『日本経済新聞』2001年3月9日付
特集:どうするニッポン・危機への処方箋
(8)科学技術、人材に投資
腕相撲で手もなくひねられたからといって、力と技の両方を競うレスリングでも惨敗するとは限らない。
新産業を興し、新市場を開く原動力の科学技術。政府はそこに今後5年間で24兆円を投入して、科学技術創造立国を目指す。だが、主戦場であるバイオ研究で、日本は緒戦からつまずいた。ヒトゲノム(人間の全遺伝情報)の解読という力比べでは、日本の貢献は全体の6%、欧米に大きく水をあけられた。
研究費を有効に
幸いなことに、バイオ革命の次のステップは、視点やアイデアを競う知恵比べへと移行する。非力な日本がバイオで浮上するとすれば、この知恵比べで奮戦しながら、体力・筋力を徐々に強化するしかない。
バイオを宇宙開発や原子力と同じ「巨大科学(ビッグサイエンス)」と認識できなかったのが、日本が緒戦でつまずいた最大の原因だ。研究者に加えて、たくさんの技術者、研究支援者を投入し、組織を組み上げ、事業として展開するという判断が遅れた。
内閣府に新たに設置された総合科学技術会議に、そうした戦略的な政策判断が求められている。膨らんだ研究予算をいかに有効に活用するか。まず点検すべきなのは、新しい知恵を生み出す可能性の少ない組織や機関の延命のために、貴重な研究費がつぎ込まれていないかどうかだ。
研究開発予算がまるで第2の公共事業のごとく、建物と施設の箱モノに注がれ、肝心の人材に投じられなければ、バイオの出直しも、科学技術全体の底上げも期待できない。
大学も国立研究所も、日本の研究機関は講座や研究室の壁で細分化され、そこでぬるま湯につかってずっと過ごすことも不可能ではない。時代や学問のうねりに応じて研究システムを組み替える柔軟さを、基本的に欠いている。国立大も研究所も独立行政法人化へと向かっているが、人事とカネの流れに手がつかなければ、改革の意味は薄い。
体質を逆手に
焦眉(しょうび)の急は、日本の研究システムを徹底的に流動化することだ。研究者の任期付き登用を大幅に拡大し、業績の合理的な評システムを導入すべきである。そうすれば、ポストゲノムの知恵比べ、遺伝子の複雑で玄妙な働きの解明でも、欧米と競える。
ヒトがつくるすべてのたんぱくの立体構造を調べる「ヒトプロテオーム解析」というやや力ずくの仕事でも国が戦略的に取り組み、人材を積極的に任用すれば、世界貢献を30%にまで高めることが可能だ。
ただ、この国で組織の根幹、人事や評価の仕組みを変えるのは至難の業だ。100年河清を待つほどではないが、研究開発という仕事は継続を力とする面もあり、変化には時間がかかる。その間には、組織の壁を透過する情報のネットワークで研究者を結ぶ「Iリサーチ」も有力な選択肢だ。
米国の「サイエンス」、英国の「ネイチャー」など科学雑誌に掲載される日本人のバイオ関連の論文が最近急増している。有能な個性をネットでつなげば、常識を超える成果も期待できる。契約や権利にうるさくない日本的体質を逆手にとればネットの輪は広がる。
問題は得られた知恵を、知的財産や事業につなげるエンジンである。米国にはバイオだけでざっと1300ものベンチャー企業がある。欧州はそれを少し上回るという。日本のバイオベンチャーは100に満たないと推定されている。人材の流動化、敗者復活の仕組みがここでも緊急の課題だ。
特許など知的財産権についてのルールづくりや、生命倫理を巡る国際的な調整などで政治の積極的な発言・提案も欠かせない。欧米の政治家はルールは従うものではなく、提案するものと心得ている。
首脳の反応鋭く
ヒトゲノムの解読で、米国のクリントン前大統領と、英国のブレア首相はそろって会見した。国の戦略的課題には、首脳が機敏に反応する。
2月にフランスのリヨンで開いた生命倫理の国際会議で、クローン技術など先端のバイオ技術の社会的受容について語ったシラク仏大統領の演説が、参加者から高い評価を得た。
生命は受精の瞬間から始まるという生命観から、英独仏など欧州勢は、ヒトの受精卵を使った研究を原則禁止している。最新の科学研究に配慮しながら、伝統の哲学や文化は守る。仏大統領の発言には、民間のクローン研究を特に規制していない米国の独走をけん制する効果もある。
世界の指導者は科学と哲学を語る。日本のトップが生命観を交えてバイオの未来について語ることはあるのだろうか。(編集委員 塩谷喜雄)=「危機への処方箋」おわり