市場原理で知の競争を 自己改革できない国立大
2001.8.3 [he-forum 2349] 日本経済新聞07/29
『日本経済新聞』2001年7月29日付
リレー討論 大学を変える(1)
市場原理で知の競争を 自己改革できない国立大
東京外国語大学学長 中嶋嶺雄氏
少子化と国際的な知の競争が深まる中、構造改革の一環として大学再編が具体化してきた。遠山敦子文部科学相が経済財政諮問会議に提示した「大学の構造改革の方針」(遠山プラン)は、国立大の統合再編や公私立大を含めた上位三十校への重点投資など、民営化を視野に入れた高等教育の再設計を提示した。大学をどう変えるか。まず、国立大学協会副会長も務めた中嶋嶺雄・東京外国語大学学長に聞いた。
―「遠山プラン」が国立大学関係者はもとより各方面に波紋を広げています。
国立大学協会でさまざまな既得権益とぶつかりながら改革を進めてきた立場から、どう受け止めましたか。
国大協自身が法人化へ向けた具体化案をまとめる矢先に「遠山プラン」が発表されたわけで、一種のパニック状態でした。国立大改革の流れは国大協の内部からの改革のほか、法人化へむけて私大や財界関係者なども加わった文部科学省の検討委員会があり、同省はこの中間的なところで改革案を収める考えでした。ところが、小泉政権が発足してから「聖域なき構造改革」の一環としてこれをとらえた激しい流れが加わり、文部科学省自身が大きく方向転換することになった。ある意味で従来の設計を根底から覆す内容で、国大協側には寝耳に水のプランでした。
しかし、護送船団でやって来た99の国立大の自己改造の試みが世間に対して説得力を持たなかったということであり、社会に対して「これでは耐えられない」と文部科学省が判断したということだと思います。その意味では、来るべきものが来たというべきかもしれません。
―それだけ国立大学全体に危機意識が希薄で、社会の変化への対応力が衰退していると。
もう少し早く、大学自身が生まれ変われなかったのかと残念です。現場の動きが鈍く、社会からの風をできるだけ避けようとする。大学の自治といわれるものがあるのですが、具体的にはそれが時代に背を向けた教授会自治になるなどしてさび付いてしまい、日本の高等教育を空洞化させています。
現に優秀な学生が日本の大学を素通りして米国の大学を志望する例が増えています。米国で博士号を取れば国際的に活躍できる資格が得られるといった例を考えると、(そうした研究教育機関の役割を果たしていない)日本の大学は護送船団方式による惰性で危機的な状況を抱えているといえます。
独立行政法人化論議は、もともと12万5千人といわれる文部科学省職員の削減という行政改革の流れで浮上したわけですが、問題は、21世紀の情報技術(IT)革命のさなかにあって、明治以来の近代化を担った国立大がいまだに親方日の丸のもとで変われないことです。定員削減問題で反発するあまり、議論を改革に結びつけられなかった。文科相が「設置者としての責任でプランを実行する」とあえて表明したのは、国立大学側の自己改革の限界を認めたことにほかなりません。
―「遠山プラン」を本気で実行に移せば、かなりの抵抗に加えて現行のスキーム(枠組み)との摩擦が予想されますが。
いま検討が進みつつある国立大学法人という枠組みと「遠山プラン」を具体的につなぐ道筋は、文科省もまだ十分に詰めてはいないと思います。これを実現するには、世論に働きかけて、例えば、「1県に1国立大は必要なのか」といった議論を深める必要があります。その上で、プランをもとにスクラップ・アンド・ビルドを進める審議の場が必要になってくるでしょう。しかし、それを現行の中央教育審議会などで引き受けられるかどうか。
これからの大学改革の通奏低音となると思われる公私立大も巻き込んだ「トップ30」をとってみても簡単ではない。おそらく大学を教育・研究の機能面、分野面で評価、ランクづけし、入れ替えが常に行われるような「外科手術」のしくみが必要になります。われわれは一橋大、東京工業大、東京医科歯科大と「4大学連合」を発足させました。国立大学は過去に存続のためにいろいろな報告を作ってきましたが、自己満足に過ぎなかったと思います。大学は、その国の可能性を映し出す鏡であって、日本がこのまま沈没してよければ、現状に甘んじてもいいが、そうでないなら新たな評価と経営の形を作るべきです。
