独行法反対首都圏ネットワーク

文部大臣説明の虚構と国大協の責務/首都圏ネット声明
(2000.6.5 [he-forum 983] 首都圏ネット声明(1)、[he-forum 984] 首都圏ネット声明(2))

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文部大臣説明の虚構と国大協の責務

2000年6月5日
独立行政法人反対首都圏ネットワーク事務局

はじめに

 5月26日、文部省は国立大学長・大学共同利用機関長等会議において「文部大臣説明」(以下、「説明」と略)を行った。これは昨年9月20日の「国立大学の独立行政法人化の検討の方向」において、「平成一二年度のできるだけ早い時期までには、特例措置等の具体的方向について結論を得たい」としていたことに対応したものである。「説明」で、文部省は、国立大学を通則法の下で独立行政法人化する方針を公にした。今後、国大協は議論の対象とせず、文部大臣の私的な「今後の国立大学の在り方に関する懇談会」のもとに「調査検討会議」を置き、そこに国公私立大学関係者、財界、マスコミ関係者を入れて検討し、2001年度中には制度設計を終えるとしている。大学共同利用機関にも同様の独法化方針を明らかにした上、従来なかった、公立大学の独立行政法人化を「5.11自民党提言」に沿って、正式に表明している。

 銘記しなければならないことは、国立大学の独立行政法人化問題は、徹頭徹尾、行財政改革問題に由来していることである。もともと、2000年度の早い時期に日程を設定した理由は、昨年9月20日の文相「あいさつ」の末尾に、はしなくも記されているように、国家公務員の定員削減問題に「適切に対応」するためであった。

 ところが、文部省は、国立大学の独立行政法人化問題を「大学改革の一環」とする昨年4月の閣議決定に沿い、「大学改革」の問題として描こうとつとめてきた。それは、独立行政法人化問題に対する批判をかわし、問題の所在を曖昧にする手段であった。今回の「説明」も「教育研究の充実を目指す大学改革の一環として考えるべきである」ことが「政府として公式に確認」されていると述べ、同様の立場を取っている。だが、「文部大臣説明」は行財政改革という本音と大学改革の建前とのあいだで種々の自家撞着をおこしている。「5.11自民党提言」に言う、「国の責任による選別淘汰、再編統合・廃止」が背後に透けて見えるのである。

 また、文部省は9月20日の「検討の方向」では、今後、国立大学協会と十分連携協力して検討を進めると約束していた。しかし、今回の「説明」は、実際には国大協を無視したものであり、"国大協なく自民党提言あり"、という性格の文書である。文部大臣の私的懇談会に「調査検討会議」を設け、検討するとして、国大協との連携は一切謳われていないのである。「反対するなら切り捨てる」という姿勢である。

 また、「検討の方向」で「2000年度のできるだけ早い時期までには、特例措置等の具体的方向について結論を得たい」としていたにもかかわらず、その約束はいささかも果たされず、全てのことが「調査検討会議」の検討に流し込まれてしまっている。つまり、文部省の省としての具体的検討はこの八カ月の間、何一つ行われなかったことになる。「検討の方向」における「特例措置」と今回「5.11自民党提言」を受けて登場した「調整法」ないし「特例法」との関係もなんら説明されていない。そもそも「調整法」なり「特例法」の法的枠組、法的位置づけの説明すらない。

 結局のところ、この文部大臣による「説明」は、「5.11自民党提言」を政策化することの宣言である。独法化によって、国立大学の選別淘汰、再編統合、廃止縮小を図り、その運営と組織編成に国家が強い関与を行おうとするものである。論理性に全く欠けるその説明は、戦後の貧困な文部行政の集大成であると言わざるをえない。現在の大学が、その設置形態をこえて抱える問題点、また国立大学がその制度上抱える問題点を、冷静に分析し、その問題点の解決のために独立行政法人制度はいかなる意味を持つのか、を検討することは全く行われていない。はじめに独立行政法人化ありき、というのがこの「文部大臣説明」の貧困きわまりない論理なのである。

