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21世紀の大学像、独立行政法人化を考える/有馬朗人
(2000.4.9 [he-forum 799] 有馬朗人氏の論説)
大学ランキング2001年版(朝日新聞社)
【巻頭言】
21世紀の大学像、独立行政法人化を考える
前文部大臣
有馬朗人 ARIMA Akito
現在、日本の高等教育制度は大きな転換期を迎えているといっていいでしょう。
戦後、新制大学発足時(1949年)、4年制大学への進学率は6%にすぎませんでした。やがて、1970年代に入ると20%まで進学率は高まります。そして、2000年の現在にいたっては、35%を数えるようになりました。短期大学を含めた高等教育機関全体への進学率は50%近くにまでなっています。
大学進学率が高まるなか、ここ20年ぐらいの間で高等教育の意義、役割はずいぶん変わってきたと思います。進学率20%のころまで、大学は社会を引っ張っていく層(技術系でいえば技師長クラス)を養成する場でした。真の意味でのエリートを作るために基礎訓練を行ってきたわけです。
ところが、進学率が35%を超えるようになった現在、すべての大学に旧来の高等教育の概念をあてはめることはできなくなりました。35%のうち、依然として20%ぐらいは社会を引っ張っていく層を育てることになりますが、残りの15%は、それとは違った教育を行わなければならないでしょう。
そこで、私は考えました。理系と文系の両方で社会の足腰をきちっと支える中堅の技術者(テクニシャン)を養成する教育機関としての高等教育があってもいいのではないかと。旧来の高等教育の考え方とは異なった「高等普通教育」ともいうシステムです。もちろん、その一部は高等専門学校になっていますが、4年制大学でもそうしたらどうかということです。
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もともと、中堅の技師を育てる機関としては、職業高校が重要な役割を果たしてきました。ところが、高校進学率が97%まで高まり、中学生のほとんどが進学できるにつれて、なぜか職業高校がすっかり人気をなくしてしまったのです。かつて、全高校のうち職業高校は40%あったのが、いまでは23%まで落ち込みました。これによって、社会の担い手となる中堅技術者層が減少してしまったのです。これは社会にとって大きな痛手です。
そこで、本来、高校でおこなっている内容を含めた職業教育を、大学のなかで高等教育として行ったらどうかと考えたわけです。たとえば、職業高校の一部を大学にして、「旋盤学士」「簿記学士」のような専門家を養成すればいいのです。
大学は社会の指導者を育てる役割がある一方で、中堅層も育てなければなりません。通産省を中心に構想がまとまっている「ものづくり大学」は、まさに高等普通教育を体現するものと評価していいでしょう。
職業に強くなる教育のことをポリ・テクニーク型と呼んでいます。戦後の新制大学が発足する前、じつは日本にもたいへん優れたポリ・テクニーク型の高等教育機関があったのです。旧工専(高等工業学校)、旧高商(高等商業学校)などです。私の故郷の浜松工専には高柳健次郎先生がおり、テレビの高い技術を持っていました。高柳先生の技術は弟子に伝えられ、いまでも、浜松の企業では世界にひとつしかないような測定器(弱い光を測る)を作っています。
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ところが、学制改革によって工専、高商、師範学校などを一緒にして総合大学が作られました。しかも、どの大学も4年間で教養、専門の2つに分かれた教育をおこなう同じようなシステムになったのです。振り返ってみると、こうした戦後の大学の作り方には大きな誤りがあったと思います。
そこで、いまこそポリ・テクニーク型の教育に専念する大学が必要だと、私は訴えたいのです。極端な話、教養教育だけに力を入れてもいいし、逆に、4年間、専門教育をみっちりおこなってもいいのです。
大学は社会のニーズに応じて、職業教育、高度な専門教育、そして幅広い教養教育など、多様化しなければならない時代にきています。高度な専門教育を行うために大学院に力を入れるのであれば、学部の学生数を減らして徹底的に研究を重視した教育を行えばいい。一方で、幅広く高度な教養教育に専念する大学があってもいいのです。
高度な専門教育については視野を国内に限定せず、常に地球規模で考えなくてはなりません。日本でしか通用しない研究や教育では、世界の舞台に立つことはできないからです。常に国際社会を意識すべきです。
