独行法反対首都圏ネットワーク

心理学的ワクチンの必要性/豊島耕一(佐賀大学理工学部)
(2000.6.2 [he-forum 972] 心理学的ワクチンの必要性)

佐賀大学の豊島です.[reform02863]のわずかな改訂です.

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心理学的ワクチンの必要性ver. 1.1

佐賀大学理工学部 豊島耕一

「本決まり」という言葉のウイルス

 行政法人化問題での新聞記事の冒頭に「本決まり」,「事実上の決定通知」などの言葉が並ぶようになると,それらが持つアナウンス効果が大きな作用をし始める.まさに「言語は単に客観的事実を記述する手段ではなく,むしろ事実を構成する」 (注1) のである.今様にいえば,これらのシグナルは脳というシステムにメールで送られるウイルスの役割をするに違いない.日本人の脳の多くは未だに儒教OSで動いているので,この種のものには非常に感染しやすいのである.感染するとまず失語症と思考停止を引き起こす.
 ところで,国会に法案の提出もされていないどころか,法案の姿形さえも見えない時点で「本決まり」などという言葉を使うこと自体が問題だ.これは物事は官僚によって決まるものだという旧態依然たる世界観の反映であり,ジャーナリズムの質の低さを露呈するものとなっている.
 今回の自民党の「提言」や問題全般についての内容的な批判は「首都圏ネット」などによって詳細にしかも的確に行われているので,ここでは内容に触れるのはわずかに留め,今後の大学関係者の反応を予測してあらかじめ批判を加えるということをしてみよう.やや風変わりかも知れないが,心理学的ワクチン製造の試みである.

90%は心理ゲーム

 そもそもこの「闘争」はどのような種類のものかということを理解することが重要だ.「生き残り論」などで深刻さを演出するのが好きな人もいるようだが(もちろん内容そのものは憲法に関わるという意味で深刻だ),実際のところ90%以上これは心理ゲームなのだ.火器が使われるわけではない.また教育職員は法律でその身分が保障されているので (注2) ,これにより言論の自由は完全に保障されている.非常に「恵まれた」闘いである.そのメリットを最大限に生かすことをしないならば,これらの権利と陣地の獲得のために闘った人々への裏切りとなろう.いうまでもなくこのゲームにおける最大の武器は「言葉」である.
 このような心理ゲーム以上に「非線形」な性質を持つプロセスは他にはないだろう.もし我が国が本当に民主社会であるのならば,このゲームの「プレイヤー」は膨大な数になり,まさに「多体問題」でもある.にもかかわらずこの種のことがらを決定論的な言葉で論じる人が見られるが,だとすれば統計力学が適用可能だということを証明しなければならないだろう.しかしそれほどには「粒子」の数は多くないと思われる.
 このようなプロセスでは,極論すれば「可能性を信じることで可能性が生じる」のである.このようなわれわれの存在様式に関する「非線形理論」は決して精神主義などではない.社会を構成する個人としての生き方の基本問題であり,そのモラールの,つまり道徳と意欲という言葉の意味そのものである.

感染源と伝染経路

 ウイルスはメディアから伝染するだけではない.中央官僚との接触頻度の多い大学上層部の間で悲観論(間もなく現実主義的という形容詞で説明されるだろう)が広まるのはある程度やむを得ない.人間は接触する頻度の多い人から最も多くの影響を受けるからだ.問題はそうでない一般の教職員までが彼らから伝染性のマインドコントロールを受けやすいということだ.なぜなら大学関係者といえども未だに「個の独立」とは対極の「忠臣蔵」の世界に属していると見られるふしがあるからだ(注3).このようないわばメンタルな殉死は戦力を大きく減耗させる.しかしこのような感染は,そのことを前もって自覚するだけで十分予防できるはずだ.

