独行法反対首都圏ネットワーク

第三者評価は日本的慣習への挑戦である/木村 孟(学位授与機構長)
(2000.4.9 [he-forum 801] 木村孟氏の論説)

大学ランキング2001年版(朝日新聞社)

【第三者評価】
第三者評価は日本的慣習への挑戦である
学位授与機構長
木村 孟 KIMURA Tsutomu

 平成10年10月、大学審議会から「21世紀の大学像と今後の改革方策について」と題する答申が文部大臣に提出された。答申は、副題の「競争的環境の中で個性が輝く大学」が示すように、わが国の大学の個性化を実現するため、学部教育の再構築、大学院における教育研究の高度化・多様化、教育システムの柔構造化、組織運営体制の整備、多元的な評価システムの確立などの具体的な提案を行ったのである。これらのなかで、大学関係者が最も注目したのは、多元的な評価システムの一つとして打ち出された、「第三者評価システム」の導入の提案である。
 答申は、第2章の4「多元的な評価システムの導入―大学の個性化と教育研究の不断の改善―」で、「21世紀において、我が国の大学が教育研究の水準向上を進め、世界のトップレベルの大学と伍して発展していくためには、社会の理解と支援の下、それぞれの大学が、研究教育の個性を伸ばし質を高めるための環境を整備することが重要である。このため、自己点検・評価の充実を図るとともに、第三者評価システムの導入などを通じて多元的な評価を行い、大学の個性を伸ばし、教育研究の内容・方法の改善につなげるシステムを確立する必要がある」と、第三者評価を含めた多元的な評価システムの確立の必要性に対する提言を行っている。

 さらに、「大学が社会的存在としてその活動状況等を社会に対して一層明らかにしていくためには、透明性の高い第三者評価を行うとともに、大学評価情報の収集提供、評価の有効性等の調査研究を推進するための第三者機関を設置する必要がある」と、大学評価を行うための第三者機関の設置の必要性を強調している。
 答申のこの部分を率直に読むと、「第三者機関を新たに設置すべきである」との提案と受け取れるが、文部省では最近の財政事情から新設は無理であると判断し、文部省の所轄する大学共同利用機関のうち、唯一高等教育の質に関する業務を行っている学位授与機構を改組することで、審議会の答申に応えることにしたと聞いている。
 改組のための予算要求は、平成11年末にその大枠が認められ、大学評価・学位授与機構(仮称)の平成12年4月の発足に向けて、法改正の準備が進められているところである。

外的圧力から
第三者評価構想が生まれた

 大学審議会の答申が提出されて以来、この第三者機関の設置の是非をめぐって、大学関係者とくに国立大学関係者を中心に、さまざまな議論が行われている。大学の研究教育の質を向上させるためには、第三者評価機関の設立が必須であるという声もなくはないが、筆者の見るところ、国立大学の独立行政法人化の動きがあるためか、全体としては慎重ないしは否定的な意見が多いようである。このように、第三者評価機関設立に対して、積極的支持論が極めて少ないなか、なぜ、それが現実となりつつあるのであろうか。筆者は、外的圧力がその主な要因であると考えている。
 平成元年、東京大学の学長に就任した有馬朗人博士は、かねてから、このままでは日本の大学における学問は、外国に太刀打ちできなくなるのではないかという強い危機感を持っておられた。国立大学協会の会長に選出されるや、有馬学長は、ただちに高等教育への国としての投資の不十分さを、政界、財界、産業界に訴えるキャンペーンに乗り出された。自ら『大学貧乏物語』なる書を著し、いかにわが国の大学の建物施設や実験設備がひどい状況にあるかを明らかにした。その結果、政財界、産業界ならびに一般国民も大学に目を向けるようになり、わが国の大学の惨状を理解し始めたが、同時に、国民に対して、大学側からほとんどメッセージが出されておらず、国民の側も、大学の中で何が行われているのか、大学が社会に対してどのような機能を果たしているのかなどについて、ほとんど知識を持ち合わせていないことに気づいたのである。

教育、研究内容を
国民に公表せよ

 時をほぼ同じくした平成3年、大学審議会から「大学教育の改善について」と題する答申が出され、その中で、自己点検・自己評価の実施とその結果の社会への公表についての提案がなされた。すでにこの審議会で、第三者評価をわが国でも実行すべきであるという強い意見が出されたようであるが、全体として、わが国の社会では評価の概念がほとんど存在しないことから、自らを省みる「自己点検・自己評価」という段階にとどめられたと聞いている。
 この提言が出されて以来、各大学では関係者の予想をはるかに上回る勢いで自己点検・自己評価が実行に移された。当時の遠山敦子文部省高等教育局長も、大学審議会の席上でそのことを認めていた。なぜ、自己点検・自己評価がそれほど急速に各大学で行われるようになったのであろうか。
 それは多分、おおかたの大学人が自らの大学の現状に強い懸念を持っていたためであろう。この大学人の動きと、先に述べた社会の大学に対する不満とが相まって、大学の社会に対するアカウンタビリティ(説明責任)を問う声が大きくなり、それが自己という当事者による評価ではなく、第三者による客観的な評価の要求となって表れたのではないかと考えられる。

