自民党提言の虚像と実像/首都圏ネット見解
(2000.5.18 [he-forum 901] 「自民党提言の虚像と実像」 首都圏ネット見解)

独行法反対首都圏ネット事務局です。

 自民党提言と現在の状況を全面的に分析した見解をまとめました。
 「刀折れ、矢つきた」というムードがただよっています。これを打ちやぶるには自民党提言の本質を知らせることと反対の声をあげることだと思います。
 この見解を学長、教職員、国民に紹介していただければ幸いです。
 それぞれの「見解」や「組合の学長、国大協等への要請、申し入れ」などもhe-forum、reformなどで紹介していただければお互いに元気づくと思います。

<ここから見解>

自民党提言の虚像と実像
―自民党提言の拒絶から高等教育の未来を展望しよう―

2000年5月18日

独立行政法人反対首都圏ネットワーク事務局

はじめに

 5月9日、自民党文教部会・文教制度調査会は、「提言 これからの国立大学の在り方について」を発表した。これは5月11日に自民党政務調査会の提言として承認・発表されたが、それは自民党の正規の政策となったことを意味する(以下5/11版を含めて5/9版と表現する)。

 この提言は3月初旬版(非公開)、3月23日版、3月30日版と版を重ね、今回の5月9日版に至っている。版を重ねるにつれ、当初検討されていた「国立大学法人」という通則法から独立した枠組みの採用という方向は潰え、最終的には、およそ高等教育政策の名に値しないものに変質していった。

 この間、首都圏ネットワーク事務局は、3月23日版に対して「政治の貧困、政策の不在」と題する批判声明を発表した。われわれは、基本的にその批判を変更する要素を一切見出すことはできない。むしろ、今回の自民党提言は、国立大学の独立行政法人化が一体何を目指すものであるかをより鮮明に示している。

 第一に、この提言は自民党行政改革推進本部の意向をより強く反映したものであり、3月の麻生委員会提言よりも一層後退したものである。これはもはや高等教育政策と呼ぶべきものではなく、端的に大学管理、大学淘汰政策と呼ぶべきものである。

 第二に、この提言は、国家主義、国家統制の観点から大学を扱うことを明確に宣言している。

 第三に、この提言は憲法23条に規定された「学問の自由」「大学の自治」の憲法的原理に対する侵犯を明確に意図している。

 第四に、この提言は国家の主導下に国立大学の再編統合・廃止・種別化を強制的に展開することを宣言している。

 第五に、この提言は通則法による独立行政法人化を強要しながら、それを「国立大学法人」や「調整法」といった名称のトリックによって覆い隠そうとしている。

 自民党提言に基づく国立大学の独立行政法人化は、大学の本質を解体する極めて重大な内容を含んでいる。なによりも、日本の大学制度が120年の歴史の中で、幾多の犠牲を払って確立してきた大学の自治、学問の自由が葬り去られようとしている。

一、問題の本質としての通則法

 自民党提言は、「国立大学法人」という名称を採用しているものの、通則法の支配下における独立行政法人化に他ならない。通則法に対する種々の批判に対して提言はむしろ居直りの姿勢さえ見せる。提言によれば、独立行政法人制度は「国の意思を法人運営に反映させうる法人制度」であると言う。そのため、通則法体制の維持が提言の第一の目的となっており、通則法の適用を除外する規定をいささかも含んでいない。

 提言が「大学の特性を踏まえた措置」として提示するもののうち、調整法(又は特例法)によって法律上規定するのは、基本組織、目標・計画、評価、学長人事、名称の5点に限定されている。しかも、この5点自体に大きな問題が含まれているのである。

 (1)大学の基本組織については、教授会の役割の極小化が意図されており、大学自治の根幹に関わる問題が法的に規定されようとしている。学長が「学部の意向を踏まえつつ」運営を行うという3月30日版の文言は削除されている。

 (2)主務大臣が目標を指示し、計画を認可するという通則法の基本は維持されており、「専門の学識経験者」の意見を聴くのみで、当該大学の意向を反映させる仕組みがない。

 (3)評価については、大学評価・学位授与機構の評価を尊重するとしているが、ここでも3月30日版には存在しなかった「大学関係者のみならず幅広い関係者が参画する必要がある」との文言が付加され、研究・教育の評価を相互評価ではなく、完全に「外部」からの評価に委ねるという極めて重要な問題が浮上している。しかも、その評価が資源配分と直結していることは言うまでもない。

