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政治主導で再編に道筋 町村信孝衆院議員
2001.8.19 日本経済新聞朝刊
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<日本経済新聞 8月19日(日)朝刊>
リレー討論 大学をかえる 4
政治主導で再編に道筋
自民党幹事長代理(前文部科学相)町村 信孝
公平に評価、適正に財源配分
納税者から見て、大学はその要求にこたえているか。小泉政権は「聖域なき構造改革」の一環として大学改革を位置づけ、新たな制度設計の下、知の競争の時代にふさわしい姿を探っている。前文部科学相で自民党幹事長代理の町村信孝衆院議員に聞いた。
―当事者である大学や文部科学省を中心に検討されてきた国立大学改革が、いわゆる「遠山プラン」で政治主導の構造改革としての色合いが強まったようにみえます。
私は1969年に東大を卒業しましたが、大学紛争のさなかで、いわゆるノンセクトとしてストライキ実行委員会にも加わりました。その過程で実感したのは、大学という組織が封建的で自己改革力の乏しい人たちの集まりであるとうことです。東大教授とはこんなものかと大きな失望感を味わいました。自分たちの問題として真剣に改革に取り組もうという人が一割もおらず、卒業して四、五年後に訪れて聞いたのは「やっと元通りになった」という声で、がっかりしました。 そういう大学は変えるべきだと思い続けたことが、国会議員を志す動機の一つになりました。大臣のとき、国立大学協会の総会で「改革ができないならつぶす」とまで言ったのは、納税者がこのままでは存続を許さないという意味なのです。 小泉改革がそうした国立大学を見直しの対象にするのは当然ですが、以前から審議会などでこの問題に手をつけてきた立場からすれば、遅きに失したというべきです。その結果自己改革ができないなら、政治主導でも改革を進めることが時代の要請でしょう。
―小泉首相は国立大学改革で「民営化」も視野に入れた考え方を示していますが。
「民間に任せられるものは民間に」という改革の原則論を敷延して述べたもので、具体的な筋道はこれからだと思います。まずは大学の再編統合を思い切って進めることが必要です。例えば教員養成大学。いま教員免許を取った人は十人に一人しか教職に採用されないから、明らかに資源のロスです。こうした大学ではおよそ教育と関係ない学科名をつけて教員と学生の定員を満たしているのが現状です。 「一県一大学」も教育の機会均等という目的の下で設計されたのですが、県立や公私協力などで地方に大学が次々新設されています。学生数が減っている時代に財源の無駄遣いだと思いますが、それだけでは済まず、地方の国立大の存在意義は何なのか、それに医大を含めた単科大学も国立である意義はどこにあるのか、といった問題になる。県域を越えた大学の再編統合は当然のことではないかと考えます。 その上で、民営化といわずとも民間的発送で大学経営を進めればいいんです。自民党は国立大学法という形で、学長を選ぶにも一般の独立行政法人とは異なる運営を打ち出し、今秋の中間報告を経て二〇〇三年一月の通常国会に法案を提出する予定です。その際問われるのは競争原理の導入です。 教育・研究の評価には大学評価・学位授与機構がありますが、これはあくまでも国立大学が対象で、私立大学を含めた第三者による外部評価の義務づけ、公表をこの中で進める。その結果「トップ30」で日本のセンター・オブ・エクセレンス(知識の中心)を形成しようというわけです。そのために党も教育改革推進本部を作ります。
―一九八〇年代の臨時教育審議会以降進められてきた日本の高等教育政策と、いま直面する現実との落差をどう見ますか。
問題の根源は大学関係者の意識であって、学部を超えた教育研究組織作り、教員の任期制など具体的な改革は、意識の変革なしには不可能です。少子化という制約はありますが、知識集約化と大衆化が進む社会で、高等教育全体の規模を国が予測して策定することは難しく、基本的には希望する人が一定水準を満たせば進学できる体制が望ましいと思います。 ただ問題はそこに税金が投入されることで、納税者の立場からそれが適正かどうかのチェックは常に働かなくてはなりません。教育の機会均等が行き渡っていると思いますが、結果の均等にまで行き過ぎて悪平等が生じています。行きたくもない高校に入れるから中退者が増える。十五歳の大学生がいてもいいし、三十歳の高校生がいてもいい。学びたい時に学び、理解に応じて学ぶことが本来当たり前でしょう。 確かにこれだけ少子化が進む中で私大の新設、定員増が続いてきたのは一種の悲劇です。国立大が税の制約で統廃合を迫られるように、私学の経営破たんも現実化するでしょうから、大学の倒産法制を整備する必要があります。護送船団はもう終わりであることを国公立、私大とも自覚しなければなりません。
―国立学校特別会計、私大への補助金、科学研究費補助金など高等教育全体への予算配分のしくみやバランスも競争原理の導入で変わってきますね。
法人化によって、国立だから無条件にすべての財源が確保されるということはなくなります。ただ日本は主要国にくらべて高等教育への国の支援の割合が低いという事情もありますから、必要な予算は確保しなくてはなりません。そこで公私の配分較差が問題になりますが、すべてが「トップ30で競うのでなく、研究より教育に特化したところも必要です。これは国公私すべての大学にいえますが、大学の先生は研究が主で教育が従という意識が強すぎます。とりわけ、私学は教育に力を入れた大学が期待されます。 公共事業中心で国土の均衡ある発展というのが国土開発政策の基本でしたガが、これだけナショナルミニマムが一定の水準に達すると、むしろそれぞれの地域の個性が輝く地域間競争の時代になるといえます。そうした時代には地域が独自に使えるまとまった金が必要です。これは大学でも同様で、その競争の結果として個性のない大学は消えざるを得ないということです。それぞれの大学の得意分野や特色に応じて、公平な評価による財源の適正な配分が求められることになります。
―研究中心か教育中心か、研究の中でも社会的ニーズの高い技術研究か応用に結び付きにくい基礎研究か、教育でも教養中心か職業人としての能力を高めるのか。同じフルセット型の大学を全国に配置するのでなく、特性よってすみ分けが必要になります。
研究の効率性という観点だけ考えれば、研究所という組織があって、トップダウンで先端的な研究を効率的に進めることはできます。ただ、教育と研究の不可分性をもとに、そのインタラクション(交流)を特色としてきた大学という組織が研究だけに特化できるのか。国立大学は高度の研究や地域社会のニーズへの対応といった存在理由を掲げて持続してきてにですが、そうした定義が問われるなかでニーズの乏しい研究をどこまで維持するかというジレンマも抱えています。 かといって、大学には市場原理と競争だけで運営できない分野がやはり残ります。更地に絵を描くのと違って、歴史と伝統を全く無視した改革はできないことも事実です。具体的な研究内容にまで政治が立ち入って改革を進めるというのではありません。経済学が古色蒼然(こしょくそうぜん)たるマルクス経済学ばかりというのでは困りますが、政治主導といってもそこは一定の自制心が必要です。 教授会や教職員組合の役割を含めて内部改革も同時にすすめ、大学の生まれ変わりを期待したいと思います。
(聞き手は編集委員 柴崎信三)