 全国各紙の社説においても、「地方大学の切り捨てが心配だ」(南日本新聞) 「自主・自立性を損なうな」(琉球新報)「自主と自律は保てるか」(四国新聞)「自主・自律性が生命線」(北日本新聞)「自主性は確保されたのか」(熊本日日新聞)など、文部大臣の説明によっては解消されない懸念や批判が示されている。「説明」が「自主性、自律性」を強調すればするほど、その虚構性が明らかになるのである。また、自民党提言の問題性も正しく認識されている。つまり、独立行政法人化の由来と本質を認識するならば、「説明」に「評価」すべき点は存在しないのである。

 以下、「説明」の問題点を明示し、合わせて、今後国大協が果たすべき責務について論じることとする。

一、「文部大臣説明」の論理と矛盾

(1)独立行政法人化は国立大学の意義を発展させるものではない

 「説明」は、「2. 我が国の大学制度と国立大学」において、国立大学の意義について説明を試みている。それは、

 (i) 教育面での貢献とともに、学術研究と研究者養成の主力を担ってきたこと。
「先駆的な研究や基礎的な研究、社会的需要は少ないものの重要な学問の継承」に大きな役割を担ってきたこと。

 (ii) 「全国的に均衡のとれた配置」によって、「地域の教育、文化、産業の基盤を支え」てきたこと。地方国立大学が「各地域特有の課題」に応じて貢献してきたこと。

 (iii) 学生が大学教育を受ける機会を確保する上で、大きく貢献してきたこと。

 の三点にまとめられている。これはいずれも、この間大学人が、独立行政法人化は、基礎教育・基礎研究を阻害すること、地方国立大学の切り捨てにつながること、教育の機会均等を失わせること、とその問題点を批判してきたことに対する弁明である。

 もとより、この言明自体は、独立行政法人化を推進する論拠とはなりえない。「説明」は、これら国立大学制度の存在意義を発展させる観点から見て、独立行政法人制度があるべき望ましい方向であるとの論拠を何一つ示していない。「独立行政法人は独立採算制ではない、運営費交付金などの財源措置がなされる」と答えるのみである。だが、「独立行政法人制度は、目標・計画の設定や定期的な業績評価といった仕組みを通じて国の意思を法人運営に反映させうる法人制度」であり、「5.11自民党提言」が強く主張するトップダウンの運営、学部教授会の権限の最小化は、何よりも個々の教員の内発的意思に基づく大学の基礎研究、先駆的研究とは相容れない。「できる限り数値化された中期目標」を大臣が指示し、その「業務の効率的達成度」を計るために、評価委員会による評価を行う、という独立行政法人制度の根幹にある思考は、およそ大学の教育、研究とは原理において相反する。また、「国の責任において再編統合すべき」との主張は、地方国立大学の存立や、大学教育の機会均等の確保とは相容れない。「説明」は、直接には、国の責任による大学の再編統合や、学長選挙、教授会の在り方などには触れず、今後の「調査検討会議」の検討に委ねている。しかし、「独立行政法人制度は、国立大学についても十分適合するもの」との言明は、「自民党提言」を下敷きにした宣言と言うほかないのである。

(2)独立行政法人は設置形態論の必然的帰結ではない

 「説明」は一転して、「3. 国立大学の改革の経緯」で戦後の国立大学の改革の経緯を振り返り、1971年の中教審のいわゆる「四六答申」、1984年以来の臨教審の活動をまとめる。これは問題の出された時代的文脈を一切無視して、「法人化」の議論がすでに繰り返し行われていたことを説明するにすぎない。つまり、新制大学の設置以来の経緯は、ことごとく「法人化」という設置形態に関する議論に矮小化されているのである。しかし、今回の独立行政法人化に関する論議は、今までの設置形態論の延長線上にあるのだろうか。そうではない。