大切に守らなければならない
研究分野
以上は、21世紀へ向けた新しい大学のあり方として考えていただきたいのですが、これをふまえて、国立大学の独立行政法人化について問題を整理してみます。まず、教育は行政でないので国立大学法人というべきでしょう。現在の独立行政法人の通則法は、大学運営に求められる自由度が与えられないという意味で不十分といえます。独立行政法人に関する「整理統合の方針」には、その長が組織の内部構造をすべて決めるとあります。大学の長である学長が、もし「運営諮問会議などいらない」と言いだしたら、大学を誤った方向に導いてしまう危険性もあります。
大学運営がきちんと行われるために、諮問機関として評議会を機能させ、学長の下に教授会をおく、外部の人間を入れた運営諮問会議を作る−−このような教育、研究の組織体の作り方を通則法にきちんと書き込んでほしいと思います。全体にもう少し大学の現状にあった内容にしなければなりません。そのために、たとえば、特例措置を作るべきでしょう。
独立行政法人化によって、学長の任命は、文部科学大臣によって決められることになります。これに対しては多くの批判が出ていますが、実際には、各大学がよく考えて大学運営・教育・研究について全幅の信頼をおいてまかせられる、しかも、大学人のだれからも尊敬される人を文部大臣に推薦することが望ましいでしょう。文部省からいきなりこの人を学長にと指名される事態は、大学にとってもっとも困ることですが、それは避けたいと思います。
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学長の権限はどうでしょうか。99年秋に学校教育法の一部が改正され、そのなかで、学長、学部長が大学の方針としてどのような人材を採用すべきかを発言することができるようになりました。これについても、教授会の自治を侵されるのではないかという批判を受けましたが、たとえば、学長、学部長が直接、量子力学、原子核分野にこの人を採れといって、勝手に人事を動かせるということではないのです。
社会が急速に変わるなかで、学問分野も大きく変わっていかざるを得ない場合があります。再び、物理学の例を出しますが、もし古典力学講座のポストが空いたときに、この分野を教えるのはいいが、研究対象として継続するのは時代に合わない、次は量子力学講座にポストを用意したらどうかという意見がでるかもしれません。このとき、学長や学部長が大学全体を見通してこの問題を検討しようというのが、今回の改正のポイントなのです。学長は評議会と相談した結果、方針を打ち出すということであり、学長がオールマイティーとしてふるまって、わがままを通すということではありません。
独立行政法人化政策でもっとも心配されているのは、ある分野の研究がすぐに社会に役立たないからといって切り捨てられてしまうのではないか、ということです。たとえば、古代語や少数民族の言語の研究などは、万人に役立つというものではありません。だから、それは無駄な研究だ、といわれることを、私はたいへん恐れています。
学問の世界において、時流に乗ったテーマ、世間に応用の利く分野だけを守るという発想は大間違いです。地味に見えても、科学研究の基礎を支え、人間の知恵に寄与する分野の研究はたくさんあり、それらを大切に守らなければなりません。
教育、研究内容に対する
評価の重要性
独立行政法人化によって改善されることは少なくありせん。たとえば、予算を使う手続きです。いまは文部省の公費、科研費など細々と決まっていますが、法人化すれば、会計年度ごとの清算といった決まりごとがなくなり、翌年度への繰り越しが可能になるなど、便宜がはかられるはずです。
財政上の壁、費目の壁がなくなる、少なくとも薄くなることで、研究の長期計画が立てやすくなります。また、教員数も現行の総定員法という縛りもなくなり、スタッフの増減が自由になります。学長、学部長は「緊急にこの研究者が必要だ」というときに招聘するのが楽になります。また、給与の決定にも自由度が加わるでしょう。
独立行政法人化をすすめるにあたっては、大学評価をどのように行うべきかが大きな課題になります。教育と研究のそれぞれの評価のあり方を考えてみましょう。
教育について、日本の大学は「フンボルト精神」にあふれすぎたきらいがありました。これは、専門分野で一流の研究をする人が一流の教育を行える、あるいは、一流の教育を行う人は一流の研究を行う人でもあるという考え方です。
