独行法反対首都圏ネットワーク

浜林正夫氏の論説
(2000.4.12 [he-forum 815] 浜林正夫氏の論説)

JOIN No.35 (文教大学)
2000年1.2.3月号

国立大学独立行政法人化の是非を問う
独立行政法人化は大学の命取り

浜林正夫  一橋大学名誉教授

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はまばやし・まさお 1925年生まれ。小樽商科大学、東京教育大学、一橋大学、八千代国際大学に勤め、98年退職。専門は西洋経済史。主な著書に「イギリス市民革命史」「イギリス民主主義思想史」などがある。

はじめに

 大学はかならず国立でなければならないということはありません。国立であろうと公立、私立であろうと、あるいは法人であろうと、設置形態のいかんを問わず、大学は大学として備えるべき3つの要件を備えていればよいと、私は考えています。その3つの要件というのは、第1に大学の自治、つまり、大学のことは大学で決めるということ、第2は教育と研究の自由、第3は教育研究の安定した人的物的基盤の維持ということです。

 こういう3つの要件が保障されるなら、法人化に反対する理由はないのですが、昨年7月に制定された独立行政法人通則法を見るかぎり、この3つの要件はまったく保障されていません。また文部省は去る9月20日に「国立大学の独立行政法人化の検討の方向」を発表し、法人化してもこれまでとあまり変わらないよう努力するという姿勢をしめしましたが、これも通則法の枠内のことですから、その努力には限界があり、しかも、そういう努力が実を結ぶという見込みもほとんどないのです。

大学の自治を奪う

 それでは、先にあげた3つの要件に照らして、通則法のどこに問題があるのかを見てみましょう。

 第1の大学の自治についていえば、通則法第29条は「主務大臣は、3年以上5年以下の期間において独立行政法人が達成すべき業務運営に関する目標を定め、これを当該独立行政法人に指示する」と定めています。主務大臣(文部大臣)が大学の目標を定め、これを指示するというのですから、大学の自治は根本的に否定されることになります。現在の国立大学にたいする文部省の権限はこんなに強力ではありません。現在は文部省の権限は「指導助言」にとどまり、「目標を定める」とか、「指示する」などという権限は文部省にはないです。
 独立行政法人になれば、大学は国から独立して自由になるという人がいますが、独立とは名ばかりで、かえって文部省の支配は強まることになるでしょう。
 しかも「3年以上5年以下の期間」において目標を達成せよというのも、大学にとっては無茶な話です。通則法はこれを「中期目標」といっていますが、教育や研究にとっては3年なしい5年は決して「中期」ではなく、短期あるいは即刻とでもいいたいぐらいの期間です。大学が新しい学部をつくったときには、最初の卒業生をだしたときを完成年度といいますが、それは普通の学部で4年、医学部などでは6年です。したがって学部が完成しないうちに「中期目標」が変わってしまうということになりかねません。

 研究ということになると、もっともっと長い期間が必要です。去る11月10日、国立大学理学部長会議は「危うし! 日本の基礎科学。国立大学の独立行政法人化の行方を憂う」という声明を発表しましたが、それによると基礎科学が成果をあげるのには、数十年ないし100年以上の月日を必要とするとされ、エレクトロニクスやインターフェロン、CDなどの例があげられています。基礎科学でなくとも、技術開発でも、3年や5年ではとうてい無理です。

 もうひとつ、大学の自治にとって重要な問題は、通則法第20条で「法人の長は……主務大臣が任命する」としていることです。現在の制度では学長は学内で選考され(普通は教員の選挙によります)、文部大臣が発令することになっています。選考手続に問題があると見られたときには、文部省が発令を保留することはありますが、学内の意向を無視して文部省が学長を任命することはありません。文部省は独立行政法人になっても現在の制度と実質的には変わりませんと、一生懸命に宣伝していますが、そういう保証はありません。通則法を見る限り、文部省が一方的に学長を押しつけてくることも可能なのです。

 しかも大学の教職員は「法人の長が任命する」ということになっています。国立大学の職員は現在、文部省職員ですから、文部省が採用し、各大学へ配置されます。しかし教員は教育公務員特例法によって大学管理機関(教授会)で審議し、採用することになっています。これが学長の任命になり、採用も解任もできるということになると、教授会の意向が無視され、学長専断の人事がおこなわれる危険があります。しかもその学長は文部省によって任命されるのですから、文部省の方針が上から下までつらぬかれることになるでしょう。

教育研究の自由を侵す

 第2の教育と研究の自由も、この大学の自治に関係することです。あるいはむしろ、教育研究の自由のためにこそ、自治が必要不可欠なのだというべきでしょう。

 「中期目標」として、どこまで立ちいった指示がでるのかは分かりませんが、すでに「哲学や数学は不必要といわれるのではないか」とか「教員養成はバッサリ切られるぞ」などという不安が、国立大学のなかではささやかれています。逆に、どういう研究をやれば予算がつくのかという模索もはじまっています。こういう状況で揺れているなかでは、地道な研究にうちこんでいる余裕はなく、人類の知的遺産を継承発展させていくという大学の重要な使命は果たせなくなっていくでしょう。教育と研究の自由を守ることによって、ユネスコ「21世紀の高等教育宣言」(1998年)にあるように、大学は社会の動きに対して予見的批判的な役割を果たすことができるのですが、もし通則法が定める方向で大学が法人化されるならば、大学がそういう役割を果たすことは不可能になり、教育も研究もそのときどきの政府の政策に追随していくことになるでしょう。