 例えば、71年の中教審「四六答申」では、設置形態に関して二つの方法を挙げた。一つは、「国・公立大学を行政機関の一種とすることに無理があるとの考えに基づいて、一定額の公費の援助を受けて自主的に運営し、それに伴う責任を直接負担する公的な性格を持つ新しい形態の法人」であり、もう一つは、「設置形態は現状のままで、管理組織を変え、学外の有識者を加えた新しい管理機関を設け、設置者である国や自治体から権限の大幅な委任を受けて大学を運営する」とするものであった。しかし、これは全く検討素材として記載されたにとどまった。次いで、十数年後の臨教審で大学の特殊法人化が論議されたが、これも、87年4月の「第3次答申」で、「国立大学に公的な法人格を与え、特殊法人として位置づける可能性について具体的検討を重ねてきたが、国の関与の在り方、管理・運営の制度、教職員の身分、処遇上の扱い、現行の設置形態からの移行の措置など、諸般にわたって理論・実際の両面にわたり考慮すべき事項が多く、その解決のためには、さらに幅広く、本格的な調査研究を必要とするという結論に到達せざるを得なかった。」と、終止符を打つ成り行きとなった。

 仮に、独立行政法人化がこれらの論議の延長上に論じられてきたのであれば、先行する中教審や臨教審の検討を跡付け、それが行詰った点を乗り越える論議を提出し、大学側に投げ掛ける作業が必要であった。言うまでもなく、そのようなことはいささかもなされたことはない。「説明」が描こうとする「設置形態論の必然的帰結としての独立行政法人制度」なる論拠はどこにもないのである。そもそも、政府の大学政策に関する審議会たる大学審議会は、98年10月の答申で、「独立行政法人化をはじめとする国立大学の設置形態の在り方については、・・・今後さらに長期的な視野に立って検討することが適当である」と述べたまま、その後長い沈黙を守っている。この問題が大学政策として何一つ検討されていないことの証左である。

(3)行政改革会議「最終報告」が独法化を提起した

 ところが、「説明」は、にわかに、「今回、大学改革の方策として、また、行政改革に資するものとして、国立大学の独立行政法人化の問題が提起されたところであります」と述べる。そして、「今こそ、国立大学にふさわしい形での法人化の可能性について、真剣に検討する時期にある、と受け止めるべきではないでしょうか」と呼びかける。この問題を提起したのは誰か、どの機関かを「説明」は一切語らない。無論、これが提起されたのは、97年12月の行政改革会議「最終報告」においてである。ただし、この「最終報告」でさえ、「独立行政法人化は、大学改革方策の一つの選択肢となり得る可能性を有しているが、・・・長期的な視野に立って検討を行うべきである」と極めて慎重な態度であった。これを一刻の猶予もないかのような切迫した問題に仕立て上げたのが、言うまでもなく、25%定員削減実施のための数合わせという政治的圧力であった。

 ところで、「説明」は、この提起を引き起こすに至った要因を、「臨時教育審議会および大学審議会による改革路線は、現行設置形態の枠組みの中での改革として、多くの成果を納めてまいりましたが、10年以上にわたる行財政的諸規制の緩和のための取り組みは、現行設置形態に由来するところの改革の限界点をも、徐々に明らかにしております」と述べ、「臨教審の規制緩和路線の限界点」が、独法化を要求するに至った要因であると描く。「説明」が「3. 国立大学の改革の経緯」で展開した、戦後の国立大学の改革の経緯は、(i)1949年からの新制大学における1県1大学方針の下での一元化、(ii)1950年代中葉から1970年代の高度経済成長期の理工系を中心とする拡充整備、(iii)1970年代中葉以降の低成長と臨調行革による新増設の抑制、受益者負担の強化、(iv)1980年代中期からの臨教審の規制緩和路線とその限界の露呈、という形で括ることができる。第4期には、かつてないほどの国家財政の危機の深刻化があったことを忘れてはならない。そして、この臨教審の規制緩和路線の限界点を突破するものとして、行政改革会議「最終答申」における国立大学の独立行政法人化政策が提起されたということになる。国の機関の一層の減量、財政的負担の一層の軽減が必要だという基本認識である。つまり、「説明」は戦後大学制度の歴史を総括して、「一層の減量を」と叫んでいる。紛れもなく、独立行政法人化は高等教育政策ではなく、行財政政策であり、大学の量的縮小そのもの、独立行政法人制度の第一の目的である「垂直的減量」そのもの、ということになる。この「説明」は、独立行政法人化の本質を自ら露呈しているのである。