―高等教育機関全体の再編とともに、機能的なすみ分けも進むと思われますが。
日本の高等教育は、教育面では、私学が量的に圧倒的な役割を果たしているのが特徴です。一方で、ノーベル賞級の研究者や国際的に活躍する指導者を育成する役割では、国立大学中心でありすぎた。もちろん、すべての高等教育機関がそうした役割を担うわけではなく、全体の知の底上げも大学の大切な使命でしょう。
ところが、大学の学長同士も設置形態ごとに固まっていて国公私が一緒になる場が全くない。国際交流での資金援助なども政府の事業だと国立大だけが優先される。たまたま私が国際事務総長をしているアジア太平洋大学交流機構UMAPでは、留学のための国の奨学金まで国公私大の学生すべてを対象にしていますが、これは例外的です。制度面で国立大優位が崩れない大きな理由の一つは、学長以下教職員が現状に満足していて変えたくないと考えていることです。そこにメスを入れなければ現状は変わらないでしょう。
―設置形態を超えた競争は何がカギになるのでしょうか。
一つは評価のあり方です。大学評価機構という国の機関は、国立大学だけを当面の評価対象にしていますが、当然、国公私を含めた大学評価機関にする必要があります。さらに、これだけでなく民間を含めたさまざまな評価機構があったほうがいい。ランキングというのは非常に分かりやすい業績の物差しだし、論文の引用数でみるピアレビュー(メンバーによる相互評価)は、専門家集団による評価として国際的な競争を支えるシステムになります。
しかし、最終的には市場原理の導入がカギです。これを拒否すれば、結局、社会主義的な国営化に向かうわけで、それが20世紀のしくみとして持続してきたわけです。日本の高等教育への財政支出の割合は先進諸国と比べて低く、もっと増やすべきですが、いまの小さなパイのもとでも国立大には、2兆数千億円を振り向ける一方で、私学は3000億円程度にすぎません。この落差ほどには、両者の教育・研究に差がない。こうした現状への不満は、当然考慮しなくてはなりません。
―国立大学で定員割れが起き、私学では倒産も予想されるなど、少子化の進行で大学経営が難しい時代です。
要は、それぞれの大学が新たにどんな付加価値を生み出せるかです。大学に期待される知的な活動については、学部から大学院に軸足が移りつつありますが、旧帝大を中心とした大学院重点化政策は、組織をふくらませただけで、中身を伴う改革にはほど遠い。
社会人を対象にした職業教育機能も新たな需要です。「遠山プラン」と合わせ、いわゆる「平沼プラン」では大学発の新産業創出へむけて日本版シリコンバレーを全国に作る計画です。こうした産業界からの要請やプロフェッショナルスクールには、「学問の府」の立場からの反対が常にありますが、99の国立大学が縦一線に並んで現実に対応する時代はもう終わったのです。明治以来の日本の成功体験に寄りそった大学像を捨てなければ、日本の大学は再生できません。
(聞き手は編集委員 柴崎信三)
なかじま・みねお
1936年、長野県松本市生まれ。東京外国語大学中国科卒、東大大学院修了。東京外国語大学教授となり95年から学長。この間、カリフォルニア大学客員教授などを歴任。中国の文化大革命を分析した『北京烈烈』でサントリー学芸賞受賞。『中ソ対立と現代』などの著書がある。中央教育審議会委員。
▼「遠山プラン」は構造改革の一環として示された国立大改革案。国立大の統合再編や公私立大学を含めた競争で上位30校に資金を重点配分する計画。
▼これとは別に文部科学省、国立大学協会がそれぞれ国立大の法人化へ向けて組織や運営の枠組みを検討している。99ある国立大には既に概算要求へ向けて統合案を打ち出しているところもある。
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