆえ,態度が曖昧なことはやむを得ない向きもありますが,独立行政法人通則法の受け入れがたい部分については批判的に指摘するべきです。さもないと,新制度を提起する説得力がありません。
同時に同通則法を取り入れた部分については,理由を明確にすべきです。「中間報告」は,独立行政法人通則法を先験的に前提としており,はなはだ中途半端で,不十分なものに過ぎません。
(2)前提と各論の不整合
「中間報告」T基本的な考え方1.検討の前提(国立大学の法人化を検討する場合に,まず前提とされるべき基本的な考え方の整理)前提1で,「……この問題は,……いわば行政改革の視点を越えて,……活力に富み国際競争力のある大学づくりの一環として検討することが前提となる。」「……現在の国立大学に,単に法人格を付与するとか,既存の法人制度の枠組みに単純に当てはめるといった消極的な発想ではなく,……法人化のメリットを大学改革のために最大限に活用するという積極的な発想に立って,新しい国立大学の姿を模索する必要がある。」「国立大学だけの改革にとどまらず,……高等教育や科学技術・学術研究に対する公的支援を拡充することが不可欠である。」などに対しては,一定の評価をするものです。
各論において,この前提との不整合,あるいは矛盾する内容を徹底的に精査し,大幅な再検討をすることが必要と思われます。
(3)意見募集の延長を
「中間報告」は,要所要所で外来語として定着していない,概念の不確かなカタカナ語を用い,報告自体の曖昧さを露呈しています。
「調査検討会議」の議事録によると,委員自身が基本的な事柄を理解していなかったり,意識を共有しないまま進んでいた面が否定できません。この「中間報告」は,「終着点」を見据えたものというより,あえて「出発点」と意識し,意見募集についても,期間を延長して,広く深い論議をすべきと思います。
貴省に対して,あるいは,すでに中央省庁改革推進本部等から日程の指示があるのかも知れませんが,これから国家百年の計のおおもととなる教育方針の構築のためには,さらに広く意見募集をおこなうことを求めます。
2.組織業務について
(1)国を設置者とするのは当然
「中間報告」では,2.制度設計の方針(1)法人の基本で,大学の設置者について,「学校教育法上は国を設置者とする」とあります。これは,ある意味では当然のことです。国立大学のもつ土地建物などはもちろんのこと,人的資源もすべて国民の財産です。
「国の関与と国の予算における所要の財源措置が前提とされていること」は,当初から前提のはずです。ところが,この設置者問題は,たびたび論議され,いたずらに時間を費やしたかに見えます。6月29日の組織業務委員会における「中間報告のとりまとめの方向」では,「国を設置者とすることを原則とする方向で検討する」とあり,8月9日の連絡調整委員会で出された「中間報告(案)」ではまだ,「国を設置者とする方向で検討する」であり,9月6日の「中間報告(案)」でようやく,「学校教育法上は国を設置者とする」となりました。
そもそも,法人化問題が議論され始めた当初から,各界で「私立大学の存在」「民営化」などの言葉が無責任に提出され,法人化に反対する立場からも「国立大学がなくなる」というような論調で,マスコミにも誤った情報が錯綜した経緯があります。
設置者問題が明確になった今こそ,ようやく,仮定としての国立大学法人化問題の議論の出発点に立ったと言えます。
「大学の運営組織と別に法人としての固有の組織は設けない」とし,法人組織と大学組織を分けないことについては,当然のこととして評価するものですが,やはり,6月に「…原則とする方向で検討する」,8月に「…方向で検討する」であったことを勘案すると,議論の入り口にたどり着いたに過ぎないことを意味します。
(2)附属学校等の「特定の施設」を独立させるのは問題
「調査検討会議」のみならず,附属学校の独立問題が取りざたされています。6月に経済財政諮問会議に出された「大学(国立大学)の構造改革の方針」の中に,「2.国立大学に民間的発想の経営手法を導入する」として,「国立大学の機能の一部を分離・独立(独立採算制を導入)・附属学校,ビジネススクール等から対象を検討」としています。
これを受けてか,「国立の教員養成系大学・学部の在り方に関する懇談会」でも,「・国立大学の法人化の検討の中で,附属学校における独立採算性の導入が検討。・独立性を有した附属学校」が議論され,「大学から独立し,独自の運営が可能かつ適切と思われる附属学校は,独立採算性へ移行が可能となるような制度を検討。」とし,「(学校法人化?)」などとさえしています。
これらの議論は,現行の制度や実態を踏まえないものであり,適切な批判が加えられるべきものです。
