国立大学の設置形態と労使関係(1)
2001.4.23 独立法反対首都圏ネット事務局
茨城大学教職員組合から首都圏ネットホームページへの投稿です。
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国立大学の設置形態と労使関係(1)
茨城大学人文学部 深谷 信夫
本稿は、2001年3月13日に開催された学習講演会の内容に著者が加筆・修正
されたものです。(編集)
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はじめに/どう考えるべきか
設置形態の変更が議論されている国立大学の一教員として、また、その国立大学の
教職員によって組織されている労働組合の一員として、我々はなにを考え・どう行動
しなければならないのか。そうした問題を、ここでは検討したい。
●私の基本的立場
まず、私の基本的立場を、冒頭において、明確にしておきたいと思う。第一に、我
われ大学人は、<学問の自由を守り、大学のすべての構成員による自治に基づき、国
民のための大学の創造をめざす>という崇高な目的に向けての責務は、どのような状
況のなかでも、堅持しなければならない、ということである。そして、我われは、そ
うした基本的な責務を、今日の状況において具体化し、国民世論の支持のもとに、国
民的な運動を組織しなければならない、ということである。第二に、国立大学の設置
形態の変更は不可避的ともいえる客観的な状況のなかにあり、教員と職員の雇用と労
働条件を守ることを第一義的任務とする労働組合は、労使関係の激変に対応できる組
織と運動の抜本的な改革に、いますぐに着手しなければならない、ということである。
●大学像と設置形態問題
なお、設置形態問題と大学の理念・目的・運営問題とは異なるということも、確認
しておかなければならない基本問題である。国家の直営か、民営か、その中間形態か、
という問題は、本来は、第二義的な問題である。大学の理念と目的と運営方法をめぐ
る大学像が、第一義的に、検討されなければならない課題である。ところが、現状は、
逆立ちした理論状況のなかにある。国立大学の将来問題をめぐる論点が、設置形態の
変更を前提として、それを与件として、議論されているのである。
繰り返すが、設置形態問題は、第二義的な問題である。学問と教育にとってどのよ
うな大学を創造するのかが、第一義的な問題である。平明にいえば、国家は大学に金
は出すが・口は出すなが、基本的な在り方である。それは、現状の国立大学であろう
と私立大学であろうと、その設置形態に関係なく実現されなければならない基本原則
である。
しかし、設置形態の変更ありきという状況のなかで、政策論議が進行しているので
ある。
●設置形態問題と労使関係問題
さて、こうした錯綜した議論状況のなかで、我われには、区別して対応しなければ
ならない二つの課題が提起されている。第一に、設置形態問題である。第二に、労使
関係問題である。前者は、国立大学を現状のまま存続させるのか、独立行政法人など
の法人形態に変更するのか、民営化・私立大学化するのか、などの国立大学の設置主
体の問題である。後者は、労働組合と使用者との関係についての集団的な労使関係と、
労働者の雇用と労働条件を対象とする個別的な労使関係とを内容とする問題である。
繰り返し確認しておくが、我われの立場からは、設置形態問題に一面化した議論を、
大学像の創造という本道のなかで、再構築していかなければならないのである。
ところで、この二つの課題(設置形態問題と労使関係問題)に同時並行的に取り組
まなければならないことは、自明のようであるが、残念ながら、我われの運動は、そ
のようにはなっていない。なぜか。第一の原因は、国立大学の設置形態の変更をめぐ
る現在の状況の認識が正確でないからである。第二に、国立大学設置形態問題と労使
関係問題が、理論的には相異なる区別されるべき問題であり、実践的にも区別される
べきことが求められている問題であることが認識されていないからである。
●検討の課題
したがって、ここで検討したい論点は、第一に、設置形態問題と労使関係問題は、
理論的にも実践的にも区別すべき問題であること、第二に、国立大学の教職員は、新
たな法律制度枠組みのなかで、雇用と労働条件を、労働組合の団結力で決定しなけれ