 先にのべたように、学長をはじめ教員の人事が文部省の意向に左右されるようになると、大学のなかから活気が失われ、停滞した空気が生まれていきます。教育と研究にとって何よりも必要なものは自由な雰囲気であり、そのなかから生まれる活発で独創的なとりくみの姿勢です。現在でもすでにそういう雰囲気がくずれてきている大学が増えてきているようで、私はこれでは日本の学問や技術の将来はあぶないと、ひそかに憂えているのですが、もし通則法の枠内で国立大学の独立行政法人化がすすめられるならば、日本の将来はますます暗いものになると思われ、憂慮に耐えません。

大学の財政的基盤の不安定化

 大学として備えるべき第3の要件は、教育研究の安定した人的物的基盤の維持ということです。それは一言でいえば財政的基盤といってもよいでしょう。現在の制度では国立学校特別会計というものがつくられていて、ここへ政府の一般会計から約1兆5000億円が振り込まれ、ほかに国立大学の自己収入(付属病院収入、授業料など)約1兆2000億円が納入され、計約2兆7000億円が各国立大学へ配分されます(以上の数字は1998年度)。大学への配分にはいろいろな基準がありますが、それにもとづく経常の経費と、新増設などにともなう特別経費がありますけれども、経常経費だけは最低保証されています。このように国立大学予算の約55パーセントは税金で賄われているのです。この比率はかつては80パーセントもあり、国立大学に対しても税金による負担の割合は年々低下しているのですが、それでも私立大学全体に対する国庫助成が1998年度でわずか2950億円で、私立大学の経常経費の12パーセント程度にすぎないのに比べれば、国立大学の財政ははるかに恵まれた条件にあるといえるでしょう。

 それでは国立大学が独立行政法人化するとどうなるのでしょうか。通則法によると、独立行政法人は主務大臣の定める中期目標にもとづいて中期計画を作成し、そのなかにもりこまれる予算計画にたいして、政府はその財源の「全部または一部に相当する金額を交付することができる」となっています。予算にたいしてどのくらいの割合の国費が支出されるのかは、何の基準もなく、主務大臣あるいはそのもとにおかれる評価委員会のサジ加減ひとつということになります。お金の面でも大学に対するコントロールは強まると見なければなりません。

 たしかに寄付金のあつかいなどは自由になります。また教職員の給与も国家公務員の給与表は摘用されなくなりますので、「高い給与をだして優秀な研究者を招聘できる」というような自由度は高まるでしょう。しかしこのことは、裏返しにいえば、「お手盛」になるということです。それは給与の面から教員にたいするコントロールが強まるということにほかなりません。寄付金などのあつかいが自由になるといっても、政府からの交付金とは別に勝手に金もうけができるわけではなく、某有名私大の学長がいっておられたように「国立とは違って私大ではいつも金策に走りまわらなければならないんだよ」というような状況に、法人化された大学は落ち込むことになるでしょう。

 教職員の定員もおそらく減らさなければならないでしょうし、学生の授業料も大幅に引き上げられ、おそらく、少なくとも現在の私大なみになり、学部別に授業料に差をもうけるということになるでしょう。これは国民の側からいえば、現在でもかなり重い負担になっている高等教育の学費負担をいっそう重くし、国民の進学要求にこたえるうえでの障害となるに違いありません。国際的には国際人権規約やユネスコの「21世紀の高等教育宣言」が高等教育の無償化への努力を、各国にうながしているときに、日本はそれと逆の方向へいっそうすすむことになるのです。

私立大学への影響

 以上のように、通則法で見る限り、国立大学の独立行政法人化は、大学として備えるべき3つの要件をすべてみたしていません。この3つの要件を、不十分ながら今日まで比較的よく維持してきたのは、国立大学と一部の公立大学と一部の私立大学でした。国立大学の独立行政法人化はいわばその一角をつきくずすものであり、国立大学がこの3つの要件を奪われていくことは、たんに国立大学のみでなく、日本の大学全体の基盤をくずしていくことになります。現在でも私立大学には教育公務員特例法のような教員の身分の法律的保障はなく、そのために教員の身分が脅かされている事例がたくさんあります。教員の身分保障がないところには教育研究の自由も大学の自治もありません。私立大学は国立大学に準じて慣習として自治と自由を守っているのですが、その準拠すべきよりどころとしての国立大学が法人化によって自治と自由を奪われていくならば、私立大学の自治と自由もまた危うくなるといわざるをえません。また私学への国庫助成も国立大学が総経費の55パーセントも国費で賄われているのだから、せめて私大の経常経費の2分の1を、というのが、国庫助成増額運動の目標になっていると思います。そういうような意味で、ある私大関係者がいっているように、「国立大学はやはり日本の大学のナショナル・スタンダード」なのです。このスタンダードはけっして十分なものではなく、むしろいっそう高めなければならないものなのですが、独立行政法人化はこのスタンダードを逆に引き下げるものであり、そしてそのことは私立大学の大学としての要件をくずしていくことにもなるでしょう。

 国立大学の法人化はいま突如としてだされてきたものでなく、さかのぼれば1971年の中教審答申にはじまるものです。しかしそれが今回、急に現実化してきた背景に、行政改革のための国家公務員削減があることは周知のとおりです。国立大学の一部には「法人化すれば定員削減をまぬかれる」という声があるようですが、この見通しはきわめて甘いといわざるをえません。一言でいえば法人化は国立大学の大リストラなのです。しかし、いま日本の企業がリストラをやりすぎて製品の質が落ちているといわれるように、国立大学のリストラは日本の学問と技術と、大学卒業生の質を落とすことになるでしょう。「国立大学を法人化して、これからの日本の経済は大丈夫なのか」という危惧の声が財界のなかにさえあるそうです。



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