独行法反対首都圏ネットワーク

国立大学法人化への国際的視点
2000,12,29 [he-forum 1543] 大崎仁氏の講演

『学士会会報』2001-I No.830  p.38-51


国立大学法人化への国際的視点


大崎  仁


 本日は、貴重な機会を与えていただきまして有り難うございます。皆様ご承知のように、現在、「国立大学独立行政法人化」の検討が、進行中であります。国立学校財務センターでは、その参考に供するため、昨年来、多くの研究者、専門家のご協力を得て、諸外国の状況などを調査いたしてまいりました。今日は、それから得た知見を踏まえて、諸外国の状況を参照しながら、この問題の紹介をさせていだきたいと存じます。


制度設計に入った独立行政法人化


 独立行政法人化の問題は、平成九年の橋本内閣の時に、中央省庁等改革の一環として、国の組織や仕事を減量するという観点から、起された構想でございます。

 行政改革会議の最終報告では、国立大学に関しては、「長期的に選択肢の一つになりうる」という程度のことでしたが、その後一連の動きが重なり、急速にその方向性が固まってまいりました。
 具体的に申しますと、文部省が去る五月二十六日に国立大学長会議を臨時に召集しまして、「大学の特性を踏まえた修正・調整を加えて国立大学の独立行政法人化を図りたい」という方針を明確にしました。さらに具体的検討を進めるために、「調査検討会議」を設けて、平成十三年度中に法人化の具体案の報告を求める。それを踏まえて文部省としての最終的な結論を得るというスケジュールを明らかにいたしました。
 月を隔てた六月十四日に国立大学協会の臨時総会が開催され、「独立行政法人制度を定めた通則法をそのまま適用することは反対であるという方針は堅持するが、文部省に設置される『調査検討会議』には積極的に参加し、国立大学の意向を反映する政策提言をしていく。同時に、国立大学協会独自に、国立大学の設置形態を考える特別委員会を設ける」ということを決定いたしました。
 それまでは、独立行政法人化の是非論を巡って議論が交わされてきたのが、これにより、「法人化の具体的な制度設計」という新しい段階に入ったといってよろしいかと思います。


 明治以来大学自治の慣行を積み上げ、さらに戦後はその慣行を継承し、教育公務員特例法等の法制上の裏付けも得て、国の行政組織の中での大学自治を構築してきた国立大学にとって、この独立行政法人化は非常に大きな変革を意味します。これがうまくいけば、二十一世紀に向かっての国立大学発展の大きな契機となりますが、悪くすると、国立大学にとって大きな打撃となる恐れもまた否定しきれません。その意味で、国立大学は現在非常に大きな岐路に立っています。これからの一年半、つまり、平成十三年度末を目途に行われる独立行政法人化の制度設計の意味合いは、非常に重いものとなってまいります。
 そこで、制度設計に当たって重要と考えられるいくつかの問題点を、各国と比較しながらご紹介したいと思います。


大学の法人格と国家機関性


 世間一般に、法人化によって国立大学が国立でなくなるような印象をお持ちになる向きが意外に多い。国立大学の先生方の中にも、そういう受けとめ方をされる方が見受けられますが、それが私は非常に気になっております。

 国を一つの法人と考えますと、国立大学の法人化とは、国立大学がそれとは別の法的主体になるということですから、国の機関としての性格に変化が生じることは確かです。だからといって、国立の機関が法人格を持ったからといって、国立性が当然になくなるものではありません。
 独立行政法人通則法では、独立行政法人を「国が直接主体となってやらなくてもいいが、民間に任せるわけにはいかない公共的事業を行う法人」という位置付けをしております。従って、いわゆる民営化でないことは、はっきりしていますが、その国立性については解釈に幅があるようです。それだけに、国立大学の法人化の制度設計に当たっては、国立大学に対する国の基本的責任を明らかにする意味でも、その国立機関性を確認することが、重要な意味を持つと考えます。