 (4)学長人事については、「学外の関係者」や「『タックス・ペイヤー』たる者」の参加が新たに規定され、これもまた大学自治の侵害が意図されている。

 (5)名称としての「国立大学法人」は、以上の改変の意味を隠蔽する機能を果たしているにすぎない。

 つまり、自民党提言は通則法体制の「修正」を意図しているのではまったくなく、通則法を貫徹させるのみならず、通則法の規定にも存在しない内部組織や人事システムの改変を意図したものであり、それを通じて従来の大学のあり方を根底的に覆すことを目指したものと言えよう。これはもはや「特例法」と呼ぶべきものでさえないことを銘記すべきであろう。

二、「大学改革」の一環か?

 自民党提言は、その冒頭において、「行政改革」の議論の中から独立行政法人化の問題が提起されたことへの大学人の「警戒感と不信感」に、あたかも一定の配慮を示しているかに見える。しかし、それは、問題を「大学改革」に見せかけ、設置形態の変更が大学の改革につながるかのような幻想を与えるにすぎない。

 そもそも、藤田宙靖氏が言うように、独立行政法人という制度は、「第一義的には、国家行政のスリム化の一手段」(『ジュリスト』論文)である。今後は「行政改革」の枠組み(25%定員削減と30%行政コスト削減)を離れて問題を検討すると言うのなら、もはや独立行政法人化の必要はなくなった、と考えるべきではなかろうか。実際、藤田氏自身も「大学人の一人」としては、「通則法の監督システムではなくて固有のシステムを持った特別の大学法人」が「一番良い」と述べている(『文部科学教育通信』創刊号)。

 今回の自民党提言に行政改革推進本部の大幅な関与が見られたこと、また、同本部の太田誠一氏が「これを法案化することについての最終的な了承をしたわけではありません」(『週刊朝日』5月26日号)と述べていることからも、国立大学の独立行政法人化は、やはり徹頭徹尾「行政改革」の問題なのであり、「大学改革」と誤認することがあってはならないのである。

三、再編統合、選別と淘汰

 それでは、大学に対する「行政のスリム化」は何を通じて行われるのか。それは、自民党提言によれば再編統合、選別と淘汰によってである。しかも、この過程は、大学の自発性に基づく連携によってではなく、国の強力な指揮・監督によって進められる。提言には「大学の存廃など中長期的な在り方に関しては、国がより大きな責任を負うべきである」あるいは「最終的には、国の責任において、積極的に再編統合を推進すべきである」という新たな文言が加えられた。つまり、25%定員削減という論拠に代わり、国立大学の量的縮小が直接的な課題とされているのである。

 しかも、この再編統合、選別と淘汰は、大学の種別化を通じて行われる。研究重点大学、教育重点大学、教養型大学、職業人養成大学といった種別化が、「大学の個性化・多様化」という名の下に推進される。第二次世界大戦以前に作られ、新制大学発足時にも引き継がれた「旧七帝大」「旧官立大」等の「格付け」を温存し、それに基づく予算配分の不均衡、教員・学生数比の違いなど、不均等な初期条件を前提として大学間「競争」が強制されることは疑いえない。「個性化・多様化」とは「新たな序列化」の別名である。つまり、国家が個々の大学の廃止を指示するという、まさに大学の自治を否定する事態に向けて、諸大学が目的なき競争に追いたてられるのである。

 提言が、地方国立大学の「役割」の「維持強化」や基礎研究の強化について語っていても、それは単なるリップサービスに過ぎず、大学間、部局間、学問分野間の選別と淘汰、量的削減を一層促進することが意図されている。