(4)大学をミッション遂行のための行政機関として描く虚構

 「説明」はさらに、「4. 国立大学の新たな改革の可能性」において、戦後の大学改革は「現行設置形態に由来するところの改革の限界点」をもっていたとし、予算、給与、服務、組織編成における種々の制限をあげる。もとより、これらの規制は広義の国家組織であることに附随する特質である。だが、それを大学の機能に適合し、かつまた、財政民主主義など、国民による国家組織のコントロールの原則にかなった形に修正することは可能である。この点で、担当官庁である文部省がこれまでどのように努力したと言えるのか。すでに「臨教審第3次答申」は、「大学の設置形態」に関する箇所で、「文部省は瑣末にわたる直接行政的関与を改める」と記していた。例えば、概算要求を通じた「行政指導」の問題点に関して何らの自己批判も行わないのは理解しがたい。

 何よりも、「説明」は、大学を通常の行政機関と何ら変わらないものとして描いているが、大学は法的にも実体的にもそうではない。憲法23条の「学問の自由」の保障に根拠をおく、「自治組織」として大学は存在している。そのために、教育公務員特例法や国立学校特別会計制度など、通常の行政機関とは異なる様々なシステムが組み込まれている。「文部大臣の広範な指揮監督権の下に置かれる」ことを制限する装置が存在し、それが大学の本来の機能を発揮させる支えの一部をなしている。これらを無視した「説明」の言辞は、虚構と言うほかない。

 また、国立大学が規制緩和を進めても「文部大臣の広範な指揮監督権の下に置かれる」として、「国立大学にふさわしい形での法人化」の必要性の論拠とするのは、論理のすり替え、と言うよりは、盗っ人猛々しいと言うべきである。従来の文部行政が物的条件の整備という法に定められた本来の役割をこえて、内容にわたる広範な規制を行ってきたこと、そのことによって、大学の自主性、自立性、自己責任を侵害し、弱めてきたこと、このことこそを反省し、即刻改めるべきである。

 さらに、「給与や服務など人事面の諸規制は、公正、中立を旨とする公務員制度の性格上、現行のままでは規制緩和が非常に困難な領域」などとしているが、教育公務員特例法の主旨を認識し、大学の教育研究が最もよく行われるための環境、諸措置を具体的な形で提出し、それらと公的機関としての公正性の確保との関係を論ずべきである。これを一般的な公務員制度と同一化して語るべきではない。

 文部省が「現行設置形態」を批判する最大の理由は、むしろ国立大学の設置形態が、経済界の求めるミッション的研究を推進するためには阻害要因となっていることを示したい、というものではなかろうか。人事の流動化、プロジェクト的研究の重視、新産業創出のための学問研究分野の再編、これらを可能ならしめる「設置形態」が文部省の求める方向なのである。

 「説明」が言う「規制緩和」とは、結局のところ、文部省が上から設定する行政機関としてのミッションに大学を誘導するためのフレーズに過ぎないのである。大学をこのようなものに変えることを、大学はけっして望んではいない。

(5)虚構を糊塗する「自主性、自律性、自己責任」

 「説明」は一貫して「自主性、自律性、自己責任」という題目を唱えつづける(この短い「説明」で実に14回にわたって自主性という言葉が使われている)。

 このことは、独立行政法人化の論拠の最も弱い環が「自主性、自律性」であることを示すものである。「大学の自治」「学問の自由」を阻害する独立行政法人というシステムそのものの問題性を認識しつつ、しかしそのシステムを強制するための文部省の詭弁的言辞の乱発なのである。そもそも、独立行政法人化が「自主性、自律性」をいかなる意味で強化するのかという挙証責任は、文部省が負わねばならない。しかし、その説明は空疎で、実体のない言葉が飛散するのみである。「5.11自民党提言」は、独立行政法人制度を大学に適用することを「適切」としているが、この提言が意図する如く、主務大臣の指示する中期目標・中期計画と評価システムによる効率化の達成、主務大臣による長の任免など、強く主務官庁に隷属する行政機関が目指されていることを隠しおおせることはできない。