 大学が法人格を持つことが、その国立機関性を失わせるものでないことは、各国の状況を見れば極めて明白です。

 古く遡れば、帝国大学が出来て間もない頃、江木千之という文部省高官が、憲法制定などの顧問としてドイツから招かれたロェスレルという学者に、ドイツの大学の法的地位について、質問しています。これに対してロェスレルは、「ドイツの大学は法人であるが、国家機関である」と明瞭に答えています。
 現在でも、ドイツは、大学制度の基本を定めた「高等教育大綱法」で、「高等教育機関は、国の機関であると同時に、公法上の法人である」と明確に規定しています。
 フランスの大学も、高等教育法に「高等教育・研究を行う機関は国家機関であり、法人格および自治権を享受する」と書いてあります。
 つまり、国立大学が法人格を持つということは、国立大学の自治的な運営を保障し強化するためのいわば法技術的な配慮であって、法人となることによって国家機関でなくなるといったような発想は、ヨーロッパ諸国にはありません。
 アメリカはどうかといいますと、ごく少数の州立大学は、日本の国立大学と同じように、州の行政組織の一部という位置付けですが、大部分の州立大学は法人格を持っています。
 例えば、カリフォルニア大学は、州憲法で設立され、法人格を付与されている憲法上の機関です。これと別に州法で設置されているカリフォルニア州立大学がありますが、これも同じ州法で法人格を与えられています。
 法人格を持つからといって、カリフォルニア大学やカリフォルニア州立大学が、州立機関でないというような考えは、全くありません。
 イギリスは、歴史的経緯もあって単純明快には申せませんが、これも、国王から勅許状をもらって、一つ一つの大学が出来ているという意味では、わが国の特殊法人に相当するものといえます。また、イギリスには、旧制専門学校に相当するポリテクニクが、公立機関としてありましたが、一九八八年の教育改革法で、高等教育法人となり、さらに一九九二年の継続教育・高等教育法で、大学に昇格しています。これらの新大学は、さらに国家機関性が強いと見ることが出来ます。
 いずれにせよイギリスには、大学を民営と考える感覚は全くありません。イギリスの人に聞くと、「私立大学というのは、バッキンガム大学一校だけである」という答えが、必ず返ってまいります。
 私学の話が出たのでついでに申しますと、国立大学の法人化間題が議論される際に、「アメリカは私学が中心だ」という人がおられますが、これも誤りでございます。アメリカでは、かっては確かに私学が中心でしたが、現時点では、学生数で申しますと四年制大学の七割が州立大学であり、三割が私立大学です。短大まで含めればもっと州立の比率が高くなる。ちょうど日本とは逆の状況です。
 ドイツでは、私立大学が学生の二パーセント程度ですし、フランスはそもそも私立機関には学位授与権を与えていませんから、正式には私立大学はないということになります。
 要するに、欧米諸国においては、大学は国または州が責任を持つものであるという考えは、揺るぎないといって間違いございません。
 外国の大学が法人であることを例に引いて、あたかも法人格を持つ外国の大学が民営的な組織であるというような言説を耳にすることが時たまございますが、これは全くの誤解と申して差し支えないと思います。


 法人化の検討において、国立大学の国家機関性にこだわりますのは、そこに制度設計の基本的な問題が潜んでいるからです。どこの国でも社会に必要な高度な教育・研究を行う大学については、国家・社会の基本的な基盤として国家が責任を持つという姿勢に揺るぎはありません。わが国だけが、いわゆる民営化路線に流されることは、最近強調されている大学の国際通用性、国際競争力にとって、致命的なダメッジとなると考えるからです。

 さきに触れた五月の国立大学長会議に先立って、自由民主党の政務調査会が「これからの国立大学のあり方について」という提言を発表しておられますが、その中に「独立行政法人という名称は、大学には適当ではないから、例えば国立大学法人というような名称にしたらどうか」という一節があるのを見て、意を強くした次第であります。


市場化論と学生負担


 法人化の検討に関連して、市場原理の導入が論じられることがよくあります。新自由主義と申しますか、市場化論が現在政策全般に大きな影響力を持っているので、各国の大学政策でも市場原理の導入が取り上げられ、いろいろな試みがなされているのは事実です。