しかし、実際、研究者としても教育者としても一流でなければというフンボルト精神だけではだめです。いまや、大学へ入学してくる人たちの性格は大きく変わりました。そこで求められるのは、教育に対する工夫です。なにをどう教えるか、そして、自分自身のレパートリーをいかに増やすかです。もちろん、教育の基本的な技術も考えなければなりません。たとえば、黒板のどこからどこまでが見えやすいか。板書にあたって字はヘタでもいいが、はっきりわかりやすいか。声が小さくないか。マイクロホンを使えるか、などです。
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うまく教えられたかどうかを判断するためには、学生からの評価を受けなければなりません。すなわち、授業評価です。残念ながら、日本の大学教員は授業評価を嫌がる傾向があります。しかし、それほどむずかしく考える必要はありません。たとえば、休講や遅刻がなかったか。講義の準備は十分だったか。学生からの質問にきちんと答えることができたか。学生の講義に対する理解度をテストなどで十分に測ったかなど、項目ごとの評価を受ければいいのです。これらは形式的なことかもしれないが、教育の質の一部を見ることができるのです。
授業評価が人事考課に反映するということはないでしょうが、教員は自分の教育の方法の目安として受け止めなければなりません。教員としては、どうしても研究に力を入れたい時期があるでしょう。そのようなとき、授業時間を減らして、研究期間を増やしても構わないのですが、その分、密度の高い授業を行ってほしいものです。
次に研究評価について考えてみます。方法論としては、論文発表数、被引用度数、国際会議などへの招聘の有無、研究者へのインタビューなどがあります。論文発表数だけでは質の部分で判断できない場合がありますから、どれぐらい引用されたかの指標が必要になってきます。
論文発表数が少ないからといって、その研究者はダメだと決めつけられないことがあります。また、限られた分野ではどうしても引用される度合いは低くなりがちです。いずれの場合も、評価者がその研究者にインタビューすることが必要です。遊んでいて論文をかけないのか、それとも、いい研究を続けているが、すぐに成果をあげることが困難で、論文としてまとめるのに時間がかかったのか。反対に、いくら論文をたくさん書いたからといって、上っ面のことしか研究していないのではないか。これらは、インタビューをすればだいたいわかることです。同僚による評価が重要です。学問分野によっては、評価者が少なく、内輪でインタビューし合うことがあり、どうしても評価が手前味噌になってしまいがちだといわれます。それでもいいではないかとすら、私は思っています。
競争がなくては資金を
獲得できない
大学の教育・研究内容について、少なくても5年に1度は同僚には知らせるべきです。たとえ一定の成果をあげられなくても、そのプロセスは公表すべきでしょう。もちろん、大学内にとどまらず、広く社会へ向けて。国立大学は税金を使い、私立大学も国からの助成を受けているのですから、国民に対してアカウンタビリティー(説明責任)をしっかり果たしてほしいものです。最後に、日本の高等教育を発展させるため、私の希望を申し上げておきます。教官1人あたり積算校費は、これまで一講座につき非実験系で200万円、実験系で800万円となっていましたが、2000年度から一律200万円になります。しかし、ほぼ今までと同じ額のものが各大学に配分されます。その配分は各大学で決めることになります。したがって、実験系で800万円でやっていた講座は、予算が足りなくなるので、各大学で学長が教育研究費予算を実情に合わせて配分しなければならなくなりました。そこで、教員1人あたり積算校費の最低限の金額(アカデミック・ミニマム)を増やして安定させることを、私は訴えたいのです。文科系の非実験講座でもコンピューターのメンテナンス費や通信費が研究の足かせになっています。すべてを一律800万円にすることが理想的だと思いますが、ともあれ、最低額を引き上げるべきです。
積算校費以外の研究費は科研費、外部資金でまかなわなければなりませんが、競争しないで研究資金を得られるという時代は終わりました。最低限の金額以上の資金を獲得するためには、すべて競争原理にさらされなければならないのです。
私は、それほど日本の大学について悲観的に考えてはいません。地方の大学で講義をおこなうことがありますが、すばらしい学生がたくさんいます。ただ、地方の大学には横並び意識が根強くあることが不満です。どうやってそれを捨てて個性的で特徴ある大学を作るかが課題です。それはすべての大学にあてはまることでしょう。
日本の子供たちはすばらしい資質を持っています。問題は育て方にあります。大学がもっと緊張感を持てば、日本の教育全体がレベルアップすると思います。
(聞き手・朝日新聞社編集委員/清水建宇 構成・編集部)