独法化Q&A

2001年5月11日
東京大学職員組合

「独法化」はもう決まっているのか?

Q:新聞報道などでは「国立大学は、2004年に独法化される」と報道されているが

A:たしかに新聞などではそういうふうに報道されているが、正確ではない。まず、「独法化」というものと「法人化」というものを区別しなければならない。昨年段階で、自民党や文部省は「特例法」という方式を主張していた。これは、独立行政法人通則法を前提とする特例法という点で一種の独立行政法人化の構想と見てよい。しかし、国大協は「通則法のままの法人化」には反対という公式の立場を一貫してとっており、東京大学は、各種の委員会などで、独立行政法人とは異なる「独立した法人格」というものを強調している。いずれにしても、どのような形で法人化されるかは未決定な状態なのだ。
 それに、2004年に独立行政法人化あるいは法人化がなされるということも決まったわけではない。政府は、たしかに99年4月の閣議決定で、2004年度までに国立大学の独法化について結論を得るとしているが、この閣議決定も政治目標だといえる。今年1月の総長交渉で蓮實前総長は、(1)私立大学になる、(2)大学法人になる、(3)現行の国立大学のままでいる、という3つの選択肢が残されていると発言したが、これは、法人化をめぐる政治状況がまだまだ流動的だということを示している。

「独立行政法人」と「独立した法人」

Q:「独立行政法人」と「独立した法人」とはどうちがうのか?

A:この二つは、根本的に異なっている。少なくとも、大学側の理解ではそうだ。
 「独立行政法人」というのは、通則法を読めばすぐ分かるが、名前は「独立」とついているが、組織の運営や活動について非常に強い政府のコントロールが及ぶことになっている。実態は、非独立法人なのである。なぜそうなっているかというと、独立行政法人のアイデア自体がそうなっているからなのだ。つまり、独法のアイデアは、国の行政活動を「企画立案機能」と「実施機能」に分けて、前者を本省が、後者を独法が担当するという考え方なのだ。頭脳と手足を分けて、手足の部分だけを担当するのが独立行政法人だといってもいい。本省が決めた基本的な路線にそって、事業の実施を忠実に、かつ効率的に行なうということが、独法に期待されている任務なのである。
 こうした独法の制度は大学にふさわしくないというのが大学側の主張だ。当然といってよいだろう。だから、大学側が主張している「独立した法人」(「大学法人」などと称されている)は、企画立案から実施までを一貫して大学が責任をもって行ないうるような独立した組織というイメージになる。憲法上の「学問の自由」の一環として保障されている「大学の自治」にもそうした独立性の高い法人がふさわしい、というのが大学側の主張だ。

なぜ「独法化」なのか?

Q:こう聞いてみると、たしかに大学には独法は合わないという気がする。だけど、ではどうして政府は「独法化」しようとしているのか。

A:正確なことはわからない。自民党や政府でこれまで文書をつくっている人たちが大学についてきちんとした認識をもっていないということかもしれない。自民党の文書などにも「大学の特性」という言葉は出てくるが、それがどのようなものか十分に理解していない嫌いがある。また、独法とうものについての認識も十分でないのかもしれない。
 しかし、独法の仕組みを十分に理解した上で、かつ大学の事情にも通じたうえで「独法化」を意図している人たちがいるとすれば、そこにはなんらかの明確な政策意図があると見るべきだろう。政府は、「科学技術創造立国」を掲げている。科学技術が国家政策にとって重要な意味をもっているという認識がとられているのである。
国家政策としての科学技術政策に大学の知的資源を動員するという発想に立てば、大学を独立性のない独立行政法人にすることは意味があるということになるだろう。昨年の「自民党提言」にも「国策的研究」の推進が法人化の目的のひとつになっている。また最近の経済産業省の官僚グループの案では、法人の「中長期目標」を大学が自主的に決めるのではなくて、主務大臣が定める必要があるとしているが、その理由の一つは、国の科学技術政策全体との整合性をはかるためだと説明されている。

「独法化」で大学はどうなるのか?

Q:意識的に大学を「独法化」する、という考え方もあるということは分かった。では、「独法化」されたとしたら、大学はどうなるのか。「独法化」されても実態はそう簡単には変わらないという見方も多いが。

A:たしかに、「独法化」されても実態はすぐには変わらない、という面があるだろう。いくら政府がコントロールしようとしても、大学の個々の教員の研究や講義の内容に直接立ち入ることはむずかしいだろう。大学は、本質的に、研究者、教員の研究の自由を基礎にした組織だからだ。また、「独法化」で具体的な制度がどのようになるかもまだはっきりしないから、確かなことはいえない。
 しかし、だからといって実態がまったく変わらないというのも甘すぎる見方だろう。個人の「研究の自由」だってどこまで保障されるか分からない。
 独立行政法人の場合の、政府のコントロールは、「中期目標・中期計画の設定」、「目標・計画の達成度についての評価」、「評価に基づく財政配分」の各段階をつうじて行なわれる。大学全体、学部研究科や研究所の活動は、この「目標・計画」に縛られることになる。研究者、教員個人の研究や教育活動も、結局はこれに縛られることになるのだ。評価に基づく財政配分が政策的に操作されれば、すぐに役立たない基礎研究や基礎的な教育がおろそかになる可能性が高い。研究費をとろうとすれば、成果の上がりやすいテーマ、国の政策にマッチした流行のテーマを選択するというような行動も生まれる可能性がある。
 実は、こうした財政配分の操作可能性はすでにはじまっている。積算校費制度が大幅に変えられて、大学内で裁量的に配分しうる部分が増えた。大学間の配分も裁量的になっているらしい。独法化で、こうした財政誘導はいっそう強まることになるだろう。「独法化」で最大の問題は、したがって、大学が自由な研究教育の場から、政策的な科学技術研究の場に変質するのではないかという点にある。