 しかし、それは日本の一部でいわれている「学生が教育の買い手であり、大学が教育の売り手であって、受益者である学生が必要経費を負担するのが当然だ」というような市場化論ではありません。


 最初にいわゆる市場原理導入を唱えて大学政策を展開したのは、一九八○年代のサッチャー政権でした。サッチャー政権は、一九八八年に教育改革法を作り、大学の自主性を最大限に尊重した資金配分で国際的に評価の高かった「ユニバーシティー・グラント・コミッティー」に代えて、「ユニバーシティー(ハイヤー・エデュケーション)・ファンディング・カウンシル」を設け、政府の意向が資金配分に反映しやすくしました。

 その時のスローガンが「グラントからコントラクトヘ」、つまり「補助から契約へ」というものです。コントラクトというと、市場での売り手と買い手間の契約といった感じを受けますが、この場合の買い手は政府であり、政府が大学のサービスを買うと考える。大学に対する資金供与を、大学のサービスに対する支払いと考えることにより、大学に対して政府の政策に沿つた教育・研究を求めようということにほかなりません。お客の注文に応える姿勢を大学に求
めるというところに市場化の要素があるということでしょうが、擬似市場化ともいえないものかと思います。
 一九九七年に、今後二十年間のイギリスの大学政策を政府に勧告した「デアリング・リポート」が出されましたが、その中では、大学教育の経費負担の問題について、「社会を代表する政府、学生とその家族、卒業生の雇用者および大学との間で、新しいコンパクトを形成しなければならない」と述べております。コンパクトを、合意あるいは契約という意味と解釈しますと、契約の考え方の再構成をということになります。 経費を負担すべきいわゆる受益者として、学生・家族、卒業生の雇用者が挙げられていますが、同時に社会全体が受益者であり、それを代表する政府が、資金面で責任を持たなければならないという基本認識は、変わっていません。

 学生負担の問題を考えると、平成十二年度の日本の国立大学の授業料は、年額四十七万八千八百円、入学料は、二十七万七千円です。これは、各国の国公立大学の学生の学費負担に比べて、最高水準の額です。
 イギリスでは、従来政府が授業料を全額負担し、さらに学生の生活費まで面倒をみていました。一九九八年からそのような方式を変革して、授業料を取ることにしましたが、日本と比べるとはるかに低額で、教育必要経費の平均額の約四分の一、約千ポンド、日本円にして、十六万円程度です。しかも、家計の状況により大幅な減免が認められており、約四割の学生は全く授業料を納めなくてもよいようです。
 ドイツでは授業料は取っていません。最近一部の邦で、所定年限を超えて在学する学生からは徴収するという動きがようやく始まった段階です。
 フランスでも授業料は無償であり、学生登録料として、年二、三万円程度の額を取っているに過ぎません。
 アメリカは、高額の授業料を取っていると思われるかもしれませんが、州立大学の平均は約三十五万円で、日本よりは低額です。専門により差をつけるということもありません。


 さらに付け加えますと、日本の高等教育に対する公的支出の少なさは広く認識されているとおりです。
 最新のOECDの統計を見ますと、一九九七年において、GDP比では、ルクセンブルグという小さい国を除きますと、日本は韓国と並んでOECD諸国中最下位の〇・五%。OECD加盟二十九カ国の平均が一%ですから、その半分しかない。
 それでは、公的支出全体の中で高等教育に対する支出が占める割合がどうかといいますと、各国平均三・二%に対して、日本は一・三%と大きく下回って最下位です。


 申し上げたいことは、日本の大学について学生の学費負担をこれ以上強化するというようなことは、国際的観点からは考えられない。どなたもそういうお考えはないと思いますが、仮に法人化ということを、なにか独立採算制の強化とか、民営化のステップというふうに受け取って、学費負担の強化をお考えになる向きがあるとすれば、少なくとも国際的常識からはかけ離れているということでございます。


