独行法反対首都圏ネットワーク


5・21特別委員会文書に対する首都圏ネット声明
2001年5月24日 独行法反対首都圏ネット事務局

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     国大協文書「国立大学法人化についての基本的な考え方」について

                                              2001年5月24日  
                             独立行政法人反対首都圏ネットワーク事務局

  5月21日、国立大学協会・設置形態検討特別委員会・専門委員連絡会議は、表記の文書を特別委員会において配布した。この文書の修正案が6月1日の国大協理事会に提出され、その審議を経たのち6月12日〜13日の総会に提案される予定である。この文書は、以下のように看過できない問題点を多数含むものでり、基本的に独立行政法人通則法に基づく国立大学の独立行政法人化に道を開くものと言わざるをえない。私たちは、国大協が、このような文書をもとに、しかも各大学における検討を経ないまま拙速な総会決定を行うことがないよう、強く要求するものである。


一、本文書は、三つの論点からなる前文と「国立大学法人化の1つのありうる枠組」と題する個別の論点整理の二部からなる。しかし、前文の全体を読了したのちも、それがなぜ「法人化」という設置形態変更の結論につながるのか、まったく説得的でない。国立大学の独立行政法人化とは、前文にあるように、「もっぱら国家財政上ないし行政改革の観点から、高等教育・学術研究コストをさらに外部化するための方策」であり、「大学は、既成の価値体系・価値観に拘束される存在であってはならない」がゆえに、また「大学で行われる教育研究活動やそれと密接不可分の大学運営に、外部からの規制を持ちこむことは、高等教育研究のシステムを歪める危険性が強い」という理由から、独立行政法人化をきっぱりと拒絶する、というのが前文から導かれる自然で唯一の結論である。

二、国立大学が公権力から一層自立した自由な大学を建設するために法人格を取得するという課題は、独立行政法人化によっては達成されない。大学の「自主性・自律性」を高めるために独立行政法人化を利用するという考え方に現実性・実行可能性はない。事態を真摯に見れば、独立行政法人化によって大学は「自主性・自律性」を失うというのがリアルな判断である。


三、本文書の最大の特徴は、「社会に開かれた大学」という論点によって、もっぱら大学運営への「学外者の参画」を実現しようとしている点にある。独法化された諸機関の事例からもすでに明らかなように、「学外者の参画」とは、財務と労務を中心に官僚や財界、政治の代表を多数受け入れることを通じて、大学を国策遂行の道具とし(ミッションドライブ型の実施機能への特化)、かつ企業化・商業化することに他ならない。文書は、大学の自治の根源を放棄し、大学を、大臣による中期目標、中期計画の認可を通じて基幹的活動を規定されるような「実施機関」に変貌させるものである。学長はそうした実施機関を指揮命令するものとして位置づけられ、その実施に当たってさえ、「学外者の参画」が要求されることになる。


四、「国立大学法人化の1つのありうる枠組」という部分は、実施機関としての組織改変の問題に終始している。そもそも、「国立大学の現状にもさまざまの批判があることは事実である」と文書は述べるが、具体的な批判を何ら示してはいない。どのような批判か、「自民党提言」か、批判をその根拠を含めて具体的に分析することなしに、改革を行うことはできない。大学運営の具体的な分析とイメージを欠いた組織いじりは、何ら意味を持たない。しかも、文書においては、「個性化」の名の下に「自民党提言」の要求する大学の選別と淘汰を容認している。


五、独立行政法人の基本的スキームを復習してみよう。通則法に記された独立行政法人の業務の基本的流れは、中期目標→中期計画→評価というサイクルである。本文書は、種々の条件を付してはいるものの、根元的にこの通則法のサイクルを踏襲している。また、目標・計画・評価のすべてにわたって主務大臣(文部科学大臣)の「認可」や主務省(文部科学省)の評価委員会の評価を必要とすること、評価に基づく資源配分が行われること、いずれも通則法のスキームと同一である。これは、まさしく独立行政法人化であって、通則法そのままの適用である。


六、大学運営への「学外者の参画」については、三つの案が示されており、そのいずれもが「学外者」の「経営諮問会議」「評議会」「新たな運営諮問会議」への参画を容認している。そこでは各案に付記された「論点」が示しているように、最初から大きな問題を抱えることが予期されている。報道によれば、各大学の判断で三つのうち一つを選択すべきだというが、そもそも三案とも選択肢の名に値しない。

七、文書はまた、「高等教育、学術についての中長期的な政策と大学のあり方について検討する場を設ける」と再び述べている。2000年6月の国大協総会において全会一致で確認された項目の第4項は、次のようなものであった。

  「一国の高等教育政策は、国民、地域社会、人類社会の利益という視点から、  長期的な展望のもとに議論されねばならず、それには、国際的動向をもふま  えた恒常的な政策決定の機構が必要である。国立大学協会は、この際、科学  技術基本計画に対応する学術文化基本計画の策定を課題とする議論の場の設  定を強く訴えたい。」


  これに基づいて設置された「21世紀の大学を考える懇談会」がいかなる末路をたどったかは、多言を要しまい。国大協はまずその反省の上に立って議論を行うべきである。


八、大学自治の根幹をなす、学長、評議会、教授会の位置付けについても、文書は基本的に文部科学省調査検討会議の議論にすりよっている。本来、大学運営において執行機能を担うべき学長が「最終意思決定」者と化している。学長選考への学外者の容喙(全学選挙の廃止が狙われている)、学長権限・部局長権限の強化(大学や部局の意思の決定者となり、人事権さえ独占する)、評議会・教授会権限の縮減(審議機関化)など、行政改革の本来の主題であった「権限の下方への委譲」「分権化」にも逆行したトップダウンの運営が大学に持ち込まれようとしているのである。これは独立行政法人という手足としての「実施機関」の組織形態に他ならない。

  そもそも本文書には、前文で言及しているにもかかわらず、学問の自由、大学の自治、自主・自律の根源にある、教員個々の自由な発想・活動を擁護し、開花させようとする姿勢が感じられない。


九、教職員の身分については突如として重大な問題が提起されている。教員選考において、教育公務員特例法の適用は廃止され、全学的な基準・方針に基づく上からの選考が強調される。さらに、教員に対する任期制の一層の拡大がうたわれている。そのうえ、文書は「任期付教職員」について語っている。成果・業績主義による賃金、任期付ポストへの異動を促進する物質的インセンティブなど、ことがらは教員任期制についての法的規定をこえて、すべての教員・職員に適用することが意図されている。また、職員についても初めて非公務員型の可能性を提起している。これは従来の国大協の議論においては全く存在しなかった論点である。


十、財務・会計についても問題が多い。運営費交付金は「政策的運営費交付金」(つまりは国策に基づく競争的資金)と「外形標準的に決まる基盤的運営費交付金」によって構成するとしている。これは、大学間、大学内部において競争を促進し、物量的成果を強制するものである。本来、コスト削減を目的とする独立行政法人化において、競争的資金の争奪とは、限られた資源の「共喰い」を強いることなのである。国立大学相互が協力するfederationたる国大協は、「共喰い」によって自らの存立基盤を掘り崩すべきではない。

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