「中間報告」では,(施設への出資)として,「大学の施設のうち,運営の実態や独立採算の可能性等を踏まえ,より柔軟な運営を実現するなどの観点から,特定の施設を国立大学法人(仮称)から独立させ,別の種類の法人とするとともに,必要に応じて国立大学法人(仮称)がこれらの法人に出資できることとする。」ていますが,これはもちろん,前段(教育研究施設)の「大学の附属図書館,附属学校,附属病院,附置研究所等の教育研究施設については,従来から大学の教育研究活動と不可分な関係にあるものとして位置付けられてきたことを踏まえ,大学に包括されるものとして位置付ける。」が前提と思われ,「別の種類の法人」の概念がはなはだ心許ないものです。
大学の出資する別法人という概念が,「民営化」や「学校法人」に当てはまらないことは明らかです。国に設置される国立大学に包括される以上,私立学校を設置する学校法人にはなりません。国営企業の民営化は,株式を国が保有し,それを売却することで可能でしょうが,学校法人は,出資者の概念はあいまいで,出資とは,「寄附」のことです。具体的に可能な出資とは,土地建物の供与でしょうが,法人格を持たすとはいえ,国の機関である国立大学が,「寄附」をすることが可能とは思えません。
また,私立学校ですら,決して独立採算でないことにも留意すべきです。私学振興助成法のもと,私立大学は国の予算から多額の運営費補助金が交付されています。特に高校以下は,国の予算措置の他,都道府県の所管にあるため,地方交付税交付金を含めた地方の財政措置もあり,帰属収入に対する助成の割合は大学よりも大きくなっています。
私学も公教育の一翼を担っており,決して私法人ではなく,必ずしも「民間的発想の経営手法」を取ってはおらず,また,そうすべきものでもありません。
すでに独立行政法人化した国の機関は,国の予算措置の元に運営され,独立採算を前提としていません。複式簿記による独自の財政諸表を作成することと,独立採算とは,まったく別次元のことです。国立大学そのものも,仮に法人化したとしても,独立採算を目指すものではありません。「大学の出資する別法人」とは,土地建物の供与という形で出資し,人件費を始めとする運営費を,支出し続けることにしかなりません。
また,そうした前提に立ち,財政の面で附属学校が独立の財務管理をすることは可能かもしれません。いわゆる企業の事業本部制がそうですし,複数学校を設置する学校法人会計も同様に学校ごとに財務諸表を作成していますが,そのことと,法的に人格を持つことは全く別です。
現在,200校あまりの国立大学附属学校園があります。その学校数は,公私立校の数に比べればほんの一部ですが,その役割は決して小さくありません。単に教育実習等の場所を提供することで,大学に協力するばかりでなく,それぞれの地方において,実践的教育研究の拠点となり,我が国の高校以下の教育を牽引していると言っても過言ではありません。
特殊教育においては,障害を持つ子どもたちへのよりよい教育のために,附属学校は大学との教育研究の連携をはかりながらその成果を提示してまいりました。
また,普通校については,かねてからエリート校化が批判の対象となっています。むしろ近年は,社会構造の変化から,高校以下の私立学校の受験エリート校化が著しく,公立校の存在感が低下しつつあることと相まって,私立の受験エリート校と並ぶものととらえる傾向にありますが,まったく実態は異なります。国立附属学校は,目先の受験にとらわれずに,独自の教育を行っている実績があります。将来の社会を担う人材という意味ではエリート育成かも知れませんが,児童生徒が学ぶのは,個人の将来の生活安定のためではなく,広く社会貢献に結びつくもののはずです。
エリート校なので,裕福な家庭の子弟が集まり,「高学費を取っても生徒が集まるので,独立採算可能」とは,論理の飛躍も甚だしく,そうした私事化の発想は,教育本来の意味の否定につながります。
国立大学附属病院もまた,研究活動と人材育成に大きな意義があります。現状でも,大学から採算性を要求され,看護婦数の不足など,深刻な問題を抱えており,本来持っている社会的信用と裏腹に医療過誤などの問題を起こしています。
国立大学と別法人になったときに,さらに強く採算性を要求されては,本来の役割を失い,「角を矯めて牛を殺す」ことになりかねません。あくまで教学と一体でなければ,附属病院の存在意義を失います。
(3)業務拡大の危険性
「中間報告」は,(業務の範囲)で,「種々の制約から現行では大学自ら実施しがたい業務についても,法人化に伴い大学の業務として実施できるようにする。」「特に,近年,大学の教育研究の活性化や新産業の創出等への期待から,産学官連携の必要性が強く指摘されており,大学自らの総合的・戦略的な判断に基づき,産学官連携を推進することが重要である。」とし,さらに(他の法人への出資)で,「業務の一部については,法人化後の国立大学とは別の法人に実施させることにより,業務のアウトソーシングによる効率的な運営や弾力的な事業展開の実現,複数の出資者を募ることによる資金確保の途の拡大等に資することが期待できることから,業務の膨張への歯止めに留意しつつ,国立大学法人(仮称)からこれらの法人への出資も可能とする。」としています。