法人化と大学管理問題


 国立大学法人化の問題はいまにはじまったことではありません。今日まで実現を見なかったのは、それが大学の管理システムの変革に直結するからにほかなりません。

 敗戦後の大学改革の過程で、占領軍から国立大学の管理システムの改革案が提示され、反対運動が盛り上がったことをご記憶の方も多いかと思います。改革案は、「大学法試案要綱」として示されましたが、一般には理事会法案と呼ばれていました。この案は、法人化ではありませんでしたが、法人の理事会に相当する強力な権限を持つ管理委員会を各大学に置くという構想で、法人格を持つアメリカ州立大学の管理システムをモデルにしたものです。占領軍は、関係者の一致した猛反対により、この案を撤回せざるを得なくなり、占領軍の大学政策はじめての挫折となったことは、ご承知のとおりです。
 大学紛争後の中教審の四十六年答申でも、法人化が提言されていますが、具体の政策課題としては、受けとめられませんでした。
 中曽根内閣の時の臨時教育審議会においても法人化の問題が取り上げられ、真剣に議論されております。その際の結論は、「現在の特殊法人制度は大学に必ずしも適していない。しかし、大学にふさわしい新たな特殊法人の形態があるはずだ。大学の自主性、自律牲を強化する意味で、新たな特殊法人の形態を探求することを中長期的な課題とすべきだ」というものでした。その検討が行われないまま、全く別の文脈から構想された独立行政法人化が、いま現実の課題になっているわけでございます。


独立行政法人制度の問題点


 では、現在問題になっております独立行政法人制度が大学にふさわしい法人形態かどうか、率直に申しまして、そうはいえないと思います。「独立行政法人通則法」で示された法人制度は、そのままでは大学に適さないということは、現在関係者の共通の理解になっているといって、よろしいかと思います。

 中曽根文部大臣が国立大学長会議で説明された言葉を一部引用しますと、「『独立行政法人通則法』をそのまま国立大学に適用した場合には、大学本来の教育研究システムや組織運営の主体性が損なわれる恐れがある。通則法と一定の調整を図ることが不可欠である」と述べておられます。
 それでは何が間題なのか。独立行政法人制度をごく簡略化してご説明いたしますと、要するに、「主務大臣は法人の長を任命し、三年なり五年なりの一定期間に達成すべき目標を法人に指示する。法人はその目標達成のための実施計画を作成して、主務大臣の認可を受ける。主務大臣は期間が満了すると、目標の達成状況をみて法人に対する次の措置を決める」という仕組になっております。


 この制度のヒントとなったのは、イギリスの「エージェンシー制度」だといわれます。京都大学の岡村周一先生が「ジユリスト」にお書きになったものを拝見しますと、「国のサービス業務の効率的実施のためにエージェンシーを設置し、公開競争で適任者をその長官に任期つきで任命し、達成目標などについて大臣と長官との間で枠組み協定を結び、協定の枠内で長官に広範な管理権限を与える」ということのようです。

 達成目標を決めたら、責任者である長官にまかせて自由にやらせる。ただし結果責任は長官が負うということではないかと思います。エージェンシーの第一号は車両検査庁で、その後社会保障給付業務などに次々と拡大していったそうです。
 イギリスのエージェンシーは、省庁の内部組織であって法人ではありませんし、大学や博物館、研究所などの教育、研究、文化施設とは何の関係もありませんから、独立行政法人はエージェンシーとは別物と考えたほうがよいと思いますが、組織の長を任命し、達成目標を提示し、自由に手腕をふるってもらって結果責任を問うという構造は、似ているところがあります。
 組織の長に仕事を任せるという部分だけを取り上げれぼ、法人の自由度は大きいように見えますが、その前提となる達成目標の決定は主務大臣が行い、目標達成のための実施計画も主務大臣の認可が必要ですから、決められた枠内での、目標達成プロセスだけ一任するという、完全なトップ・ダウンの構造です。しかも、イギリスのエージェンシーでは、大臣と長官との間で、達成目標や実施計画について枠組み協定が結ばれるのに対し、独立行政法人では、大臣の指示、認可、命令というような方式がとられていますから、トップ・ダウン度は、エージェンシーよりさらに強いといえます。
 このようなトップ・ダウンの構造が大学にふさわしくないことは、一見して明らかです。独立行政法人制度が到底大学にふさわしいものとはいえないという論拠の中核は、そこにある。その構造をどう修正するか、あるいはどう特例を設けるかということが、おそらくこれからの制度設計の非常に大きな課題になるのではないかと思いまず。


