東大総長の入学式式辞
2001.4.18 [he-forum 1834] 東大総長の入学式式
東京大学職員組合(東職)です。
東京大学のホームページに佐々木新総長の平成13年度入学式における式辞全文(2001年4月12日)が掲載されましたのでご紹介します。(PDFファイルです。)
http://www.u-tokyo.ac.jp/president/010412.pdf
[he-forum 1817]で紹介のあったNHKの報道では佐々木総長が「独立行政法人化に前向きな考えを明らかにしています」とされていましたが、下記のようなくだりもあり、NHK報道とは違っているようです。
大学を企業のように経営すべきだとか、官公庁のように指揮命令系統で律するべきだとかといった議論が時々見られます。しかし、これは大学がどういうものであるかが分かっていない議論です。大学が社会的に意味があるのはそれが企業や官公庁のようなものでないからであり、大学をこれらと同じようなものにしてしまえば大学の存在意味がなくなってしまうだけのことです。
以下は、式辞からの抜粋です。
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かつて大学は「象牙の塔」と呼ばれた時代がありました。それは大学が科学や学術をそれ自身のために研究する場であり、他の社会活動とは違った目標を持った組織であるということを示す言葉でした。これは今でも基本的に変わりがありません。大学には企業や官公庁などに見られるような厳格な上下命令関係がほとんどありません。学生の皆さんを含め、全てのメンバーが科学と学術を追究し、真理を求めていく組織です。そして大学のメンバーは他の組織のメンバーと比べて極めて自由であり、自由を基盤に真理の追求が可能なわけです。そして皆さんは今日からこの自由な組織のメンバーになるわけです。これは他の社会組織では見られない実に大学らしいところであり、このことの意味を皆さんに十分に噛み締めていただきたいものです。勿論、大学を企業のように経営すべきだとか、官公庁のように指揮命令系統で律するべきだとかといった議論が時々見られます。しかし、これは大学がどういうものであるかが分かっていない議論です。大学が社会的に意味があるのはそれが企業や官公庁のようなものでないからであり、大学をこれらと同じようなものにしてしまえば
大学の存在意味がなくなってしまうだけのことです。要は、それぞれがその本来の任務を着実に果たすことが肝心な点であって、全体を雑然と混じり合わせるといったことはむしろ避けるべきなのです。
その上でなお大学の活動を社会が上手に活用したいと考えることは差し支えありません。これは大学といえども社会の一員であり、決して独立王国なわけではないからです。また、大学の知的活動の成果は国境の内に留まるものでもありません。「象牙の塔」という言葉は時には大学の社会的孤立を指摘するのに用いられましたが、今や大学は社会の知的活動の中心としてその成果を広く還元すべき存在なのです。大学はいわば「住み分け」を前提に社会の片隅で世間とは別世界を作り出すものであるよりも、もっと社会的な存在感が大きくなって然るべき存在なのです。しかも、企業その他がそうであるように大学も国際競争がますます熾烈になってきました。大学の活動についての規制緩和がますます必要なことは言うまでもありません。
このように考えますと、大学についての報道が入学試験との関係で専らなされてきたという、皆さんもよくご存じのような状況や、いわゆる国立大学の護送船団方式といわれたものは、いかに20
世紀日本の仕組みと一体となった「住み分け」の発想に基づいているかが分かります。しかし、先にも述べたように20
世紀の日本は終わったのです。どの大学に入学し、卒業するかではなく、何をどれだけ学び、何ができる人間を育てたのかが大学に問われている点なのです。社会の関心が入学と卒業という区切りにばかり向き、その内部でどのような教育や研究が行なわれているかに無関心でいられる時代は終わったのです。これは大学に勤務する教職員の能力を厳しく問い直すことにつながることは言うまでもありません。そして例えば、教育面での改革は今や緊急の課題ですが、教育面での改革を実施していくためには皆さんの建設的な協力が是非とも必要です。教育面での皆さんからの改革提言を大いに歓迎しますので、私に直接具体的な提案を寄せてください。
さて、研究・教育の面で思い切った見直しを行ない、教職員の潜在的能力を引き出していくために、東京大学は独立した法人格を持つことに躊躇すべきでないというのが私の見解です。先に述べたように大学はあくまで研究・教育の場であるという点を確認した上でどのような運営の仕方をするかという点については、人材をより適切に配置し、より適切に処遇することや、有益な外部の意見を取り入れるといったことなど、工夫すべき点は多々あると思います。しかし同時に、こうした大学のあり方を実現するためには貴重な資源の「横並び的」配分とは違った、選択的・集中的投下の仕組みが、政府の政策目標として明確に示されることが不可欠な条件であることを強く申し添える必要があります。
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