独行法反対首都圏ネットワーク

2000.9.7[he-forum 1254] アソシエ21ニューズレター6, 7月号

国立大学からの発言(第五回・金沢大学)独法化問題「原論 」- 村上和光
国立大学からの発言(第六回・東京学芸大学)「独法化」問題について思うこと - 黒沢惟昭

アソシエ21 ニューズレター 2000年6月号 No.14

リレー連載●国立大学からの発言(第五回・金沢大学) 独法化問題「原論」
村上和光

 どうやら独法化は多少の修正はあるとしても現実化しそうな気配が濃厚であ
る。とうとう文部省・国大協とも「条件闘争」に方針を変更(結局は「落とし
所」はここに決まっていたのか)しその舵を大きく「右」に切ったようにみえ
る。いうまでもなくこの独法化には、「定削との関連」・「企業会計原則」・
「中期計画=目標」・「業績評価システム」・「人事プロセス」などの問題点
に枚挙の暇がない程で、全面的に反対せざるをえない。しかしそんな分かり切っ
たことをこの文章で今さら述べることはしない。ここでは、この独法化の背景
にあると思われる、その「資本主義システム」との本質的関連についてやや
「原理的」な視点を問題提起することにする。独法化「原論」と銘を打つ所以
である。

 さてあらかじめ結論先取り的にいえば、今回のこの独法化の本質的意味は大
学教育を残りの「ひとカケラ」までをも「資本主義的商品経済システム」の中
に叩き込もうとする点にこそある――というのが私の理解である。いうまでも
なく、大学教育(だけでなく教育全般がすでにそうなっているが)は現時点で
ほぼその前身を「資本の論理」に浸されているのは周知の通りだが、この独法
化によってその「浸透」は間違いなく完成の域に到達しよう。私の学生時代に
は、「教育の帝国主義的改編反対」というのが学生運動スローガンの一つであっ
たが、この独法化によってようやく「教育の資本主義化」はその極点にまでた
どり着いたことになる。「資本主義市場経済万能」の「教育版」以外の何物で
もない。

 ここまでは大方の賛同が得られると思うが問題はその後にこそあろう。「独
法化が大学教育の完全資本主義化だとしても、それのどこが悪いのか」――と
いう意見に対してはどう答えればよいのか。あるいはそれには反論できないの
か。ここからは必ずしも多数の賛成は得られないような気がする。この設問に
適切な反論を構築するためには、多少迂遠とはいえ、「経済原論」の初歩の力
を幾分かは拝借する以外にはない。そこで少し「道草」。

 さて「経済原論」の初級教程によれば資本主義とは最も適切かつ簡潔には
「商品による商品の生産」と定義される。つまり、宇野弘蔵が体系化したよう
に「労働力の商品化」こそが資本主義経済システムの基軸であることを、この
短いフレーズは見事に表現しているといってよいが、このように「労働力商品
化」を基軸にして「のみ」資本主義が存立・運動しえるということから、一方
に「資本主義の歴史的限界性」が表出するとともに、他方にこの資本主義変革
の担い手をなす労働者の「労働疎外」――周知のようにこの「疎外」概念には
分厚い論争が存在していることは十分に承知しているが私は「確信犯」的に使
用したいと思っている――もまた現実化せざるをえない。その場合、この「労
働疎外」もよく知られていることだが、マルクス『経哲草稿』に有名な、「労
働対象からの疎外」「労働行為からの疎外」「人間本質からの疎外」という三
方向からの人間疎外がそこでは特徴的であろう。つづめていえば、「労働力商
品化」を基軸とする資本主義システムとは、「人間としての掛け替えのない本
質」を物化させて人間を無限に荒廃させていくシステムだという以外にはない。
そしてそれが、資本主義システムに組み込まれた各エイジェントの個別的感覚
や主観的観念によって肯定されたり否定されたりする次元の問題ではなく、ま
さしく資本主義的経済稀覯レベルから生じる構造的特質であることも、当然で
あろう。