こうした業務の拡大は,国立大学本来の役割をいたずらに歪める恐れがあります。特に,「産学官連携の在り方(リエゾン機能,TLO,インキュベーション業務,特許等知的所有権の管理など)」には慎重であるべきです。特殊法人・特殊会社や第三セクターなど,これまで安易な設立や杜撰な経営等が問題とされてきたように,別法人の設立,出資は厳に戒めるべきです。私立大学を経営する学校法人も収益事業を行っているところがありますが,その多くは,収益どころか赤字を出していることにも留意すべきです。
3.目標・評価について
(1)「グランドデザイン」,「長期目標」の概念が曖昧
「中間報告」が,独立行政法人通則法に規定のない,長期目標を自主的に策定するものとしたことには,一定の評価をします。同法が規定する,3年以上,5年以内の「中期目標」・「中期計画」が,教育研究機関になじまないことは,かねてから指摘されていたところです。
しかし,その策定が,「国の高等教育・学術研究に係るグランドデザイン等を踏まえ,」とあることに一抹の危惧を覚えずにいられません。ここでいう「グランドデザイン」とは,すでに指摘した「外来語として定着していない,概念の不確かなカタカナ語」に相当します。具体的な手順や,策定機関を明らかにすべきです。
8月までの「中間報告(案)」では,「国が策定する政策目標」であったことを踏まえると,戦前の「帝国大学令」すら想起させられかねません。「中間報告」は,公開と説明責任によって,新しい国立大学像を打ち出しています。「長期目標」は,時の政府の政策に左右されるべきものでなく,広く国民の目によって注視されるべきものと考えます。
(2)独立行政法人制度の「中期目標」・「中期計画」の無前提の受け入れ
前述のように,中央省庁等改革基本法は,国立大学の独立行政法人化を想定しておらず,また,「中間報告」自体,「国立大学法人法(仮称)」ないし「国立大学法(仮称)」を提唱していることから,必ずしも独立行政法人通則法の枠組みにこだわる必要がないはずですが,「中期目標」・「中期計画」の語を全く無定義のまま使用していることから,同法を強く意識したものに思われます。「中期目標」・「中期計画」は同法で定義されていますが,それ以前に中央省庁等改革基本法第38条に規定されています。
同法のいう「3年以上,5年以内」の枠を越え,「カリキュラム編成の実態や修業年限等を考慮し,6年を原則」,「大学の自主性を尊重しつつ,年度を単位に可能な限り柔軟に対応」また,「あらかじめ各大学が文部科学大臣に中期目標(案)を提案し,文部科学大臣は,これを十分に尊重し」とされたことは評価に値しますが,こうした手続きを独立行政法人通則法の枠組みのまま用いることには,きちんとした総括がされるべきです。
(3)二重三重の評価の疑問
「中間報告」は,「国際的水準の活動に従事した経験を有する幅広い分野の有識者から構成する国立大学評価委員会(仮称)」を設置するとしている一方,「教育研究に関する事項は大学評価・学位授与機構による専門的な評価の結果を活用」としています。すでに個々の大学の運営機構に第三者,学外者の導入を提言しているのですから,二重,三重の外部評価となります。こうした外部評価が情報公開とともに,国立大学の運営上プラスに作用することであるならば,大いに取り入れるべきでしょう。しかし,「中間報告」は,評価を「競争原理」に直結して位置づけており,高等教育機関たる大学をあまりに軽んじているといわざるを得ません。教育上も,児童生徒,学生を評価することは,競争原理とは全く異なる次元からです。
そもそも教育研究の実践の成果は数量化することが困難です。たとえば論文数であるならば,一つの研究成果を二つの論文に分けようとすることなどが,今でも行われており,むしろ,そうした単に目先の評価を受けようとすることのみに大学人が邁進すれば,結果として教育研究の内実が空洞化することは論を待ちません。
本学の白川英樹名誉教授のノーベル賞受賞にあたる研究成果は10年にわたる研究の末のものであり,また,前任の大学での評価は必ずしも高くなかったとさえ聞き及びます。かの発明王エジソンは「何千回の実験の失敗も,この方法ではダメだということがわかった成功である」という意味のことをのべています。最終的な「国立大学評価委員会(仮称)」の評価が,各国立大学の運営費補助金に反映されるならば,6年間という中期目標・中期計画の期間はあまりにも短いといわざるを得ません。