ばならなくなること、第三に、国立大学の教職員組合が、労使関係の激変に対応する
ために、どのような政策的組織的準備をしなければならないのかを検討すること、で
ある*1。
繰り返し述べてきたあるべき大学像と設置形態問題の詳細な検討は、別の機会に譲
らざるを得ないことをお断りしておく。
一 設置形態問題と労使関係問題
国立大学の設置形態はどうあるべきかという問題と、その設置形態のなかで労使関
係はどうあるべきかという問題。この二つの問題は、密接に関連はしているが、区別
されるべき問題である。なぜ区別されるべきなのか・区別しなければならないのか。
その理由は、三つある。
@ 第一は、労働組合の存在根拠からの理由である。
労働組合の根本的な任務はなにか、という視点からも問題を区別することが必要で
ある。どのような環境変化のなかでも、具体的には、国立大学がどのような設置形態
に変更されようとも、たとえ、通則法による独立行政法人であろうと、国立大学法人
であろうと、民営化・私学化であろうとも、組合員の権利と雇用と労働条件を守るこ
とが労働組合の基本的な任務である。
そうである以上、労使関係・労働条件のどういう枠組みができるのかを把握し、そ
の枠組みがどのような変化をもたらすのかを確認し、労働者と労働組合の自由と権利
を守り、拡大するためには、どのような組織的な整備・改革が求められるのか、為す
べきことを明確にしなければならないのである。
A第二は、理論的制度論的根拠からの理由である。
そもそも二つの問題は異なる問題である。繰り返すが、普遍的な意味で、異なる問
題である。比較制度論的にみても、公務員制度と、そこにおける労使関係制度とは、
異なる問題として形成され、存在している。例えば、裁判官と警察官が、労働組合を
組織して、ストライキ闘争を行うヨーロッパ諸国の公務員労働者の姿をみれば、回答
は明らかである。他方で、公務員であるがゆえに、全面一律にストライキ権が剥奪さ
れている日本の現状である。
しかし、その日本においても、戦後改革によって構想された公務員制度では、公務
員への労働基本権は、民間企業労働者と同様に、一律に保障されていた。それが、戦
後直後の政治状況の激変のなかで、連合国最高司令官マッカッサー書簡と制令二〇一
号とによって、争議権の全面一律剥奪、団結権・団体交渉権などの団体行動権の制限・
禁止へと転換したのであった。諸外国においてもそうであったということばかりでな
く、日本でも、歴史的にも、区別されて構想し、存在していたのである。
B第三は、実践的状況認識からの理由である。
●制度論的可能性と政治的可能性
我われは、直面する状況のなかで、設置形態問題と労使関係問題という二つの問題
について、<決定されていること>と<決定されていないこと>を冷厳な事実として
認識しなければならない。その認識にもとづいて、今後の方向が見定められなければ
ならない。
なお、<決定されていること>は、民主主義を前提とすれば、決して変更不可能と
いう意味ではもちろんない。しかし、民主的な制度は、政治環境のなかで、機能し、
妥当している。したがって、制度的に(抽象的に)変更可能であるということと、実
践的に政治的に(具体的に)変更可能であるということとは、異なる問題である。労
働組合にとって緊要な課題は、可能性に向けての努力と実践的な見極めとの複眼的な
視点を据えることである。
以上を前提として、結論からいえば、国立大学の設置形態の変更は政治的に決定さ
れている。しかし、どのような形態に変更するのかは決定されていない。どのような
国立大学としての再生を図るのかが問われているのである。この認識の具体的な結論
は、国立大学のままで生き残ることは、理論的に不可能ではないが、実践的にはきわ
めて困難な状況に立たされている、ということである。私は、そう判断している。
●行革大綱閣議決定
@ まず、行政改革大綱の閣議決定(一九九九年四月)によって、公務員総数の削
減のために、国立大学の教職員を定員法の規律を受けない公務員とするということは
決定されている。閣議決定「中央省庁等改革の推進に関する方針」のなかで国立大学
の設置形態の検討を銘記している。これに先立つ有馬文部大臣と太田総務庁長官との
会談で、国立大学の独立行政法人化が確認されている。
