独行法反対首都圏ネットワーク

沖縄タイムス5/22社説 琉大開学50周年/存在意義を再検証しよう
(2000.5.22 [he-forum 909] 沖縄タイムス05/22)

『沖縄タイムス』社説 2000年5月22日付

琉大開学50周年
存在意義を再検証しよう
米軍統治下の「布令大学」

 琉球大学は一九五〇年五月二十二日、戦争の傷跡の残る首里城跡で、産声を上げた。きょう、晴れて五十歳の誕生日を迎える。

 全国の国立大学で、琉大ほど特異な歴史を持つ大学はない。

 戦前、沖縄には、他府県と違って、国立の高等教育機関がなかった。歴史家の伊波普―が「高等学校の一ツ位は立てゝ貰へないものだろうか」と嘆いたのは大正末期、一九二四年のことである。

 どの府県にも最低一つは置かれていた国立の各種高等教育機関が、沖縄にはついに設置されず、貴重な文化遺産や教育設備も戦争で破壊し尽くされた。

 琉大は、沖縄で初めての高等教育機関として、復興への期待を担って、誕生したのである。

 六五年に民立法が制定され、翌年「琉球政府立」の大学となるまで、琉大は、布令・布告に基づいて、米軍政府や米国民政府の監督の下で、管理運営された。

 反米的だという理由で、学内の文芸誌「琉大文学」が発禁処分に遭ったり、学生が退学処分を受けたこともある。米国民政府の圧力は、時に大学の内部にまで及んだ。

 その一方、ミシガン州立大学との交流など、ユニークな実績も数多く残した。

 一九七二年、復帰に伴って国立大学となり、八一年、医学部が開学した。首里から現キャンパスへの移転が完了したのは八五年である。

 復帰後、大きく変わったのは、本土出身者が急速に増えたことだ。

 医学部開学の際、県内には「県出身受験生のために定員の特別枠を確保すべきではないか」という声まであった。大学の合格発表のときも、「沖縄」と「本土」の合格者比率がいつも話題になった。

 教員や学生の本土からの大量進出は、ぬるま湯的な空気を一掃し、学内を活性化するのに大いに役立った。

 「本土の研究者は、アイデアと構想力は優れているが、その人たちに基礎資料を提供するのは、いつも沖縄の研究者」だと、長い間、言われてきた。おいしいところをつまみ食いされる、という意味だ。以前は確かに、人文科学の中の沖縄関係学にその傾向が目立った。

 しかし、逆に言えば、研究に欠かせない地道な基礎資料の収集・整理を琉大などの地元研究者が担い続けてきたということであり、そこから、例えば、日本学士院賞を受賞した仲宗根政善の「沖縄今帰仁方言辞典」のような成果が生まれたことを忘れてはならない。


少子化進み淘汰の時代に

 琉大卒業生は、沖縄社会のあらゆる分野にまたがっている。地域への貢献という意味では、琉大が果たしてきた役割は実に大きい。

 だが、開学から半世紀を経て、大きな曲がり角にさしかかっているのも事実である。

 県内でも大学が増え、公私立が力をつけるようになった。県外を含めると受験生の選択肢は、限りなく増えている。

 その上、少子化の波である。二〇〇九年には、全国の志願者数と入学定員が同じ数になるというデータまである。

 個性を打ち出し、他との差異化を意識的に図らなければ生き残れない淘汰(とうた)の時代に入ったのだ。親方日の丸の大学運営はもはや許されない。

 国立大学の独立行政法人化の動きも、それが最終的にどういう形になるにせよ、琉大に大きな影響を与えることは間違いない。

 森田孟進学長は、本紙のインタビューに対し、法人化によって競争原理と市場原理が大学に持ち込まれる結果、「地方の国立大は縮小を余儀なくされるだろう」と危ぐの念を表明した。将来の変化にどう対応するか、具体的な検討を迫られている。

 琉大はこれまで(1)熱帯科学を中心とする特色ある教育研究(2)地域に開かれ地域に貢献する大学(3)国際交流の推進―に重点的に取り組んできた。

大切な地域の個性の発揮

 沖縄の歴史や文化、地理的位置、自然環境から考えて、望ましい在り方だと思う。その方向性に異論はない。問題は、これをお題目に終わらせず、どう具体化するか、である。

 県内の他大学とどう役割を分担していくか、住み分けの課題もこれから浮上するだろう。アジア太平洋の島しょ地域と情報を交換し合い、共通の課題に取り組んでいく体制づくりも求められる。

 二十一世紀は、「知」とは何か、という根源的な問いに、研究者が向き合わなければならない時代でもある。



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