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効率で測れぬ研究・教育  近視眼的な国立大学改革(池内  了)
2001.8.9 [he-forum 2364] 朝日新聞08/08.

『朝日新聞』2001年8月8日付夕刊


科学を読む


池内  了

  効率で測れぬ研究・教育  近視眼的な国立大学改革

  今や日本には、構造改革という名のナショナリズムが横溢している。むろん、バブルがはじけた後の失われた10年を経て、巨大な不良債券でにっちもさっちも行かなくなった現状に対して、構造改革が不可避であることは事実である。しかし、本来100年のスケールで構想しなければならない分野にまで、「聖域なき構造改革」とばかりに性急に改革を押し付けようとするのは、それこそ「国家百年の計」を危うくさせることになると言わざるを得ない。私が関係する科学研究と大学教育の分野について述べてみたい。

  層の厚さが生む成果
  イギリスの科学誌ネイチャーの5月31日号に「ナショナリズムの危険性」と題する巻頭言が掲載されている。そこでは、多くの国々が科学研究の現場に経済論理を持ち込み、知的財産権競争でアメリカに追いつき追い越せとばかりに、特許が取れるような応用分野ばかりを強化しようとしていることに危ぐを表明している。その典型国として日本を挙げ、科学研究におけるナショナリズムの過度な強調は、自由な発想に基づく基礎科学を衰退させ、公開を原則とする科学研究の国際性を危機に陥れる、と懸念しているのだ。私も、日本政府が金もうけにつながる応用研究こそ社会に貢献する研究であるとして、国立研究機関を独立法人化し、国立大学の設置形態の大幅な改変を行おうとしていることに対し、科学研究の将来を危うくすると恐れている。
  科学の研究は、海の物とも山の物ともわからない状態から、研究者の時間をかけた創意と試行錯誤の中で進めるのが基本である。そのためには、幅広い分野に目配りし、その基盤的な研究環境を整備することがまず第一条件なのである。そのような層の厚い研究体制を構築してこそ、重点分野の花が開くのであり、巨大な予算を注ぎ込んだからといって直ちに成果が上がるものではない。
ナショナリズムに根ざした近視眼的な科学研究の構造改革は、かえって日本の科学の力量を弱めることになりかねないだろう。


  文化支えた地方大学


  さらに、6月11日の経済財政諮問会議に遠山文部科学大臣が提出した、「大学(国立大学)構造改革の方針」、いわゆる「遠山プラン」の問題点を指摘しておきたい。このプランでは、国立大学の大幅な削減、国立大学への民間的経営手法の導入、大学(国立大学のみに限らない)への第三者評価による競争原理の導入、の三つが大学改革の眼目とされている。同時に提出された「大学を起点とする日本経済活性化のための構造改革プラン」ともども、大学に経済論理を貫徹させようとしているのだ。その大きな目玉は、国公私立を問わず「トップ30」の大学を世界最高水準に育成することであり、大学を国家の手で勝ち組と負け組に分断する構造改革案と言えよう。
  特に強調したいことは、この遠山プランには教育の視点がまったく無視されていることである。戦後の大学改革は、一つの県に最低一つの国立大学を設置し、国民が教育を受ける権利を保障しようとした。その結果、今や大学・短大への進学率は私立を含めると50%近くになり、大学は、かつてのエリート養成から大衆化し、生涯教育なども担う開かれた教育機関へと変わりつつある。この変化は、それなりに国立大学が国民の高等教育への要求を満たしてきた表れと言えるだろう。その中で、基層を支える幅広い人材の養成という、地方国立大学が果たしてきた役割を高く評価すべきであると私は思っている。ところが、効率性を盾に、地方国立大学が切り捨てられようとしているのだ。


  軽視できぬ国家事業


  時間をかけた基礎的な研究と高等教育への手厚い目配りは、経済論理のみでは測れず、短期的には実利がなさそうに見えるが、軽視してはならない大事な国家事業なのではないだろうか。現在行われようとしている、近視眼的なナショナリズムに鼓舞された大学の構造改革は、(私自身が、たとえ守旧派と非難されようと)角を矯めて牛を殺す事態を招きかねないと強調しておきたい。

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