国の政策と大学自治の調和


 どこの国でも、大学が強固な自治を守って政府の政策的な諸要請に無関心でいられた状況は、大きく変化しております。大学の国立機関牲を強調すればするほど、国の政策なり方針を大学の運営にどう取り入れるかが重要課題となり、それを大学自治とどう調和させるのかが、大学の管理システムの中核的課題となってまいります。各国ともそのためいろいろな工夫をこらしています。
 例えば、先ほど申し上げたようにイギリスでは、大学への資金交付機関を自主牲の強いUGCから、ファンディング・カウンシルに代え、大学への資金配分に政府の政策が反映しやすくしました。それでも、政府が、個別大学への資金配分に口を出すことは、法律で禁じられています。大学を政府の直接干渉外に置くという伝統的政策は、その限りでは守られています。

 フランスでは、最近「契約政策」というものが推進されているそうです。政府と大学との間で大学の活動方針などについて契約を結び、その契約に沿って大学の活動が行われ、それに対して政府が資金を交付するというものです。契約というかたちで、政府の政策と大学の方針を一致させようとする手法は、前に触れたイギリスの「グラントからコントラクトヘ」という考え方と相通ずるところがあります。
 各国の大学がみな法人格を持つと申しましても、ドイツやフランスでは、大学自体が法人であるのに対し、アメリカ、イギリスでは大学の管理機関に法人格が与えられています。大学の自治という観点からすれば、政府対理事会と理事会対大学という二重の関係になります。
 一般に州立大学の管理機関である理事会のメンバーは州知事が任命しますが、理事会の構成については、知事の恣意的干渉を避けるための工夫が見受けられます。大学の自治との関係で理事会の役割を関係者に伺いますと、「理事会は大学のプロテクターだ」とおっしゃる方が多いのですが、中には、「大学は州政府のエージェントである」という人もいます。理事会はその二面性を持っているのかと思いますが、大学と政府との間のバッファーになっていることは確かだと思います。


 各国とも、高度な教育・研究を担っている大学というものの特別な性格を尊重することが、政府にとってもよい成果につながるという基本認識の上に、政府の政策を大学運営に活かす工夫を凝らしているわけで、国立大学の独立行政法人化に当たって、どのような工夫をするかは、制度設計の大きな焦点になるかと存じます。


評価問題の重要性


 すでに申し上げましたように独立行政法人制度の特徴は、目標達成のプロセスは出来るだけ法人に任せるところにありますから、「事前チェックから事後評価へ」ということが、よくいわれています。法人への資金の交付でも、ほんとうにそうなるかどうか判りませんが、細かい事前審査はしないし、使い方も制約しないといわれています。その代わり後で厳しく結果を評価する。従って、評価のウエートは大変大きなものとなります。

 通則法を見ますと、そのために各省に「評価委員会」を置くことになっています。この評価委員会は、非常に強い権限を持っております。大臣が法人に目標を指示するときには、どういう目標にするか評価委員会の意見を聞く、実施計画の認可をするときも意見を聞く。法人から毎年実施状況の報告が出ますと、その報告を評価して、必要があれば法人に勧告する。もちろん計画終了時には包括的評価をする。その評価結果を踏まえて、主務大臣が法人に対する次の措置を考えるということになっていますから、評価委員会の権限は非常に強いわけです。
 国立大学の独立行政法人化を考える場合にこの評価のあり方をどうするかは、大学の自治、学問の自由に関わることでもあり、大変重要な問題になってまいります。


