独行法反対首都圏ネットワーク |
競争は市場の活力
例外でない教育の現場
競争がない世界ではどのようなことが起こるのか。そのことを端的に示す一つの例が、日本の国立大学である。
国立大学の最大の問題は「インセンティブの欠如」という問題だ。大学における研究や教育のパフォーマンスが悪くても、国が講座数など固定化された基準で財政支援しているため、「倒産」の危険がなく、研究水準の向上や教育サービスの充実に向けたインセンティブが機能しない。
このことは個々の教官についても同様である。実際、頑張ってすばらしい業績をあげた研究者も、何もしないで長年論文を書いたこともない人も処遇は変わらない。教育に情熱を傾け、学生たちから尊敬され人気の高い先生も、十年来の講義ノートを棒読みして生徒に見向きもされない先生も同じ待遇である。
これでは研究や教育の水準向上は見込めない。
もちろん、教育者のやる気は金銭的な処遇だけに左右されるわけではない。現在のシステムでも研究や教育に情熱を燃やしている人はいる。だが、残念ながら、それは全体のごく一部に過ぎない。だからこそ、何らかの評価とそれに連動した処遇の仕組みが教育機関にも必要なのである。
教育の場に競争原理を導入することには批判的な意見が多いが、学校を活性化するのに一定の成果を上げる可能性は十分にある。大学については、昨年四月に第三者評価機関である大学評価・学位授与機構が発足した。第三者による評価制度がスタートしたこと自体は大いに評価すべきだ。研究や教育の質をどうやって測るかという根本的問題はあるが、それが困難だからという理由で評価をあきらめていては、事態は何も改善しないだろう。
重要なのは、国立大学と私立大学の区別をなくし(国立大学の民営化)、第三者機関による評価をもとに、教育・研究予算の配分を決定するという競争的仕組みの導入である。国立大学であるというだけで、自動的に膨大な予算が割り当てられるという仕組みを廃止し、私立大学もパフォーマンスが良ければ国からの支援が期待できるような予算配分を実行するのである。
もちろん、大学を完全に市場競争にゆだねてしまうことは不可能である。基礎研究のように民間企業では十分にできない研究には、国が予算を付けなければならないし、特定分野の振興のために政治的な配慮も必要になるかもしれない。
このような配慮をすることと、教育の場に可能な限り競争原理を持ち込むことは矛盾しない。競争が欠如したところにダイナミックな発展はないからである。