4.人事について
(1)身分は国家公務員とし,教育公務員特例法を適用すべき
「中間報告」では,教職員の身分について,「国家公務員の身分を付与する場合(公務員型)と付与しない場合(非公務員型)」を想定し,「ア・プリオリに公務員型,非公務員型を選択するのではなく,個別の制度設計を積み上げた最終結果として判断することが適当」としています。
「公務員型」と「非公務員型」は,特定独立行政法人と独立行政法人に対する俗称としての表現で,「中間報告」が「ア・プリオリに」独立行政法人通則法を前提としていることを露呈しています。旧文部省が1999年9月に「国立大学の独立行政法人化の検討の方向」において,「長期的観点に立った自主的・自立的な教育研究の活性化の観点から法人間の移動を促進するため,国家公務員とする」としていたことを全く踏まえていません。
かりに法人化したとしても,国立大学の土地建物設備などの物的資産,人材資源や研究成果の積み上げなどの有形無形のすべてが国民の財産です。国が設置者たる国立大学の教職員は国家公務員以外の何ものでもあり得ません。日本国憲法,教育基本法の定めるとおり,全体の奉仕者たるべきです。
したがって,教職員の身分を非公務員とすることは,あらかじめ国立大学を限りなく私法人に近い形で,根本から制度設計することしかあり得ず,「個別の制度設計を積み上げた最終結果」,決まることは論理的にあり得ません。
教育公務員特例法もまた,「国立大学の独立行政法人化の検討の方向」で前提とされており,戦後の大学の運営に大きな役割を果たしてきた実績があります。そのまま適用すべきです。
国立大学の教職員は身分保障を担保に,その待遇を人事院制度にゆだねてきた歴史的経緯があります。もはや待遇の面では,私立大学の方がはるかに恵まれていると言えましょう。しかし,争議権を与え,賃金を民間相場にしようというのは,大学に無用の混乱を与えるだけではなく,本来この法人化問題のきっかけとなった「効率化」に逆行することです。
(2)教職員に対する厳正な評価システムは困難
大学の評価と重なりますが,教育研究活動の数量的評価は困難です。「成果・業績を反映したインセンティブを付与する」と「中間報告」にありますが,ここでも「外来語として定着していない,概念の不確かなカタカナ語」であることはともかくとしても,国立大学の教職員にとって,必要なのは安心して働ける身分保障と,必要な研究環境の向上であって,経済的な報償は必ずしも意欲向上の誘因にならないことは,勤勉手当など,これまでの経緯からも明らかです。
評価のための評価がシステム化することで,かえって業務に支障を来すこともあります。短期間で結果の出せない基礎研究をおこなうことは大学の使命である教育面からも有効ですが,必ずしも評価システムに合致するものではありません。前述の白川名誉教授やエジソンの例を引くまでもなく,ある成果を得るためには,限りない失敗の積み重ねがあります。研究者があらかじめ失敗をおそれて,結果の見えるようなことしかしなければ,研究は停滞します。あるいは,その中途段階で撤退が適当とわかってしまったプロジェクトでも,評価をおそれて無駄な資金をさらに注入せざるを得ない事態すら想像できます。
5.財務会計制度について
(1)財務システムが不明確
「中間報告」では,「独立行政法人全般へ適用する会計基準については,既に『独立行政法人会計基準』が策定されているが,これを参考としつつ,大学の特性を踏まえた取扱いとすべきである。」としています。独立行政法人通則法では「独立行政法人は企業会計原則に基づく」とありますが,旧総務庁「独立行政法人会計基準研究会」は,1999年9月の「中間的論点整理」で,「企業会計原則は……営利企業と制度の前提や財務構造等を異にする独法にそのままの形で適用すると,本来伝達されるべき会計情報が伝達されない,あるいは歪められた形で提供することになりかねない。」とし,最終的な「独立行政法人会計基準」「独立行政法人会計基準注解」は,「企業会計原則」とはずいぶんと性格の異なるものになっています。
「独立行政法人会計基準」では,単年度主義である公会計を脱し,発生主義により行政コストを把握することを試みていますが,建物の建設などは別個の運営費交付金を国から計上するため,法人のコストとせず,したがって,貸借対照表上は減価償却をするものの,損益計算書から毎年支出としては減価償却しないので,貸借対照表による資産管理の意味はほとんど意味がありません。職員の退職金についても引当金を計上するのではなく,国が別途措置することから,単年度主義から脱していません。また,長期借入金も認めていないので,財政上の自律性はきわめて低いものです。