四、トップダウンと規制強化

 自民党提言は、大学という組織そのもののあり方を質的にも決定的に破壊することを目指している。大学は個々の教員の内発的意思に基づき、その研究と教育を行う。大学には自由と自治が不可欠であり、その自治は、本旨としてボトムアップの運営を基本としている。「自治」が成員個々の自由意思に基づき、その論議を経た意思決定を意味することは明らかである。学校教育法では、大学の合議機関として教授会を置くことを規定しているが、それは、教育研究内容の決定や教員人事について専門的な判断を下す主体としての教授会の役割を尊重しているからに他ならない。つまり、「学問の自由」と「大学の自治」を保障するためには、学内民主主義が不可欠なのである。ところが、自民党提言はボトムアップの運営を敵視し、徹底して外部からの統制を核に据えたトップダウンの運営を奨励している。

 教員については、大幅な任期制を導入するとともに、テニュア制度の導入を提起し、教育公務員特例法の適用については何も語っていない。つまり、教特法の適用はむしろ否定されているのであり、教員の不安定化、流動化を推進し、自治主体のひとつを解体することが目指されている。

 教授会については、その役割への認識が欠如しており、「既得権の擁護に汲々とし、本来の権限を越えて全学的な課題にまで硬直的な対応に終始している」としか見ていない。ここでは、教授会があからさまに敵視され、その意思決定権が剥奪されているとさえ言える。大学が教育と研究を社会の負託に応えて実現するためには、教育・研究の基礎単位の自治機能が十全に発揮されることが不可欠である。教育・研究が上からの指示で可能だなどというのは迷妄にすぎない。

 学長権限は強化され、「リーダーシップ」の拡大のみが語られている。学長は、もはや評議会にも、教授会にも依拠することなく、強大な権限を行使する存在となる。また、その学長選挙方式についても、学内選挙による選出方式を否定し、推薦委員会の設置を通じた大学自治への外部からの介入が意図されている。提言は「学外の関係者及び学内の代表者(評議員)からなる推薦委員会を設けた上で、これに『タックス・ペイヤー』たる者を参加させる」とするが、教員の参加は排除されている。経営者たる学長を推薦する「タックス・ペイヤーたる者」が一体何者かは明らかであろう。

 こうしたトップダウンの運営手法は、国や文部省による統制の強化と対になっている。本来、独立行政法人化を求めた文部省の「検討の方向」(1999年9月20日)や有馬前文部大臣の「あいさつ」においては、「法人格の取得」による「自主性・自律性」の強化が繰り返し語られていた。自民党提言でも、方針の第二として「諸規制の緩和を推進する」と述べられている。ところが、提言では「国が、その運営や組織編成の在り方に対して、相当な関わりを持つことは当然」とされ、「国の関わり」が幾度も強調されている。3月30日版で「国の様々な規制が弱まる点」をメリットとしていたのに対し、5月9日版では「大学運営をめぐる日常的な国の諸規制が弱まる点」と変更されたことを見ても、「日常的」なもの以外については、国の規制が一層強化されることが前提とされている。つまり、「法人格の取得」による「自主性・自律性」の強化というのも、あくまで宣伝文句にすぎなかったことが、より明確になったと言えよう。

 また、高等教育の機能についても、「高い使命感を持った真のリーダー」の育成、「各界における真のリーダー」の育成などの言葉が使われ、国策としての高等教育をリーダー育成に一元化する意図も見てとれる。

五、語られざる内容

 自民党提言には、従来、国立大学の独立行政法人化をめぐって問題とされてきた内容について意図的に沈黙している点が多い。それは、以下の諸点にまとめることができよう。

 (1)「公的投資の拡充」は何によって行われるか。自民党提言は高等教育への公的投資の拡充について語るが、それを可能とする財源については何も語っていない。財政全体における高等教育財政の位置付けを欠いた議論は説得力がないばかりか、幻想をふりまく機能のみを有していると言う他ない。しかも、これは「競争的経費」を中心に行われるとされている。「傾斜配分」の問題を含めて、これは「拡充」に力点があるのではなく、差別化の原資としての機能が重視されていると考えるべきであろう。

 (2)企業会計原則の適用。これについては「大学の特性を十分に踏まえる」とするのみであり、しかも調整法(又は特例法)の対象とさえされていない。独立行政法人会計基準に埋め込まれたリストラ、スリム化の問題点は何ら解消されてはいないのである。この会計基準とは、「黒字は出すな、赤字が出たら自分で何とかしろ」という性格のものである。