症状1 焦点ぼかし

 具体的な感染の症状を予測してみよう.(すでに顕れているかもしれない.)
 「行政法人化問題よりも具体的で差し迫った大学改革の課題に取り組む方が重要だ」というような言い方が想定される.この二つの課題を比較あるいは対立させるような表現は,あたかも大学改革(ほんとうの)と前者が関係がない,つまり少なくとも邪魔にはならないという立場を表明していることになり,行政法人化それ自体が大学改革の重大な阻害要因であるということを見ないものだ.言い換えれば「学問の自由」の概念を包括的にとらえておらず,部分的にしかにみていないのである.
 行政法人化が100パーセント,あらゆる面で学問の自由を阻害するわけではもちろんない.しかし権力の意向と衝突するかも知れない部分では影響を免れないだろう.これを「部分的問題」と見なすかそれとも学問の自由の根幹に関わると捉えるかという,まさに大学関係者の見識が問われているのである.
 また同時に,日常的で具体的な局面でも官僚支配の弊害が生じることは十分予想される.これは高校とそれ以前の教育の実態を見れば明らかだろう.そこでは本来あるべき「教育自治」とはまさに対極の,文部省-教委-校長のラインによる一元的な官僚支配が確立してしまっているのである.学校への父母や教職員の自由で自発的な関与が排除されていることが,どれほど学校運営を硬直化させていることだろう.このことはPTAなどに役員として参加したことのある人なら十分実感したに違いない.
 さらに上の言い方には,行政法人化への頑固な反対者を,あたかも「具体的」課題を無視しているかのように描くようなニュアンスが付け加えられることも予想されるので注意が必要だ.「具体的で差し迫った大学改革の課題に取り組む」ことが重要なのは言うまでもないことだ.(大学改革の課題にについては3年ほど前の私の文章 (注4) を参照頂ければありがたい.)いずれにせよ,このような言い方・態度は,緊急の重要課題から逃避し,目をそらさせる効果を持つ.

症状2 生き残り論

 形勢不利でも原則を崩さない態度に「玉砕」などという見当違いのレッテルを貼る人が出てくることも予想される.しかもそれがしばしば「進歩的」と思われるような人の口から出たりするのでより害悪が大きい.一体ぜんたい頑固な反対者は皆殺しになるのだろうか?このような言葉を使うこと自体,見当違いを通り越して心理戦の敵側に回ることを意味するのではないだろうか.なぜなら,自由な言論が認められるはずの社会で,「ためにならないよ」という脅しをかけることになるからだ.
 「行政法人化されたケースを想定しての対策を考えておくべきだ」という言い方もされるようになるだろう.もちろんそれも悪くはないし必要かもしれない.しかしその場合も,原則的な問題,つまり「行政法人化」が憲法に抵触するものであるというメッセージ・情報を最後まで国民に発信し続けなければならない.これをせずに,あるいはこの「代わりに」,想定問題のみにかかずらうとすれば,その人は結局この問題から逃げていることが証明される.

症状3 自虐

 「大勢」(本当は反対論が大勢のはずだが)に抵抗することの辛さから,そして教授連は学部長に,学部長は学長にと,それぞれの上位者に迎合したいという誘惑から,反対論から逃れるための次のような口実を見つけようとする人もいるだろう.多くの指摘を待つまでもなく大学はシステムとしてもいろいろな問題を抱えており,教職員はそのシステムで仕事をする中で,多かれ少なかれ不本意な事にもコミットせざるを得ない.大げさに言えば「オフィスの犯罪」から全く無縁というのは難しい.そのような罪の意識は,大小は別として少なくない人が持つと思われるが,そのことと今回の問題とを結びつけ
て,いわば「贖罪としての行政法人化受け入れ」とでもいうべき自虐的態度が生じるかのではないかと思われる.これは何でもいいからとにかく変えればいいというデタラメな態度だ.もちろん贖罪ではなく,反対に罪を重ねることに他ならない.

「体育会系」の出番か

 このような「形勢不利」な情勢の時こそ「体育会系」の出番なのかもしれない.競技スポーツにおいて,たとえ形勢が不利になってもテンションを緩めずに最後まで戦うということは,スポーツの文化においては重要な徳目の一つである.もちろんこれは競技のためだけでなく,むしろ実生活における教訓として理解されている.スポーツマン/ウーマンはこの精神的な強さを持っているはずで,その役割が期待される.(私自身は体育会系ではない.)