「中間報告」は,「各大学における多様な財源確保の観点から,長期借入を行うことを可能とする。」としていますが,一方で,「現在,国立学校特別会計において認められている学校財産処分収入をもって国立学校の施設整備の財源に充てる仕組みについては,これを存続させる。」とし,「移転整備及び附属病院整備に係る長期借入や不用財産処分収入の処理等を行うためのシステム(以下「システム」という。)を構築する(共同機関の設置等)。」としていることから,施設設備整備のための大学独自の長期借入金は認められず,独立行政法人同様,財政上の自立は高くないものです。
また,「中間報告」は,国の国立大学への出資を,すでに制度化された独立行政法人と同様にとらえているかと思われます。つまり,現に利用している土地建物に相当する金額を出資したものとする,ということです。事実,「移行前に現に利用に供している土地・建物は,処分が適当と考えられるものを除き,各大学の財産的基礎を確立する観点から,原則として国から当該大学に対し現物出資(又は無償貸与)するものとする。」としており,それ以外に国による出資の形の記述は見あたりません。もっとも,国立大学の土地建物は,当然に国有財産ですから,勝手な自己処分は許されるべきではありません。「土地・建物の処分は,主務大臣の認可を経てなされる」というのは穏当な結論ですが,それが「出資」されたものであるならば,固定資産の流動資産への転換を意味するだけで,「収入」にはあたりません。出資時の資本金算出に時価額方式をとるならば,ほとんど収益は出ません。取得時価額方式をとるならば,国立大学の設立はいずれも相当に古いものなので,収益が出るでしょうが,そうした帳簿上の差異はほとんど意味のないことです。
「中間報告」は,「当該処分収入の一定部分については各大学の自己収入とし,残余は国立大学法人(仮称)全体の施設整備の財源調整に充てる。」としていることからも,土地建物を資本とは意識していないかのようです。繰り返しますが,土地建物は国民の財産ですから,学校法人のもつ基本金にはあたらず,法人の自由にならないものであることは論を待ちません。「各大学の財産的基礎を確立する観点」とはありますが,全く帳簿上のことに過ぎないことがわかります。
国立大学は国の機関でありながら,すでに一定の自主性,自律性をもっています。前提にあるように,「単に法人格を付与するとか,既存の法人制度の枠組みに単純に当てはめるといった消極的な発想ではなく。」「法人化のメリットを大学改革のために最大限に活用するという積極的な発想に立って,」法人化を「大学全体の活性化と教育研究の高度化に真に資する契機」とするには,財政の自律性が鍵となります。その意味では,「中間報告」における財務システムは,まだまだ不明確です。
(2)公的支援拡充を前提に
そもそも,我が国の高等教育にかける公的出資が,他の先進諸国に比べてGDP比でかなり低いことは多方面から指摘されています。「中間報告」の「基本的考え方」で,「高等教育や科学技術・学術研究に対する公的支援を拡充することが不可欠」としていることはまさにその通りです。公的支援の拡充を前提とするならば,「大学(国立大学)の構造改革の方針」における「トップ30への重点配分」には,全く異なる評価も可能かも知れません。ところが,十分な予算措置をせず,「重点配分」することは,まさに「スクラップ・アンド・ビルド」のうち,「スクラップ」に重きが置かれるかのようです。
資源をもたない我が国にとって,教育と研究が何よりの支えであることは,今さら指摘するまでもなく,また,歴史が証明していることです。運営費交付金の配分システムにせよ,評価システムにせよ,高等教育予算の拡充が前提ならば,評価できる部分もあるかも知れません。そうでなく,むしろ,予算の縮小を前提とするならば,国立大学にとって,自殺行為に自ら導くことになりかねません。
授業料等納付金についても,法人化に反対する立場から,「法人化すると私立大学並に高くなる」ことが言われますが,適当ではありません。法人格をもつ,欧米の国立・州立大学の学費がほぼ無償であることからも当然のことです。法人化を口実に,授業料値上げを招くような事態は避けなければなりません。この30年間で,物価として最も上がったものは国立大学の授業料といわれます。国立大学の学生納付金は,その学籍を保障する最低額の金額であるべきで,安直な受益者負担の論理を持ち出すべきではありません。
誰でも学べる機会均等によって,またその研究成果の社会への還元によって,国民がすべて利益を得ているのです。したがって,国立大学のあり方は,すべての国民に関わることであって,厳密な意味での「第三者評価」は存在しないことになります。
繰り返しますが,国立大学は国民の財産です。拙速な制度改変で,国家百年の計を誤ってはなりません。
以上