 ここまで論理を引っ張ってくれば議論はかなり見通しよくなる。つまり、
「資本主義システム=人間疎外の体制」という今みた命題に、先程の「独法化
=大学教育の資本主義システムの完成」というもう一つの命題を重ね合わせれ
ば、単純な三段論法によって直ちに、「独法化=人間教育の荒廃化の徹底化」
という見易い結論が手に入るのではないか。私は、この一点にこそ独法化批判
の枢軸があると強く思う。「独法化が大学教育の資本主義化だとしても、それ
はこの社会の普通の姿であり、どこが悪いのか」という「常識的」な意見に対
しては、「それは大学教育を骨の髄まで荒廃化させるものだ」という反論しか
ないのではないか。それ以外の反駁はほぼすべて「市場経済礼讃」の波のなか
に沈没してしまう。このような思想的基盤を強固に固めなければならないので
はないか。

 そう考えれば、少なくとも私にとっては、この独法化問題は「資本主義経済
システム」への思想的在り方を問われる「階級的課題」そのものだと認識せざ
るをえない。本来、資本にその「侵略を許してはならない「医療・教育・文化・
愛情」などの領域から「資本の支配」を少しでも排斥するという「条件闘争」
を進めるとともに、できうれば、「資本主義経済システム」そのものを根底的
に変革するという――そのような大きな体制変革課題の一環として、この独法
化問題はあるに違いないのだ、と私はそう確信している。

(金沢大学教員)


アソシエ21 ニューズレター 2000年7月号 No.15

リレー連載● 国立大学からの発言(第六回・東京学芸大学)「独法化」問題に
ついて思うこと
黒沢惟昭

 編集部からの寄稿依頼に応じたのは、この際に改めて「独立行政法人」化に
ついて勉強しようと考えたからであった。しかし、以前買い求め素読した岩崎
稔編『激震! 国立大学――独立行政法人化のゆくえ』(未来社)を精読して
みると、ここに殆ど全ての問題点が論じられ、私なんぞがつけ加えるべき提言
などはないことに思い至り大いに困惑している次第である。とりわけ、最初の
部分に掲載されている座談会「『独立行政法人化』の背後にあるもの」は事態
のポイントを掴むのに大いに参考になった。そこで、責の一端をふさぐために
この書に学びつつ若干の管見を綴ってみたい。

 まず、自己批判をこめてであるが、これほど重大な問題(例えば、「国立大
学をエージェンシー化すれば、基礎科学や人文科学があっという間に地盤沈下
することは火を見るより明らかです」と佐和隆光氏は前出の座談会で断言して
おられる)なのに、何故大きな反対運動が起こっていないのだろうか。しかも、
経緯を辿れば、国家公務員二五パーセント削減という政治公約が「まずありき」
で、その文脈の下で、独立行政法人という制度枠と国立大学とが結びついたの
であった。また二五パーセントという数字にも余り意味はなく、当初の一〇パー
セントから小渕政権発足時に二〇パーセントに引き上げられ自自公連立政権発
足の際に、「もう一声」で「二五パーセントになった」(山口二郎『危機の日
本政治』)というのだから驚かざるをえない。

 山口氏も指摘するように、大学の危機は、独立行政法人という制度枠を押し
つけられるところにあるのではない。そうではなくて、研究者がこぞって敗北
感に陥り、「独立行政法人を不可避のものと考えて、自らの組織だけは有利な
条件で独立行政法人に移行しようという浅ましい生存競争が始まっている、自
らに関わる政策形成に対してこのように主体性を放棄することこそ、大学の危
機である」(山口前掲書)。この批判は私の身辺で見聞する事態にもあてはま
る。

 さらにその危機の要因を次のように抉っているが、これまた全くその通りで
あると共感せざるをえないのである。

 「政策形成の基本的前提となるイデオロギーについて、その虚構性を明らか
にするのは知識人の役割だったはずである。しかし、審議会に入ってイデオロ
ギーのお囃子をする知識人はいても、イデオロギーに対決する知識人の活動は
沈滞したままであった。そうしたことの咎めが、知識人の本拠地であるはずの
大学を襲っているということもできる」(同上)。