今の争点

Q:だいたいのところは分かったが、まだ法人化の具体的な制度はまだ固まっていないわけだね。制度作りの作業はどうなっているのか。

A:そこが今の情勢の最大のポイントだ。昨年6、7月に国大協、文部省にそれぞれ設置形態検討特別委員会というのと、調査検討会議という検討組織が設けられた。ほぼ1年の検討期間を経て、それぞれの中間報告が出されようとしている。
 今年2月に、東大が「東京大学が法人格をもつとした場合に満たされるべき基本的な条件」という文章を決めた。これは、国大協や文部科学省の作業に一定の影響を与えることを意図したものだと観測されている。この「基本的な条件」は、総長(学長)の選挙制、評議会の最高意思決定機関性、中期目標・計画の自主的な策定、などの項目を盛り込んでいる。国大協の特別委員会では、その少し前に長尾委員長の試案というものを出しているが、そこでは、学長選考の選挙制は明文化されていず、評議会の権限も「最高の審議機関」(「審議」は必ずしも「決定」を意味しないとも理解されている)となっている。文部科学省はこの国大協案にも難色を示しているということだ。
 この間の動きを総合すると、文部科学省サイドの構想は、大学「経営」に関して、学長の権限を強化すること、「社会」の意見というかたちで学外者の参加する機関(「運営諮問会議」として具体化されている)の権限を強めるという方向を向いている。つまり、「教授会自治」を基礎としたボトムアップ型の民主主義的運営は、機動的な意思決定に欠けるというのが文部科学省の考え方だ。学長も学外者の意見を入れて選考し、運営機関にも学外の意見を強く反映させ、それと反比例して、評議会や教授会の下からの意思形成のプロセスを弱めるというのが文部科学省ラインの法人化の制度構想になっている。ここがひとつの重要な争点になっている。
 もうひとつは、経営と教学の分離という問題だ。文部科学省サイドからは、経営を担当する法人とその法人が経営する大学とを分離し、研究者、教員の意思決定を教学分野に限定するという考え方が出されている。この経営と教学の分離という構想は、学長権限の強化・学外意見の反映という考え方をいっそう純化したものということができる。こうした考え方には、調査検討会議の内部でも強い反対が出ているといわれている。
 国大協の特別委員会や文部科学省の調査検討会議ではこうした点が今の争点になっているといわれている。大学側と文部科学省側との意見には大きな隔たりがあるといえるが、大学側がここで譲歩するなら、大学の自治的な運営や独立性(「大学の自治」)は大きく損なわれる可能性がある。

職員や学生にとっての問題

Q:今までのところは大体分かったが、全体として教授会メンバーに関係する問題が多いような印象を受ける。事務職員や技術職員にとってはどんな意味があるのか今ひとつよく分からないが。

A:そういう印象をもつのはもっともだと思う。今、職員は総長選挙の選挙権も持っていないし、教授会、評議会の権限といってもこれには直接かかわっていないからだ。独法化問題で今一番争点になっているのは、研究・教育活動の自由とそれを担保している研究者・教員の自治だといっていい。小林正彦前副学長が、あるシンポジウムで、今の「大学の自治」はそのような意味で非常に不完全なものだといっている。そうした面がたしかにあるから、あるべき「大学の自治」はこれからさらにつくりあげていかなければならない。
さらに、職員問題は、特別委員会などでも十分には議論されていないようだ。「独法化」の行方も定かではないし、議論も進んでいないとすれば、問題の所在がはっきりしないのも当然だといっていい。
 しかし、「独法化」あるいは「法人化」された場合に、かつ大学のあり方が根本的に変わるようなことがあれば、この問題は職員や学生にとっても無縁の問題ではなくなるだろう。比較的姿が鮮明になりつつある「独法化」でいえば、定員管理やコスト削減はいっそう厳しくなると思われる。今年4月から独法化された機関の例で見れば、政府が支給する「運営交付金」を毎年1%づつ削減することが「中期計画」には盛りこまれている。また、給与制度における査定制度が導入されている例もある。
 ただ、基本的な制度にかかわる点からみれば、賃金や労働条件がこれまでのように人事院規則で決められるのではなく、組合との団体交渉で決められるようになる。労働組合の役割は今よりはるかに重要になる。
 学生にとっては、学費の値上げや勉学条件の悪化が懸念されている。「運営交付金」が年々減額され、「法人」が収入を増やす努力を強いられるからである。
 しかし、こうした経済的な問題よりも大きな問題は、教員の問題として意識されている、大学運営のあり方や研究教育活動のあり方の変化それ自体が、実のところ、職場の働く環境や学生の学習・研究環境を大きく変えるというところにある。なんといっても、大学固有の「自由な精神」が衰退することが心配だ。研究者、教員だけでなく、職員や学生にとっても、大学が自由で生き生きした精神的な共同体であることがなにより大切なことではないかと思う。
 ただ、この問題についてはまだまだ議論する必要があるだろう。機会があったら、続編でもう少し詳しく話すことにしよう。


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