 (3)国立学校特別会計制度は廃止されるのか。自民党提言は、「特別会計の借入金の返済」について語るだけで、国立学校特別会計が維持されるのかどうかについて何らの方針も示していない。

 (4)法人の単位についての言及がない。文部省の「検討の方向」にあった「一大学一法人」の言葉については何ら触れられていない。再編統合、選別と淘汰を目指す提言の意図は明らかであろう。大学の廃止、学部縮小の方針を見れば、地方国立大学の存立が極めて危ういものとなることは必至である。

 (5)事務組織等のあり方についての検討がない。自民党提言は「大学間の教職員の交流」に触れているだけであり、文部省による事務組織等の掌握を通じた大学統制の問題、大学における教員と事務職員の二重組織の矛盾などについては何らの検討も加えていない。

 (6)国立大学を特定独立行政法人にするのか否かが示されていない。有馬前文相は、自らが「独立行政法人化」を受け入れた理由として、公務員型であることを繰り返し語っていたが、自民党提言はこの問題に一切触れていない。報道によれば麻生太郎主査は「初めは公務員型で出発する」と述べたというが、これは最終的には非公務員型への移行を志向していることを自認したものと言える。

 (7)何故2001年度中に「具体的な法人像を整理する」ことが必要なのか。本来、1999年1月に中央省庁等改革推進本部は「2003年までに結論を得る」としていた。その時期が早められたのは、総定員法の改正との関係であると説明されていた(藤田『ジュリスト』論文など)。しかし、総定員法改正が既に成立し、それとの関係が消滅した今、独立行政法人化を急ぐ必要はないはずである。3月23日版で2002年とされていたスケジュールが3月30日版では2001年度中と何らの説明もなく早められ、それは5月9日版でも維持されている。その理由はいったい何か。

おわりに

 麻生委員会が活動を本格化した本年2月以来、大学関係者の注視の下で、自民党提言に対する一定の幻想も見られた。しかし、その結果である5月9日の提言は、一切の幻想を許さないものとなっている。文部省幹部は、「三月の中間報告が国立大学関係者にとって『中辛』とすれば、最終案は『激辛』の内容に変わった」と述べたというが(『週刊朝日』5月26日号)、まさにこの提言は国立大学を「行政改革」の観点から独立行政法人化しようとするものである。

 これまで、国立大学協会も各大学も、通則法の下での独立行政法人化に一貫して反対してきた。であるならば、ここで自民党提言を一定程度「評価」する、というような対応を取ることはできないはずである。むしろ、自民党提言は、大学の自治、学問の自由という憲法的原理に対する正面からの攻撃であると見なければならない。また、自民党提言が公立大学や大学共同利用機関も独立行政法人化のスキームの方向に組み入れようとしていることを見れば、現在の設置形態の如何を問わず、大学のあり方そのものに決定的な改変が加えられようとしている、と考えなければならない。

 もはや、大学の問題を政治の手に委ねるべきでないことは明白となった。大学人は、条件闘争という迷路に踏み込む愚を犯すべきではない。まして、大学人が個別大学の「生き残り」のために相互の疑心暗鬼と相克にとらわれている時ではない。大学が今後とも高等教育と学術研究の質的向上という重大な使命を担い、社会の負託に応えていくためには、憲法的原理に立った確固とした要求を持ち、発言していく以外にこの事態を打開する道は存在しないのである。

 国立大学の独立行政法人化問題は決定的な局面を迎えつつある。この時にあたって、大学人は、学問と教育、公共的使命を担う大学という知的存在の歴史に思いをいたし、後世の批判にたえうる改革を推進する義務を負う。一時の政治の容喙を許し、一時の「利益」を追い求めるならば、もはや「大学改革」を語る資格を失うであろう。

 しかし、まさにこの時にあたって、大学人がまず自民党提言を拒絶し、自らの力で新たな改革への歩を進めるならば、それは状況を変え、高等教育の担い手としての存在を社会に示すことになろう。21世紀の高等教育の未来を画する改革として記憶され続けるか否か、それは大学人の歴史的・社会的使命の自覚にかかっているのである。


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