この時点で、定員法の適用を受ける公務員と適用を受けない公務員という二つのカ
テゴリーの公務員が生まれた。のちに、後者のカテゴリーは、同年7月に制定された
通則法による特定独立行政法人の職員という形態で実体化された。
さて、国立大学教職員を定員法の適用からはずという決定は、事実上、国立大学の
設置形態を変更するということを意味した。
我々が、国立大学の設置形態の変更を拒否するということは、具体的には、政治的
には、公務員の総定員数削減は国立大学教職員を抜きにして実行せよということであ
る。国立大学の設置形態を変更してはならないということは、より具体的には、政治
的にはこの閣議決定を撤回させることを意味する。それでは、閣議決定を覆すことは
できるのだろうか。
ここで、制度論的には、閣議決定といえども撤回できるという回答が可能である。
しかし、実践的政治的に可能であろうか。現実に閣議決定を撤回することができるの
か。
参議院選挙で、与野党逆転し、反自自公政権になれば可能か、否である。限定すれ
ば、現状では、否である。国立大学の民営化を提起したのは、小沢自由党であった。
民主党も、設置形態の変更を政策としている。それでは、今はそうでも、主体的な取
り組みによって、変化させることができる、この夏までに変化させることができる、
と現実的な状況認識からいえるのか。
冷静に、現実的に、物事を考えれば、定員法の規制対象からはずし、新たな枠組み
で、国立大学の将来像を考える、という制度構想をめぐる土俵は設定されているとい
えよう。我われの運動の基調は、国立大学の設置形態の変更も視野に入れて運動を組
織することにあるとの主張がある。が、客観的な状況の認識に基づくならば、あまり
にも主観的な判断である。土俵にのぼらなければならない状況に追い込まれているの
である。
●設置形態と制度構想の枠組み
A しかし、国立大学の設置形態の変更は事実上決定されたが、国立大学をどうい
う組織形態にするかは決定されていない。先の閣議決定も、国立大学の設置形態と制
度内容を特定しているわけではない。文部省も、設置形態と制度内容を確定している
わけではない。国大協の公式態度も、討議のテ−ブルにつくという確認であるに過ぎ
ない。
それでは、具体的な設置形態と制度内容は決定されていないとはいえ、設置形態変
更と制度構想の枠組みは限定されているのか・いないのか。この点を確認しておくこ
とが必要である。
この論点に応えるためには、通則法の対象領域と国立大学の位置とを見定めなけれ
ばならない。具体的には、通則法を国立大学の設置形態変更に適用させないことはで
きるのか・できないのか、が検討されなければならない。
●通則法と国立大学
B すなわち、通則法を前提とした独立行政法人化に反対するとの方針に実現可能
性はあるのか、という問題である。
このためには、通則法の法制度上の位置を確認しておかなければならない。通則法
は、中央省庁をのぞくすべての国の機関の法人化を可能とするオールマイティーな法
律である。法文上、その適用範囲を限定する具体的な規定は存在しない。抽象的には、
通則法の目的規定が存在するが、ここを限定解釈して、国立大学への適用を除外する
ことは無理があろう。そのような解釈論を主張したとしても、それを実現する場は、
法廷となる。結論をいえば、現実的な武器とはならないということである。
そのような通則法であるから、例えば、国立病院の通則法による二〇〇四年度の法
人化は閣議決定された。国立病院は、行政組織としては、国立大学と同等の位置にあ
る行政組織である。実質的にも、国民の生命と健康を担うという決定的に重要な国の
機関なのである。
このように考えてくると、通則法を国立大学の設置形態の変更に適用させないため
には、法制度論的には、一方では、通則法を国立大学には適用しないという適用除外
の規定を挿入するか、他方では、通則法と同格の法制度上の位置に大学基本法とか大
学法人法とかの基本法を制定することが必要である。
通則法による国立大学の独立行政法人化に反対する、という基本的態度は貫くべき
である。具体的な制度議論においても、通則法の問題点を指摘し、その適用を排除す
る制度構想を主張すべきである。
もとより、通則法そのものが、いわゆる独立行政法人の妥当範囲を超えてすべての
国の機関を対象とするという点で、悪法という評価を受ける立法といえよう。したが