(6)独立行政法人制度の歪曲と破綻

 「説明」は「5. 独立行政法人制度の目的と国立大学」で、法人化一般の問題と独立行政法人化を等置しようと試みる。しかし、すでにそこにおいて矛盾に逢着する。

 第一に、独立行政法人は独立採算ではなく、運営費交付金等の財源措置がなされるから安心だ、と説明する。しかし、それは独立行政法人制度の主たる目的を歪曲している。独立行政法人化は減量化を主目的としており、当然にも、「企業会計原則」を通じた事業体自体の効率化や、改廃、再編統合、「財政負担の軽減」を目指している。このことを隠し、「独立採算」ではないことだけを強調するのは、虚構であり、制度の歪曲である。すでに、積算校費システムの改変等の例を見ても、基盤的経費が圧縮され、競争的資金やオーバーヘッド制度の導入によって、大学ごと、大学間の競争が促進されることは疑いえない。また、独立行政法人化は、大学自体を民営化や地方公共団体への移管に導くための推進装置の役割を果たすことが求められているのである。

 第二に、独立行政法人制度の本質を「アウトソーシング」と表記し、教育研究の行政からの分離と説明している。しかし、「アウトソーシング」とは「垂直的減量」のことである。国立大学の教育研究は、そもそも最初から国の行政機関の事務ではなく、大学という形で行政機関から一定分離して存在してきたのであり、「アウトソーシング」の対象ではない。この「垂直的減量」を企画立案機能と実施機能の分離として行い、実施機能を行政機関本体から分離して独立行政法人とするのが、制度設計の基本であった。したがって、「アウトソーシング」とは、大学を、実施機能のみで、本省の指示を受けて活動する機関とするものである。これは、大学の本質に全く反する。「説明」はこの矛盾に窮して、「大学人自身による企画立案」が尊重されると説明する。しかし、独立行政法人制度とは、大量反復的で定型的な業務を果たす実施機能部門を設定することにこそ特質がある。「手足」である実施機能が企画立案を行うというのは制度の設計趣旨と矛盾する。そうであれば、独立行政法人制度を国立大学に適用しないというのが論理的帰結である。「説明」はここで、「一定の調整」が不可欠と語るが、それは制度の設計趣旨と自らの説明が整合しないからである。このために通則法との関係を曖昧にしたまま、「調整法」や「特例法」が登場するわけである。

 第三に、業務の効率性についての説明においては、「市場原理」ではない、ということに力点を置こうとする。であるならば、独立行政法人通則法に存在する「企業会計原則」との関係を説明すべきであるが、「説明」にはこの言葉は一切出てこない。しかし、「説明」が「市場原理」にかえて強調する「評価システムを踏まえた資源配分」とは、言うまでもなく「競争原理」の作動システムである。すでに存在する格差を温存したまま、「数値化された中期目標」を基準として評価が行われ、これを基礎に資源配分と選別淘汰が行われれば、基礎研究や先駆的研究、地方大学の存立自体が危ぶまれるのは理の当然であろう。

(7)挙証責任の回避

 以上の文部省の説明は、独立行政法人化問題に対する批判にたじろぎ、その論拠を再構成せざるをえない「苦しさ」も示している。そもそも、文部省自体の説明によって導きだされる論理的帰結は、独立行政法人制度は本来別の目的のために案出された制度であるため、大学には不適合なシステムであるということである。

 ところが「説明」は「6. 国立大学の独立行政法人化についての考え方と今後の方針」で「独立行政法人制度は、この制度の目的や、冒頭に触れましたような国立大学の特性や、役割、機能に照らして、国立大学についても十分適合するものであると考えております」とする。「十分適合する」ことの証明は一体どこにあるのだろうか。これは独立行政法人という制度の趣旨を意識的に歪曲したものと見なければならない。