 右の「イデオロギー」とは端的に新自由主義であり、日本における教育政策
は臨教審答申とそれに基づく一連の政策と捉えてまちがいないだろう。その諸
政策にはさまざまなヴァリエーションはあるが、具体的には市場原理の積極的
な教育への導入と、その場合の私的競争に伴う自己責任を強調する立場が基本
路線となっているのは周知のところであろう。この政策の一環として実施され
たいわゆる「大学自由化」=教養部の廃止については、生涯学習時代に早期の
専門教育は矛盾することなどを理由に反対論を幾つかの雑誌で公表し、当時の
勤務先の大学で新しい教養教育の在り方を同僚たちと論じ、「共通科目」の実
施によってその具体化にも多少ともコミットしてきた。一方、大学間のとりわ
け教養部の担当教官の交流集会にも幾度か参加したが私たちのささやかな実践
は殆ど関心を呼ばず“教養教育解体”の流れを阻止することはもちろん、対抗
策を拡げることもできなかった。

 ところで、いわゆる「臨教審路線」の実現における大きな不安は教育の格差
の一層の拡大であると私は考える。前出の「座談会」で佐和氏は、「大学のあ
り方だけを変えるのは難しい。初等・中等教育と高等教育との間に補完関係が
あるわけです」といわれているが、私はここ十年程、高校問題に関心を抱き理
論的・実践的にもかかわってきたのでこの格差の問題に関説して経緯の一端を
紹介してみよう。

 臨教審の答申を高校を主にして継承したのは一四期中教審であった。この中
教審は「格差」こそ高校の病理の原因である、と提言したことに私は当時少な
からぬ衝撃をうけた。教育問題の本質をいいあてていると思えたからである。

 格差が病理の要因であれば、その回復は格差の解消、是正でしかありえない。
このために、各校ごとでなく、数校を束ねて入試を行う総合選抜制によって各
校の学力を平均化するとか、通学区を狭めて地域の学校を育てようとする小学
区制が全国各地で部分的には実施されてきた。これらの施策は格差是正に効果
を発揮してきたことは戦後教育史をみれば明らかである。

 だが一四期中教審はこうした方法には一顧だにしなかった。提言されたのは
多様化の拡大推進によって格差是正を行うという方策であった。つまり、高度
成長による豊かさによって、多様な子どもたちが多く出現したのであるから、
学校の方も多様化して、自由に選択を奨めれば、一元的な「偏差値」による強
制的配分ではなく、個人の自由な選択・進学によって、学校間の序列化(格差)
は解消するだろうというのが処方の眼目であった。「行ける学校(偏差値によ
る振るい分け)から行きたい学校(自由な学校選択)へ」という当時のスロー
ガンが改革の内実をよく表している。

 だが、以来十年後の今日、高校間の格差は解消されたか、少なくとも是正さ
れたか。否であることは市販の受験雑誌を見れば一目瞭然であろう。憂慮すべ
きは、この点の検証もなされないままに、最近は「学校選択の自由化」として、
公立小中学校にも同様の考え方が推進されつつある(この点については、拙稿
「市場主義でなく市民主義の教育改革を」『世界』二〇〇〇年六月号、を参照
されたい)ことである。

 格差が勤労意欲を促がす、ということは「過去一度として実証されたことの
ない命題」であると佐和氏は指摘されている(前掲「座談会」)。流れには逆
らえない、うまく立ち回って自分だけは――というシニシズムが私を含めて大
学人の間にも拡まって久しい。その多くは、「虚偽意識」に知識人も陥ってい
るのではないかということを私なりに実感せざるをえない。

 新自由主義の奔流も労働党の政権によってその発祥の地でも一定の批判の波
が巻き起こっている。だがそれは、ブレアもいうように、オールドレイバーへ
の回帰・逆流ではないだろう。『第三の道』(ギデンズ)などを手がかりに、
「虚偽意識」を暴きつつ、対抗ヘゲモニーのために一剣を磨きたいと念ずる。

(東京学芸大学教員)

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