独行法反対首都圏ネットワーク

教育に関する提案/阿部謹也(共立女子大学学長)
(2000.6.1 [he-forum 965] 教育改革国民会議)

教育改革国民会議への有識者意見より

 http://www2.kantei.go.jp/jp/kyouiku/dai4/siryou7/iken1.html

阿 部 謹 也
(共立女子大学学長)

教育に関する提案

 現在わが国は未曾有の困難な状況のもとに置かれている。それは経済や財政等の問題だけでなく、教育、福祉その他の重要な分野にも及んでいる。何よりも憂慮されるのは子どもたちが将来に期待をもてなくなっていることである。最近報道されている青少年の世代による残虐な犯罪行為はそのような青少年の不安な状態の反映であり、国全体に責任がある。何故なら、最近の政治家たちや財界人たちの言動を見ると経済面で将来への展望を欠いているだけでなく、教育についての発言もそれが著しいといわねばならないからである。

 中教審においてはかつて個性の尊重が唱われていた。しかし小中学校や高等学校では教師は生徒のスカートの丈を計るために生徒を追いかけ回している状態である。個性はまず服装に現れるものであるのにその自由さえ与えられていない現状の中で個性を尊重するという提言はそらぞらしく響く。また個性は自ら戦いとるものであるのに、政府が与えるという態度は傲慢の謗りを免れないだろう。

 高等教育に関して政府は国立大学の独立行政法人化を進めようとしている。通則法を見る限りで研究と教育の自由は認められず、高等教育は壊滅の危機にさらされいるという観を否めない。文部省の目指している特例法も何処まで実現するのか定かでない面が多い。独立行政法人化を目指す政府の目的は財政にあり、国民にとって必要な将来の学術のあり方が考慮されているとは思えない。もし独立行政法人が公務員削減のための手段でしかないという点を否定するのであれば、そして高等教育にふさわしい新たな提案であるとするならば、何故私立大学に独立行政法人化が提案されていないのかが問われるであろう。

 このように現在政府が行おうとしている教育に関する提案には理想の欠如、教育の将来構想の欠如といった致命的な欠陥がある。そのような政府に新たな教育改革の提案をするのは気が重いことではあるが、以下に私の改革案を示しておきたい。

 大学院重点化していない各国立大学を生涯学習を中心とした組織に編成替えすることである。現在の学部の定員はそのままにして教養教育と専門科目を中高年の人々に開いてゆく構想である。21世紀に必要なのは国民のための学問である。教養のある国民が次の時代をリードすることになるだろう。現在の学問の先端部分は世界にあり、グローバルスタンダードとも言われるその部分は大学院重点化大学で行われ、国民教育の場としてそれ以外の大学を組織替えしてゆく方策である。現在各県に国立大学が置かれている。それらは皆東大を範としてこれまで研究・教育を行ってきた。その結果各県にミニチュアの東大が生まれただけで、その実状は必ずしも思いどおりとは行かない。21世紀は地方の時代としてとらえなければならない。各地域における地場産業と教育、各地域に置いて必要な生活向上の運動等の諸問題を各国立大学が中心となって行わなければならないであろう。地方政治の改革もその中で行われることになるだろう。

 これまですべての国立大学で欧米の諸学問を範として研究・教育が行われてきた。現在膨大な資金が投入されている自然科学部門でもその成果は必ずしも国民に還元され得るものとは限らない。国民には全く知られない状態の中で膨大な資金が自然科学の名において投じられているのである。それらのプロジェクトのすべてについて国民に知らしめ、それが果たして国民のための研究であるか否かを問うべきである。その評価は新たに編成替えした各地域の生涯教育を担う国立大学が行うべきである。その関連において生涯学習を行う各国立大学においてはすべての学問を国民のための学問として編成替えを進めてゆく必要がある。たとえば「民主主義とは何か」という講義があるとして、教師は学生と共にフィリピンに行き、何故投票の開票に時間がかかるのかを調べ、次いでタイに行き、文字が読めない人が多いここでどのようにして民主主義が守られているのかを調べる。そして出来れば西欧やアメリカの現地をも調べてわが国の選挙の実態を調査するのである。その際にトックビルの「統治政論」を購読することは当然である。

 このように各学問の内容を画期的な形で変えながら国民教育を行うことが大切である。政府は国民教育の場としてのこれらの大学に予算を惜しんではならない。大学院大学も含めて国民教育には金がかかるものである。それは未来への投資であり、国民形成の実際の場でもある。

 現在わが国に必要なのは金ではなく、将来への夢であり、期待である。それはまず教育の場で語られなければならない。抽象的な形で夢をかたることは政治家には許されない。政治家に求められているのは常に現実の確定と変更なのである。日本の将来について真摯に熟考されることを期待している。



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