 また、具体的な制度設計についても「説明」はまったくその方向を示していない。昨年9月20日の「検討の方向」から八カ月のあいだ、文部省は一体何を検討していたのか、と問わざるをえない。この「説明」は、「個性化」の名のもとの大学の種別化、格差化、や「調整法」への言及など、「再編統合」「選別と淘汰」、人事への介入と「大学自治」への敵意をうたった5月11日の自民党政務調査会の「提言」を当然の前提としながら、それを若干の「甘言」によって飲み込ませようとするものである。

(8)沈黙と虚構の露呈

 第一に、「公的投資の拡充」の具体的な方途については、相変わらず沈黙を守っている。高等教育費の財源はどうするのか。国公私の設置形態の違いをこえた高等教育費の拡充の方途は何か。現在の国立学校特別会計はどうするのか。これらの問いに対し、「説明」は一切答えていない。具体的な方針もなく「公的投資の拡充」について語るのは、自民党提言と同じく、まったくのリップサービスにすぎない、と言わざるをえない。

 第二に、「国立大学法人法」についての説明の問題がある。高等教育局長は文部大臣の「説明」の後に、ある学長の質問に対して、(1)公務員型が可能かどうか、(2)予算措置が可能かどうか、(3)私立大学との関係はどうか、という三点を考えれば、国立大学法人法の可能性は薄い、と述べたと伝えられる。これは、これまでに文部省が「国立大学法人法」に消極的な理由として提示している内容と同じである。そもそも、「国立大学法人法」は、独立行政法人制度が大学に不適合であるとの判断から、大学の自治を保障する制度として、さまざまな形で提起されているものである。すでに提唱されている「独立学術法人」「学術公法人」などの法人制度は、その点に配慮したものである。文部省は、それらの問題提起の本質に答えることなく、事柄を単なる「身分」や「予算措置」の問題に矮小化しようとしている。この説明は、そもそも文部省はあるべき法人制度を最初から検討しようとは考えておらず、独立行政法人制度を唯一の制度として強制する意図しか持たないことを示している。通則法の下での名称としての「国立大学法人」が、単なる言葉遊びにすぎないことはもはや明らかであろう。

二、国大協総会の歴史的意義

 6月13、14の両日、国立大学協会の定例総会が開催される。これは、5月26日の「文部大臣説明」に対し、国大協がいかなる態度を取るかが問われる重大な総会である。早くも、国大協内には文部省の「説明」を「最後通告」と受け取り、これに追随することを甘受する意見もあると聞く。しかし、上で検討したように、「説明」には、これまで大学人が表明してきた疑問に対する回答は一切存在しない。

 これまで国大協は、独立行政法人化に対して明確な態度を示したことがある。1997年10月21日の決議を再掲しておこう。


国立大学の独立行政法人(エージェンシー)化について

 国立大学協会は、本日常務理事会を開催し、行革会議などで論議されようとしている、東大、京大を独立行政法人化する案、あるいは全国立大学を独立行政法人化する案について討議した。その結果、定型化された業務について効率性を短期的に評価する独立行政法人は、現在、多様な教育・研究を行っている大学に全く相応しくないもので、反対することを決議した。

 大学及び大学院の教育・研究は21世紀のわが国の命運を決すると言ってもよい重要課題であり、従って、わが国の教育・研究レベルの一層の向上が急がれている。このことは平成8年に策定された科学技術基本計画を実現するためにも不可欠である。高等教育の改革は、単なる財政改革の視点ではなく、今後のわが国の大学及び大学院における教育・研究の将来構想を策定する中で決めるべきものであると考える。

平成9年10月21日
国立大学協会


 国大協は、総会において独立行政法人化に関して議論を行う場合、この決議をどう考えるのか、真先に明らかにすべきであろう。

 昨年来の国大協執行部の対応は、今日に至って、文部省が国大協の意向を問わずに頭ごなしに独立行政法人化の方針を正式に提示する、という事態を招いた。その要因を分析し、責任の所在を明示し、国大協のあるべき対応を探るのが総会の目的でなければならない。これまでの国大協執行部の対応を振り返ってみよう。

