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新世紀の政治風景を占う 佐々木 毅
東京新聞(2001.1.15) 時代を読む
新年の経済や社会の風景はおしなべて寂しいものがある。成人式での騒動のように秩序かく乱の兆候はあるが、それ自身、方向性を見失った社会はしょせん見通しのない暴発行動しか生み出すことができないということの実例でしかない。確かに、心に潜む漠たる破壊願望とでもいうべきものは、重苦しい不安感ともども、若い世代を中心に不気味に高まりつつあるが、その社会的帰すうは不明である。
ところで日本の政治に特異な点は新しい不満や要求が集団的にはっきりと表明されることが極端に少ない点にある。デモ行進があるわけでなく、抗議行動が大々的に繰り広げられるわけでもない。一部集団の異常な影響力の大きさと比べ、この集団的行動能力の全体的な低下は極めて特異である。一昔前であれば、これは政府の政策への満足度の表れであるといえば納得されたかもしれないが、現在では異常な状態としか言いようがない。これだけ政治は変わるべきであるという多くの言説にもかかわらず、何も起こらないというのは不思議である。
また、直接行動を差し控え、ひたすら選挙を待ち望んでいるという説明もあるかもしれないが、数年に一回投票する程度で政治活動が終わると考えること自体、まさに先のような能力の低下を示すものと言わざるを得ない。その上、あの低い投票率を考えると選挙を待ち望んでいるとは到底言えない。
ここに多くの国民が全体として事実上政治的無能力者状態にあるという現実がいや応なしに浮かび上がってくる。このことは政治が一部の人々にとって極めて「おいしい」ビジネスであったことと表裏一体の関係にあった。この住み分け・共存状態を維持させてきた最大の要因が経済の右肩上がり的成長であったことは否定できない。そしてこの条件がなくなった現在、政治と国民との旧来の関係は維持できず、大きな曲がり角にさしかかることになる。
ここから二つの展望が可能である。第一は、この政治的無能力者状態からの離陸が国民の間で「着実に」進むという方向である。それを通して当然のことながら、一部の人々にとってのみ「おいしい」ビジネスであったそれまでの政治の体質が変わっていくことになる。これは政治が官僚制の周辺に群がる口利き・取り次ぎ活動から、より国民的基盤を持ったものへと変容することを意味する。いわば、政治の改革路線である。
第二は、政治的無能力者状態からの着実な離陸が行われることなく、既成の政治の破壊そのものが目標になる場合である。想像される事態としては、特定の政治家などの激しいレトリックと過激な言辞それ自体が支持を集め、一見したところ、政治的無能力者状態からの解放が実現したかのような幻想が生み出される事態である。最初に述べた破壊願望が社会的に動員され、あたかも、マグマのように既成の政治を焼き尽くすような事態である。この破壊の後には、「個人による政治」というスタイルが姿を現すことが予想され、政治的無能力者状態は形を変えて温存される。いわば、政治の心理的ドラマ化路線である。
現在の日本の政治はこの二つの選択の間で微妙に揺れ動いている。しかし確かなことは、旧来の政治スタイルがこのどちらも満足させられず、いたずらにその不満をかき立てているということである。従って、支持基盤の狭隘(きょうあい)化、支持率の低下といった現象の背後には政策論議では越えられない、政治と国民との関係についての文化的変容が横たわっているのである。そして旧来の政治スタイルが主役の座を降りる時、先の二つの選択のどちらを選ぶかが正念場を迎える。その時、日本の政治は二十一世紀の新しい世界に足を踏み入れることになる、政治の心理的ドラマ化路線には大きなリスクが潜んでいる。
(東大教授)
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(独行法反対首都圏ネット事務局注
佐々木 毅東大教授は、2001年4月1日から東大総長に就任されます。)