各国の大学評価


 いま各国を通じて大学評価を一番しっかりやっているのは、イギリスでございます。

 イギリスでは、前に申し上げましたように、ファンディング・カウンシルを通じて、大学に対する資金の交付が行われますが、交付される資金は、教育費、研究費、特別資金の三つに区分されています。二〇〇〇年度について見ますと、三者の総額の割合は、大体、教育費六九%、研究費二〇%、特別資金一〇%となっています。このうち、教育費については、学生数を基礎とした算定方式により、各大学への配分額が決められます。また、特別資金は、特定目的のために大学からの申請を審査して配分されます。これに対して、日本の教官当たり積算校費に相当する研究費は、各大学の研究水準により、差を付けて傾斜配分をします。ファンディング・カウンシルが、例えば生物とか、物理とか、専門分野ごとに委員会をつくり、各大学の研究の質を七段階に分けて評価する。下から二番目までの評価を受けたものは、配分はゼロ。三番目からは配分されますが、トップの評価を受けた大学は、三番日の評価を受けた大学の約四倍の額が配分されます。研究評価は、過去五年間の研究論文の評価を中心に行われますから、客観性、公平牲が高く、大学からの苦情もあまりないと開いています。我が国の科学研究費のようなプロジェクト研究費の配分は別としまして、大学に対する一般的資金の配分を評価に基づいて行っているのは、アメリカのごく一部の州を除いては、これが唯一の例かと思います。
 教育の評価のほうは、以前はファンディング・カウンシルが行っていましたが、現在は大学の分担金により運営されているクオリティー・アシュアランス・エージェンシーに委託しています。教育評価も専門分野ごとに行われていて、いくつかの項目について四段階で評価が行われています。最低の評価を受けた項目が一つでもあれば、是正勧告が出され、一年後に改善されていなければ、その分野に対するファンディング・カウンシルの教育費の支給が打ち切られます。それ以外には、研究評価と違って、評価結果と資金配分とは直接の関係はありません。ただし、評価結果は、特別資金の配分審査の参考にされるようです。
 クオリティー・アシュアランス・エージェンシーは、このほかに、大学全体の評価も行っていますが、それは、主として学位等の水準保持のためのマネージメント全体に対する評価であり、大学に対する助言的機能を持つものです。
 フランスでも、全国大学評価委員会という大統領直属の独立機関をつくり、大学評価を行っています。評価は個々の大学の求めに応じて行われ、評価の結果により個別大学への勧告はしますが、それが政府の資金配分等に影響するというようなことはありません。政府に対しては、政府の高等教育政策について勧告する権限があるようです。
 ドイツでは、最近の高等教育大綱法改正で評価に基づく資金配分ということが規定に盛りこまれていますが、現実の動きはまだ見られないようです。
 アメリカで、大学や職業団体がつくっている多くのアクレディテーション団体が、大学全体や特定の専門教育プログラムについて、アクレディテーションにより、質の保障をしているのは、ご承知のとおりです。
評価の制度設計の方向


 わが国でも 大学評価については、法人化問題以前から、学外の第三者による客観性のある評価の実施ということが、大学改革の重要課題となっておりました。文部省では大学共同利用機関的な第三者評価機関をつくるという構想を立て、各省所管の大学校や短大、高専の専攻科の卒業生などに学位を授与するために設けられていた学位授与機構に大学評価の機能を追加し、大学評価・学位授与機構としてこの四月から発足させております。

 文部省では、法人の評価をする際に、教育・研究の評価については、この機構の評価結果を尊重すればよいと考えているようです。それ自体は適切な方向かと思いますが、それだけでは、十分ではありません。大学評価機構も発足したばかりで、その評価がどのようなものになるかはまだこれからのことですし、その評価結果を評価委員会の法人評価とどう組み合わせるかも考えなけれぼなりません。さらに、教育・研究評価以外の要素についての法人評価をどうするかという問題が依然として大きく残されているわけです。


 独立行政法人通則法が要求する法人評価が各国の大学評価と違っているのは、評価の対象が大学運営の全体にかかわる目標達成度であり、その内容は、目標の設定の仕方により大きく左右される。しかも評価結果が、どのような措置につながるかは、主務大臣の判断にゆだねられているという点です。

 このような大学評価のあり方は、国際的にも例がありません。それだけに、大学にふさわしい法人評価の制度設計をどうするかということが、極めて大きな意味を持つのではないかという感じがいたしております。


法人化と大学自治の再構築


 以上、法人化に関連して、政府対大学という観点から考えなければならない課題を取り上げてまいりましたが、より難しい、かつやらなければならない課題は、やはり学内の管理運営システムの再構築ではないかと思います。国立大学の法人化は、結局は、大学自治を再構築することにつながってくるのではないでしょうか。