 第一に、1999年9月7日の国大協第一常置委員会の中間報告について、われわれはすでに「99.9.7国大協第1常置委員会「中間報告」批判」(9月13日独行法反対首都圏ネットワーク事務局)を発表し、その問題点を指摘するとともに、第一常置委員会に差し戻して論議を深めることを求めた。しかし、国大協第一常置委員会はその中間報告を最終報告に高めることをしていない。しかも、今なおこれは国大協としての中間報告にさえなっていない。

 第二に、国大協は11月17、18日の総会においても独立行政法人化問題に関する態度を明らかにせず、結論を先送りするとともに、蓮実会長の談話を発表したにとどまった。その談話では「『検討の方向』に対しての意見の表明をさしあたり避けている」理由を、独立行政法人化が「実現されるべき高等教育の改革にとって必ずしも有効な手段とはなりがたいと考えるからだ」としていた。では、その「意見の表明」はいつ行われただろうか。また、同じ談話の中で蓮実会長は、「設計図としての通則法の問題点が誰の目にも明らかにになった以上、事態は、賛成反対をとなえる以前の段階にとどまっている」と述べた。だが、今なお「賛成反対をとなえる以前の段階」にとどまったままである。いつ反対を唱えるのか。

 第三に、国大協第一常置委員会は、11月末に12月2日までのわずか一週間のあいだに、各国立大学長宛に「国立大学の独立行政法人化が行われる事態となった場合、大学の特性からどうしても譲歩できない点を二点程に絞り提出願いたい」旨の依頼文書を送った。しかし、その結果は単に列挙するかたちでまとめられたにすぎず、アンケート結果は棚ざらしとなったままであった。

 第四に、その後、中間報告を踏まえて検討を深めるべき第一常置委員会は、独立行政法人制度に関する徹底した批判を行うことはせずに、3月以降単に財政問題に限って検討を進めている。そればかりか、この検討結果さえ、いまだ出ていない。

 第五に、国大協は理事会の「まとめ」(3月8日)において、「設置形態の黒白を争う議論は、政治状勢の動きを考えると、現時点では適切ではない」として、議論を行わないことを決定した。他方、会長・副会長等は3月16日に小渕前首相と会談するなど、「政治状勢」に関与する姿勢を見せ、「国立大学法人法」の制定が可能であるかのごとく説明した。

 第六に、国大協執行部は、2月から3月にかけて、自民党麻生委員会の活動について、あたかも通則法は適用されず、それとは異なる「国立大学法人法」の実現可能性が出てきたかのような幻想をふりまいた。

 ところが、3月23日、3月30日、5月9日、5月11日と続いた自民党提言がどのような帰結を招いたかは今では明らかである。(われわれはこれら提言の問題点について、「政治の貧困・政策の不在」(3月27日)、「自民党提言の虚像と実像」(5月18日)の二つの文書で詳細な批判を加えておいた。)

 現在においてもなお、国大協は沈黙を守るのみである。それは、国大協執行部が独立行政法人という制度に対する徹底した批判を行わず、明確な方針を持たないことの反映である。

 また、この間、地方国立大学は、(1)国土の均衡ある発展を計るためには、地方の国立大学の役割の維持強化が必要であること、(2)各地方の独特な歴史・文化・経済・産業等と結びついたユニークな教育・研究の発展が必要であること、(3)戦後50年培ってきた地域社会との提携やそれへの貢献を、法人化の結果大学同士が悪しき競争原理に翻弄されることによって、後退させるべきではないこと、などを繰り返し訴えてきた(5月21日「国立大学の法人化に対する意見表明」など)。しかし、こうした地方国立大学の見地についても、国大協はまだ真摯でかつ徹底した議論を十分行ってはいない。これは、批判的な理性、批判的な知性を代表すべき国大協の存在意義が問われる事態であると言わねばならない。そして今、5月26日の「文部大臣説明」への対応がまさに問われているのである。

