独行法反対首都圏ネットワーク

大学の先生が、まず教養を身につけるべき/阿部謹也(共立女子大学長)
(2000.4.9 [he-forum 800] 阿部謹也氏の論説)

大学ランキング2001年版(朝日新聞社)

【学長アンケート・教養教育】
大学の先生が、まず教養を身につけるべき
共立女子大学学長
阿部謹也 ABE Kinya

 教養教育のいちばんの問題点は、大学設置基準の大綱化以前においても以後においても、各大学で教養学部を廃止し共通科目を作ったときに、「教養教育とは何か」「教養とは何か」という議論を全然行ってこなかったことです。この議論をしようとすれば、少なくともギリシャ、ローマ時代にまで遡らなくてはならないし、日本や中国の歴史にも遡らなくてはなりません。
 教養があるというのは、社会のなかで自分がどう生きているのか、どういう状況にあるのか、なにができるかということを意識する、自覚できることだと思います。
 わたしは長年、大学で教養ゼミナールをやってきました。作文を書かせたり、討論させたりしながら、一人ひとりがどういう人間かを見て、「適切な学問分野は何か、将来どういう仕事をしたらいいか」について、本人が自覚できるようにしてきました。
 このように、教養は一人ひとりの生き方についての問題なのに、知識だと思っている人が多くいます。漢字を読めなかったりすると、すぐに「教養が足りない」という。知識が足りないというだけで、人間の価値が劣るように思われてしまうのです。
 教養がある人というのは、顔を見ればわかるものです。農民や漁民、手工業者らのように、きちんとした生き方を持ち、真摯に生きている人は、政治家よりもずっといい顔をしていると思います。
 大学の先生の中には、自分が教養ある存在であり、その教養を学生たちに与えるんだという発想を持っている方がいますが、これは根本的に間違っています。学生に対する教養教育を議論する前に、先生方の教養教育が先だと思います。先生方が、自分を鍛えていく。そのなかで学生とともに学ぼうという姿勢を持っていないとダメです。自分の専門分野を媒介にしてもいいから、個々の学生の将来を考えながら、授業なりゼミナールを行うことが大切です。

万葉集と天文学をつなぐ
「教養」

 大学のこれまでの一般教育は失敗したといっていいでしょう。その原因は、教育内容が高校の授業の延長レベルだったこと。そして、担当の先生は特定分野の専門家だったことが原因としてあげられます。本来ならば専門家として、学部や大学院の専門教育や研究を行うべき人が、運悪く1、2年生の一般教育を担当することになり、いやいや教えているというのが、大半だったわけです。ですから、教養のなかで人文、社会、自然科学を担当する先生には、人格的にもすぐれた第一人者をおくべきです。
 また、人文、社会、自然という3分野のつながりについて、だれもきちんと論じることができなかったことも失敗の原因だと思います。学生にすれば物理の授業を受けて、次に国語の授業を受けるといった感じで、両者の間には何も関係がない。このようなバラバラな教育は教養教育とはいえないし、学生にはなんら知的興奮を与えることはできない。学生も発奮しません。
 教養というのは、全体としてあるイメージにならなくてはならないし、一見違う分野のようでも、どこかつながっているものなのです。たとえば、柿本人麻呂が奈良の阿騎野で詠んだ次のような歌があります。

 ひむがしの野にかぎろひの立つ見へて
 かへり見すれば月かたぶきぬ

 この歌は、東の空にあかつきの光がみなぎり、西の空には月が沈もうとしている光景を歌ったものです。天文台に問い合わせると、この歌を詠んだのは西暦692年(持統6年)12月31日午前5時50分ということがわかったそうです。こういった話を聞くと、万葉集と天文学がつながって面白いと学生たちも興奮します。
 日本の文部省は、数学、物理、歴史、古典、絵画、音楽などは、それぞれ独立した学問分野だという意識を強く持っています。そのため、中学、高校で文科、理科のコース分けするような教育を行ってきました。
 大学教員の多くはこれと同じ意識を持っているので、自分が教えたり、研究している学問以外の分野に関心を持たなかったのです。経済学者は経済学だけを教育、研究すればいいという考え方です。このような体質を改善しない限り、日本で教養教育をきちんと行うことはできないのです。

国立大学の使命は
国民全体が学べること


 国立大学の独立行政法人化について考えてみます。学問の自由や学問の自治を崩壊させかねない政策なのに、大学からも、学生からも、一般の国民からも、さしたる反対の声があがっていません。このような状況になったのは、長年、インテリの自己満足としての学問しかやってこなかった大学、とくに、書物など文字を媒体にした教育ばかりを行ってきた人文社会系分野の学者に責任があると、わたしは考えています。
 地方大学の場合、付属の大学病院がなくなれば県民は困るが、文学部や経済学部、法学部などで行われている研究は、先生たちが自分の知的関心を満足させるためにやっている場合がほとんどなので、県民もあまり関心を持ちません。
 いちばん大切なのは、国民の知りたいことを一緒に学んで究めていくという姿勢です。すべての大学がこのような姿勢で臨めば、日本の学問は大きく変わる。そうなれば県民は、「この大学がなければ困る」といって、国に抗議することでしょう。
 今後、国立大学が生き残るとすれば、やはり、最終的には生涯教育とともに存在すべきだと思います。国民は10代後半から20代前半にかけてだけ学ぶのではなく、生涯をかけて学ぶべきです。教養教育と生涯教育をリンクさせて、学生と一般の人が一緒に学べる体制をつくることが、全国にある国立大学の使命だと思います。
 大学の学問は、書物だけで教えられるかのように思われがちですが、それは間違いです。現場を見たり、実技を行ったりすることも大切なのです。東大の教養学部で「釣り」が講義になったことが話題になりました。わたしは大いに結構だと思います。ただし、釣りの実技を教えるだけではなく、ルアーはローマ時代からあり、農民戦争の原因になったというような歴史的事実、釣りが環境汚染の一因になっているということなども教えなくてはならないでしょう。
 これらをきちんと教えることができれば、立派な「生涯学」の講義にもなります。各世代の国民全部が勉強できる体制をつくることが生涯学習の使命であり、大学が取り組むべき教養教育だと思います。

(構成・フリーライター/庄村敦子)



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