って、通則法の撤廃も、理論的制度論的には、課題とされなければならない。
ところで、だれがこうした法律制度を立法構想として提案すると想定するのか。我
われの運動においては、明確ではない。しかし、そもそも根本的には、どのような運
動を組織することによって、社会的政治的な状況変化を生み出し、こうした法律制度
を生み出すことができるのか。
通則法による独立行政法人化に反対するということは、具体的には、以上の問題に
回答を与えることなのである。しかし、我われは、こうした問題についての回答をも
っていない。ただ、言葉があるだけであり、スロ−ガンが踊っているだけである。
私は、理論的な視点からは、こうした立法構想を立案できるとしても、上記@と同
様の現実のなかで、実践的な実現可能性という視点からは、通則法を全面的に完全に
排除しての制度の実現に否定的な回答とならざるを得ない。しかし、残念ながら、そ
れが、現実であると思う。
●国立大学としての生き残りの可能性
Cここで、もし我われの制度要求が入れられなければ、我われは国立大学のままで
ありつづけることを望むと主張し、それを実現することができるのか、という問題も
検討されなければならない。二五%の定員削減を受け入れて、国立大学として存続す
る道も検討すべきであるとの見解もある。しかし、一部の強大な国立大学がそうした
道をたとえ選択できたとしても、文部科学省の概算要求を通じての政策誘導に無力で
ある圧倒的に多くの国立大学にとっては、そうした態度表明は自殺的な行為に等しい、
と私は思う。
そうすると、我々に実践的に突きつけられている選択肢を明確にして、そのための
必要な取り組みをしなければならない。より具体的には、我々が描く大学改革の理念
と目的を実質的に実現させるために、通則法の直律的な適用を実質的に排除する取り
組みをすることである。
●労使関係問題の段階論的位置付け
D他方で、決定的な問題は、設置形態問題と労使関係問題が段階論的に位置付けら
れていることである。設置形態についての最終的な決着がついてから、労使関係問題
に対応するという段階論である。
上記の設置形態変更の現実的な不可避性という前提認識に立つならば、しかも、残
されている時間がないという事態の緊急性を認識するならば、現行法の枠組みを前提
として実践的には対応しなければならない。
現行法の枠組みとはなにか。経営形態の変更にともなう労使関係と労働条件を規律
する法的枠組みである。それは、通則法の制定と関連して改正された「国営企業及び
特定独立行政法人の労働関係に関する法律」によって与えられている。特定独立行政
法人に所属し定員法の規制を受けない公務員の労働関係を規律する法律である。国家
公務員法による労使関係は、この国営企業等労働関係法によって、一八〇度の転換を
もたらされる。労働条件決定は基本的には民間企業と同様の条件のもとで、争議禁止
規定は残るが、団結権・団体交渉権・労働協約締結権も、基本的に保障される。
労働者と労働組合の力で、雇用と労働条件を決定し、守りなさい、という労使関係
に移行するのである。このための準備のために残されている時間は、あと実質的に、
三年間である。
C現状の問題と課題
問題は、二つの問題が区別されることなく、認識と議論が、設置形態問題に一面化
され、労使関係問題がなおざりにされていることである。仮に・万が一にも設置形態
変更が決定され、それによって労使関係構造が転換されることが現実的となったとき
には、労働組合の組織と運動の再構築にむけて取り組まなければならない、という楽
観的な状況判断と段階論的位置づけとされているのである。
我われの運動は、二つの課題を、同時並行的に取り上げて、組織されなければなら
ない。第一の課題は、<全構成員自治による国民のための大学の創造>という大学改
革を実現することに向けて、徹底した運動と議論を展開することである。第二の課題
は、予定される労使関係制度のなかでの労働組合の位置と意義を確認し、主導的な役
割を発揮しうる組織的改革に着手することである。
冒頭で述べたように、ここでは、第二の課題について検討を進めていきたいと思う。
(未完・つづく)
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