 いまひとつの要因は、諸外国における状況である。ヨーロッパでは、多くの国で大学における研究教育に対する評価が実施され、その結果を公表することによって、それぞれの大学が何を目指しているのか、どのような特徴を備えているのか、どの程度の資金を使っているのかなどを、国民すなわちタックスペイヤー(納税者)に説明する努力がなされている。ヨーロッパ諸国では資源の有効利用という観点から、評価に基づいて資金配分を決定するシステムが一般的であるため、評価は国の機関で行われることが多い。
 アメリカはアメリカらしく、国の機関で統一的に評価を行うシステムは採らず、たとえば州立大学の場合には、各州に設けられている評価機関あるいはそれぞれの大学が持っている評価委員会などで評価が行われるほか、研究教育資金の配分に関しては、数多く存在する資金配分機関(funding agency)が独自の基準に基づいて評価を行うのが一般的である。
 また、民間の機関による大学評価もさかんに行われており、一般国民に対して大学に関するさまざまな情報が提供されている。いずれにしても、大学における研究教育に対して評価を行い、その結果をタックスペイヤーである国民に公開していくことは、いまや国際的な趨勢である。
 先にも述べたように、平成10年に大学審議会が提案した第三者機関による大学評価は、答申の中で「国立大学の予算配分に際して第三者機関による評価が参考資料の一部として活用されることが考えられる」とは述べられているが、その最大の目的は、各大学の個性の伸展と教育研究の内容・方法の改善であり、もっぱら国の資金の有効利用を目指している欧米諸国における大学評価とは、本質的に異なったものである。

これからの大学には
鮮烈な個性が必要

 これまでの議論で、再三再四確認されているのが、これから行おうとする大学評価は、資金配分のためではなく、あくまでわが国の大学における教育研究の質の向上を目的とするものであること、評価は、大学審議会の答申にも述べられているごとく、大学人の参加を得た、いわゆる同僚評価(peer review)とすること、また、評価員(reviewer)など評価事業の関係者の選出は民主的に行うこと、などである。
 具体的な評価の手法としては、教育、研究それぞれについて学問分野ごとに行う分野別評価と、適宜テーマを設定して大学全体についての評価を行う全学評価の二本立てとすることが検討されている。
 教育評価は、自己点検・自己評価で述べられた教育の目的や目標との関係において、(1)教育内容ならびに方法、(2)教育の成果ならびに目標の達成状況、(3)教育の質の向上・改善のためのシステム、などについて行うことが提案されている。この評価では、授業評価等による学生のニーズや社会からの要請が教育に反映されているか否かに、力点がおかれることになろう。
 研究評価は(1)国際的な視点を踏まえた研究水準、独創性、今後の発展性、(2)社会・経済・文化への貢献、(3)それぞれの設置目的・使命や目指す方向に照らした達成状況、などについて行うことが考えられている。

 研究評価においては、研究環境や研究者数など、それぞれの大学がおかれた条件に大きな差があるため、それをいかに評価に取り込むか、これから伸びようとする研究をいかに評価するか、さらに成果が出るまでに長い時間のかかる学問分野をどのように取り扱うかなど、きわめてむずかしい問題があることが指摘されている。
 わが国の社会は、これまで、なにごとにせよ評価をすることを避けてきた。むしろ、評価をしないことをよしとしてきたきらいさえある。評価のない社会は、ある意味では快適である。しかし、わが国は、もはやアジアの小国ではなく、世界の経済の20%をも支配している超大国であり、多くの分野で世界のリーダーとしての責任を果たさなければならない。
 大学が、これまでのように、先進諸国へのキャッチアップ(追いつくこと)に都合のよい無個性な人材だけを創り出しているわけにはいかないのである。政治、経済、文化など人間の生活にかかわるさまざまな分野で、フロンティアを拓いていける人材を生み出していかなければならない。
 そのためには、まずそれぞれの大学が鮮烈な個性を持たねばならない。その個性を育てるのが客観的な評価ではなかろうか。わが国の大学が個性を持ち、そこからさまざまな個性を持った人材が巣立つか否か、そこにわが国の将来がかかっていると言っても過言ではない。

 第三者による大学評価の試みは、評価をしない日本的慣習への挑戦でもある。



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