 われわれはまず、国大協に対し、6月総会において次の諸点を明確化することを求めたい。

 第一に、「文部大臣説明」を拒否し、1997年10月決議の独法化反対の意思を再度確認すること
 「文部大臣説明」は、従来国大協が批判してきた独立行政法人化の問題点をなんら解消するものではなく、また、これも国大協が批判してきた「通則法の枠内での法人化」にすぎないことは明らかである。国大協の見地を再確認する意味でも、97年決議に沿った見解表明が必要である。

 第二に、1999年9月以来の経緯について、その評価を明らかにし、国大協の取るべき基本的見地を表明すること
 国大協執行部がこれまで取ってきた弥縫策が、大学人に多くの疑念を生じさせ、統一した対応をとることを困難にしてきた。国大協が高等教育の未来を担う組織であるならば、従来の対応への反省の上に立って、今後を展望することが必要である。その際、国大協は、全国理学部長会議 (1999年11月9日)、国立一七大学人文系学部長会議(2000年3月13日)、国立大学農学系学部長会議(2000年6月2日)、各大学・学部教授会の声明など、数多くの声明に依拠することが可能である。

 第三に、文部省の「調査検討会議」には参加しないこと
 国大協が、独立行政法人化問題に関する原則的立場を明らかにしないままに、文部省傘下の「調査検討会議」に協力することは、これまでの自らの立場の放棄を意味する。国大協としての主体的判断を明確にせず、文部省の路線に追随するならば、それは国大協が自らの死を宣告することに等しい。また、個別大学が一本釣りで「調査検討会議」に協力することは、大学間の連帯を阻害し、生存競争論への一層の傾斜をもたらすであろう。

 第四に、独立行政法人化問題を専門に扱う特別委員会を設置するなど、国大協内部での検討作業を独自に進め、そのさい設置形態の当否について明確な分析を明らかにすること

 独立行政法人化問題を検討するためには、まず現在国立大学が置かれている状況の真摯な分析が必要である。すでに国立学校財務センターの設置形態に関する国際比較分析、東京大学の経営に関する懇談会の報告、同設置形態に関する検討会報告、科学技術基本計画による17兆円投資の実態分析(日本経済新聞連載)など、数多くの素材がある。国大協が総力をあげて分析を行うならば、ありうべき高等教育の姿を自ら描くことは可能であろう。また、1970年の「国立大学協会のあり方について」は、「一般教官に教員委員・専門委員を委嘱してその専門的な意見を活用する」ことは、「今後さらに拡大すべきだと考えられる」と述べている。国大協は、問題の検討にあたって、ひろく教員の叡知を結集するためのイニシアティヴを取るべきである。

 6月国大協総会は、国立大学が真に「自主性、自律性」を有するか否かの決定的な試金石となる総会である。1970年の国大協総会で承認された「国立大学協会のあり方について」は、国大協の性格を「自主性をもった各国立大学の連合体(federation)というべきもの」と述べている。また「国立大学全体としての自治」についても語られている。生存競争の論理に陥り、「選別と淘汰」を自ら行う愚をおかすのではなく、高等教育全体の発展の見地から国大協の対応を内外に示すことが、国大協という組織そのものの歴史的責務なのである。

 国大協は、政治の介入に振り回されるのではなく、大学の未来そのものが社会の未来に責任を負うものであることを認識しなければならない。大学改革の課題は、いまだその緒についたばかりである。文部大臣の「説明」なるものは、そのはじめから破綻したものであり、高等教育の本質に関わる議論は、いまだまったく行われていない。

 国立大学の独立行政法人化は、大学における教育・研究を産業競争力の強化という国家の経済戦略の単なる道具に変えてしまうことに他ならない。大学をナショナル・ミッションの尖兵に再編成しようとするこのような試みを、許すことがあってはならない。

 次世代に対し、また21世紀の社会に対し、ありうべき高等教育を継承していくことこそが大学人の責任であり、義務である。国大協はこの公共的・歴史的任務を果たさなければならない。われわれもまたこの作業に積極的に関与することを表明するものである。


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