独行法反対首都圏ネットワーク
 
論壇   地方国立大学の充実が先決だ
2000.12.21 [he-forum 1524] 朝日新聞12/21

『朝日新聞』2000年12月21日付

  論壇
  地方国立大学の充実が先決だ
  紺谷友昭 コラムニスト(札幌市在住)

  かつて私は、学費の安い国立大学にしか行けなかったので、山形大学文理学部だけを受けて入った。四十年ほど前のその当時、授業料年額九千円、三食つき月三千五百円の学寮で生活しながら、先生と一対一の授業もある環境で学ばせてくれたありがたさは、生涯、忘れられない。
  ところが、いま国家公務員削減の格好の標的として、定員十三万人あまりの国立大学が狙われ、独立法人にされようとしている。そうなれば、授業料引き上げ、教職員の削減が行われかねない。大都市部にある旧帝国大学などはともかく、現在でも予算配分で冷遇されている地方大学は、さらに不利な立場におかれ、衰退するのではないか。そうした「改革」では、日本の活力の大きな源泉を涸れさせることになろう。
  政府与党の高等教育対策は卑小なものだった。一九七〇年代から、国立大学授業料、入学金を毎年のように引き上げ、九九年度は入学金二十七万五千円、授業料年額四十七万八千八百円。私が入学した五八年度は、公立高校授業料の一・二五倍だったのが、現在は四・四三倍だ。これ以上高くなれば、家庭が貧しくとも県内の国立大学で学ぶ道が閉ざされることになる。
  日本の国立大学の学費は、他の先進諸国よりも高い。ドイツの州立大学は、授業料、入学金とも無償。フランスの国立大学の年間修学納付金は日本円にして一万六千円(九七年度)。英国の国立大学は九七年度まで無償だったが、九八年度からは年二十一万八千円。米国州立総合大学は年四十一万一千円(九七年度)。米国の場合は日本に近いけれども、州からの助成金や、政府保証学生ローンの制度が格段に整っている。
  私の出た学部の前身の旧制高校は、熱心に誘致され、一九二〇年に学校敷地は県の提供、校舎も県の負担と県民、山形市民の多額の寄付によって建設された。他の県の国立大学も、同じような歴史をもっているにちがいない。
  戦後、地方大学になってからも、卒業生の社会的貢献度は、旧帝大の多くなどと、それほど変わらないのではないか。どの大学に入るかは家庭環境が作用しているようで、追跡調査してみれば、興味深い結果が出るだろう。
  こうした歴史をもつ各地方大学は、国民の共有財産であり、時々の政府与党の思惑によって動かされるのは耐えがたい。これからは、中央政府から各県へ大幅に財源を委譲して、県と地方大学の結合度を高めることによって、大学の独立性を確保し、公立高校に近い学費で学べる態勢を確立すべきだ。伝統に根ざした特色ある学部をさらに発展させるとともに、不足な学部を新設して総合大学にすれば、県内で伸びやかに育って多面的な能力を発揮する人材も増える。これこそが、行政改革の本旨にかない、国民の利益に合致する方向である。
  姑息な法人化などよりも、国会と政府が当面なすべきことは、日本の若者が大変な自己負担によって大学に進むにもかかわらず、卒業生の学力や教養が外国人を驚かせるほど低いという、巨大な無駄をはぶくことだ。
  それには、高校卒業資格試験のような制度をつくって、国立大学入学の基礎条件にするとともに、各学科にわたる大学卒業資格制度を設けて、入学後の成績判定が極端に甘い大学教育の改善策にしてはどうか。当面、それを受験するのも、その資格を職員採用などの条件にするのも、自由にすればよい。
  多分に縁故や偶然的事情がかかわって採用される大学教員にも、社会的審査の目が必要だ。社会的審査なくして採用された人ほど、三、四十年も同じ大学を離れず、その無能さが大学の退廃の要因になっている。ドイツやフランスのような教授資格試験を実施すべきだ。そして、これらの資格試験は高校、大学、大学院を卒業しなくても受験できるようにすべきだ。
  それらの資格試験に学歴なしで合格する人は、人間の資質に対する信頼をよみがえらせ、現在の学歴社会も仮の姿であることを明らかにしていくと思う。
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