 国立大学は、これまで社会の発展を支えるすばらしい成果・業績を挙げてまいりました。また現に挙げつつあります。それにもかかわらず、国立大学を批判する声が高いのはなぜでしょうか。私の勝手な意見をお許しいただけるなら、その最大の理由は、国立大学の対外的な活動における当事者能力が、非常に弱いという点にあるのではないか。これは、国立大学が国の行政組織の一環であることに起因するところが大きいわけですが、大学自治のあり方に問題がないとはいい切れません。
 ご承知のように、日本の国立大学の自治は、国際的に見ましても最も強固な教授会自治を中核としており、これまで理不尽な外圧に対する防御装置として有効に機能してきました。しかし、もはや防御装置の機能だけでは、大学が主体性を持って対外的活動を展開するには十分でないことが、だんだん明らかになってきたという気がいたします。まして、法人化して、法的に独立の主体になれば、学外の諸機関・団体との関係を大学の主体性において処理していかなければなりません。
 これは大変難しい問題で、私ごときが「では、こうしたらいかがでしょうか」と申し上げられるようなことではないのですが、法人化の成果を左右する課題と存じますので、私見を述べさせていただきます。
 法人化すれば、大学の意思決定を、より明確、迅速に行うシステムが一層必要になってきます。教授会自治というのは、基本的に先生方による直接民主制ですが、直接民主制だけで、何千、何万という教職員、学生からなる組織体の運営について、適時、適切な意思決定を行うのは至難の業です。
 そこで、どうしても間接民主制のシステムを強化して直接民主制とうまくバランスをとることが必要になると思います。より具体的にいえば、大学自治の再構築は、大学を代表する学長を中心とする執行部をどう構成し強化するかということに、かかってくるのではないでしょうか。


 先ほど申しましたように、国際的に見て、大学の法人化には二つのタイブがございます。英米型は理事会が法人になります。この場合には、わが国の私学の例をお考えになれば判りますように、経営と教学が分離しています。一方、独仏型では大学自体が法人になりますので、教学と経営とが一元的になります。

 国大協なり文部省なりのこれまでの検討の流れから見ますと、独仏型の大学イコール法人という方向が有力ですから、そうなると、学長イコール法人の長ということになります。
 通則法では、独立行政法人の長の権限は大変に強く、他の役員や職員の任命権も持っていますから、通則法通りにするとこれまでとは逆に、学長の権限が強くなり過ぎるという問題も出てきます。それだけに、大学の意思決定のプロセスにおいて、法人の長をかねる学長を中心とする執行部が、教授会における直接民主制を活かしながら、大学全体の意思決定を的確に行うシステムをどう構築するかが、実際には、法人化の制度設計の最大の課題なのかもしれません。
 振り返ってみますと、大学自治というものは、もともと天から降ってきたわけではございません。ご臨席の先生方をはじめ多くの諸先輩が大変な苦労を重ねられ、また、政府サイドでも、大学の本質をよく考えながら対応してきた結果の累積として、今日あるわけでございます。
 その意味で、国立大学協会をはじめ大学サイドから、新しい大学自治の構築という明確な問題意識を持った真剣な動きが、法制を離れても出てまいりませんと、法人化の最大の狙いであるべき大学の自主、自律の強化も大学の主体性の確立も危うくなりはしないかと心配でございます。
 独立行政法人制度の実際の運用については、すでに平成十三年度から移行が決定している機関につきましても、まだ、これからということで、未確定、未知の要素が多いようでございます。まして、国立大学については、特例あるいは調整を前提とした制度設計に入ったところでございますので、いまからでもいろいろ工夫なり努力をする余地は十分あると思います。ご臨席の諸先生が、
よりよい制度づくりができるよう、いろいろな面においてお力をお貸し下さることを念じまして、雑駁な話を終わらせていただきます。有り難うございました。
(文部省国立学校財務センター所長・京大・法・昭30)

(本稿は平成12年7月21日午餐会における講演の要旨であります)


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