無関心の問題

 最後に無関心の問題を考察しよう.初めからずっと無関心なのは単なる「専門バカ」であるが,「中途無関心」はやはり逃避の一つのパターンであろう.いずれも責任ある態度ではない.このようなことがかつて罪に問われたことがある.
 ナチス中佐アドルフ・アイヒマンはユダヤ人の「移送」のためのデスクワークに従事しただけだが,その意味について「何も考えなかった」ことが死に値するとされた.この裁判について最近映画が作られて注目を集めている (注5) .この一件が問いかけるものは組織における個人の責任という普遍的なものである.命令への服従さえ個人を免責しない.行政法人化問題について「何も考えなかった」,あるいは教授会で何も発言しなかったとしても死刑になる心配はないが,道義的な意味で無罪ともいえないだろう.アイヒマンに比べれば小さいかも知れないがこれもやはりわれわれ自身の「オフィスの犯罪」である.
 それだけでなく,もう少しナチス中佐の一件との類似性を指摘できるかもしれない.たしかにわれわれの仕事は戦争や殺りくには関わってはいないし,学術会議の決議によって軍事研究は禁止されている.しかしもし行政法人化が実行され,それが大学の自由・自治の消滅を意味することになるならば,そのことは社会そのものを危険にさらし,ひいては国家を戦争から遠ざけておくことを難しくするだろう.さらに言えば軍事研究さえ「活性化」の一つとされるようになるかもしれない.まさしくアメリカ並みに.このような推論はこれら二つの件の間に深い類似性を見つけたことになるのか,それとも単なるこじつけに過ぎないのだろうか.

学長・学部長は議論の「リーダーシップ」を

 最後に,感染の「宿主」になるかもしれないと皮肉ってしまった学部長や学長クラスの人たちに,失礼を詫びつつ是非ある言葉を思い出して頂くことをお願いしたい.それは近代国家の出発点,明治維新の際の「五箇条のご誓文」の冒頭の「万機公論に決すべし」という一項である.
 学長・学部長会議や国大協で反対論が少数派になった場合,「多勢に無勢」とばかりに旗を巻いてしまうことは,談合,すなわち「公論」ならぬ「私論」で物事を決することであり,「ご誓文」に表明された明治の原点からさえも後退してしまう事を意味する.「戦後民主主義」からの後退どころではない,この一世紀を越えるアナクロニズムに是非気付いて欲しいのだ.「最後の審判」の日,すなわち実際に法案が国会を通過してしまうまでは「公論」が沸騰する状態を維持すべきだであり,そのためには反対論を主張し続けなければならないのである.
(2000年6月2日)



(注1) グレン・D・フック,「軍事化から非軍事化へ」,p.29,お茶の水書房,1986年

(注2) 法律でその身分が保障されていると言ったが,もちろん組織そのものが廃止されるときには(国鉄の場合のように)職を失うということもあるかも知れない.しかしだからといって,それを「用心」しすぎることは,脅しにあらかじめ屈服すること,身分保障の権利までも質に入れてしまうことであり,その獲得のために闘った人々への限りない裏切りであろう.のみならず,もしそこまで「用心」するとすれば,それは用心ではなく「羊」以下の存在になるということかもしれない.

(注3) 「欧米」の映画や芸術と対照的に,我が国のそれに個人の独立や勇気を取り上げたものが極めて少ないことが背景にある.忠臣蔵や家康ばかりが繰り返し放映され,一揆などを素材にしたものは皆無に等しい.そのため忠臣蔵的心性や従順さを「国民性」と信じ込まされるまでになっている.一揆という言葉を聞いただけで「アブナイ」,「過激」と感じる人も多いのではないだろうか.

(注4) 「大学問題の所在と改善策」
http://pegasus.phys.saga-u.ac.jp/UniversityIssues/r604-605.html

(注5) 映画「スペシャリスト」.残念ながら地方都市では公開されていないが,映画のスクリプトを含む次の本が出版されている.
「不服従を讃えて」,ブローマン&シヴァン,2000年1月,産業図書.また,この本の的確な書評が意外な雑誌,「原子力eye」の5月号に掲載されている.これは原子力推進の立場の業界誌である.書評は「本書はナチス戦犯アイヒマンの裁判記録を元に,現代社会における個人の責任と市民的不服従の意義を問う」と結んでいる.



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