独行法反対首都圏ネットワーク |
アソシエ21 ニューズレターより
(2000.4.6 [he-forum 787] アソシエ21 ニューズレター)
http://www03.u-page.so-net.ne.jp/yd5/associe/
アソシエ21 ニューズレターNo.7 1999.11
リレー連載●国立大学からの発言(第一回・山口大学)
地方大学から見た独立行政法人化 植村高久
国立大学を独立行政法人化(以下「独法化」と呼ぶ)しようとする動きが急である。九月に文部省が独法化を受け入れる方針を示し、年度末には具体的な内容が固まる。来年度には、各国立大学は独法化するかどうかについての意思決定を迫られることになろう。
国立大学の独法化は、中央省庁再編の目標として国家公務員の二五パーセント削減が掲げられたことと関連して突然、現実味を帯びてきた。国立大学は(郵政を除く)国家公務員の二割強を占めているため、その独法化なしには目標達成が不可能だったからである。したがって、独法化は、文教・科学技術行政の面から、十分に検討されているとは言えない。長期にわたって日本の高等教育と科学研究に影響を与えるはずの、「百年に一度」と言われる国立大学の大改革が余りにも性急に行われようとしている。
大学内では独法化を歓迎する声はほどんどないが、強い反対意見も余り聞かれない。いずれにせよ独法化は受け入れざるをえないというのが、多数派の見方であろう。
こうして、国立大学は“競争”と“淘汰”の時代を迎えつつある。この過程で国立大学全体が全く様変わりしていくはずである。
少子化によって、二〇一〇年には大学志望者と入学定員がほぼ見合う時代を迎える。私立では経営危機に陥り、淘汰される大学が出ると予想されている。すでに私立では“生き残り競争”が始まっている。
国立大学への風当たりも強くなっている。税金に支えられた安い授業料は“民業圧迫”だと批判されている。また、国立大学は私立より有利な教育条件を持っていながら、私立より高い質の卒業生を送り出していないと、怠慢を指摘する声もある。「国立を守れ」と言えば、私立だけに犠牲を強いる国立のエゴと見なされる。いずれは国立も“生き残り競争”に加わらねばならないことが、明らかになった。独法化は来たるべきものが遂に来たと受けとられている。
独法化は国立大学を削減・整理する政策である。大学(法人)を単位にして“生き残り競争”を行わせ、脱落した大学は容赦なく処分されることになろう。そのため、大学は法人に編成替えされ、独自の財政と教育・研究上のある程度のフリーハンドが与えられる。
だが、独法化は独立採算制ではない。国立大学は、私立に比べて学生当たりではほぼ倍の教員がおり、授業料は半分程度にすぎない。教員数を急に減らすことはできないから、独立採算のためには、授業料を非現実的なほど引き上げる必要がある。独法化後も、経費の過半はやはり国からの支出に頼らざるをえない。
国立大学における“生き残り競争”は、国費の配分をめぐるものとなる。現在、国費は学生数や教員数から算定された定額が配分されているが、今後は第三者機関(大学の“格付け”機関)が行う「評価」によって配分額が変動することになる。教育研究等で努力し成果を挙げている大学には国費が手厚く配分され、これを怠る大学には懲罰的に配分が減らされる。投入された税金に見合っただけの仕事をしていることを大学自らが挙証せよ、という要求と見ることもできる。
国立大学すべてが同じ土俵に立って競争するなら、問題は少ないかも知れない。だが、初めから有利・不利がある。文部省は、“民業圧迫”だとする国立大学への批判をかわすために、今まで国立大学の主柱だった学部段階の教育を縮小し、重点を大学院に移す政策を採っている。大学院は私立との競合が少ないからである。さらに主に理科系の基礎研究は、国立大学が支えてきた領域であり、税金投入の名目が立つ。そこで“生き残り競争”では、理科系中心の大学や博士課程の大学院が整備された大学が有利だとされる。東大、京大や旧帝大クラスの大学は、この安全圏にいる。逆に、学部段階の教育中心の大学は、政策的に縮小を求められつつ競争に臨まねばならない。こうした不利を背負った大学は、概して“生き残り”が難しいと見られている。私の勤務している山口大学もそうだが、地方大学の大半が、この存続が難しいグループに入る。
山口大学のような大学で、独法化によってまず予想されるのは、収入不足である。これが教職員を削減させる強い圧力となる。
しかし、教員の数を減らしながら、教育研究活動の「評価」を高めることは難しい。もし教員減が「評価」の低下をもたらすようになれば、収入減と「評価」の低下が連鎖する悪循環となる。そうなれば淘汰は不可避である。廃校か、統合か、あるいは地方移管か、いずれかの形で大学は処分されざるをえない。
独法化は「強い薬」である。独法化する、しないにかかわらず、大学志願者に対して大学が過剰だという事実があり、国立大学の縮小も避けられない。だが、縮小は、学部等を少しずつスリム化するようなやり方でも可能だった。これに対して独法化は、大学という単位で“処分”しようとするかなり乱暴な“ショック療法”である。
このショック療法が実際にどんな効果を生むか、まだ予測がつかない。たいていの地方大学から見れば、独法化は報奨システムというより、懲罰システムとなるだろう。研究費やボーナスが減らされることに、教員はどう反応するだろうか。やる気を起こすか、それとも士気の低下となるか、このあたりが存続の鍵になるかも知れない。(山口大学教員)
アソシエ21 ニューズレター No.9 2000.1
■リレー連載●国立大学からの発言(第二回・北海道大学)
国立大学改革論―自由主義は何を批判しうるか 橋本努
国家組織の多くを独立行政法人へ移行させるという行革案は、すでに橋本龍太郎内閣の段階から検討されてきたが、昨年八月になって急に、小渕恵三内閣の公約である「国家公務員二五%削減」の数合わせのために、国立大学のすべてを法人化するという「妙案」が浮上した。昨年一月の「中央省庁等改革推進大綱」では、この問題については二〇〇三年までに結論を得ることになっていた。ところがここにきて、本年中に結論を出さなければならないとの方針が示され、現在、国家の教育組織全体にかかわる変更が、思慮と理念を欠くまま実行されようとしている。このような拙速さに対して、われわれはまず、時事的な政治状況に左右されるような性急な判断を拒否することが賢明であろう。巷では国立大学の独立行政法人化は「不可避である」という言説が横行しているが、しかしわれわれは、単純に賛成・反対の立場をとれる段階にはいない。
事務的業務ならともかく、そもそも国立大学の教育・研究を独立させることの財政的効果は疑わしい。現在の国立大学の予算は約一兆五千億円であるが、これに対して小渕内閣は年間三〇兆円を超える積極的な国債発行を実施している。政治経済の現状からみれば、急ぐべきは国債発行の抑制策であって、国立大学の支出削減ではない。また、高等教育に対する公的財政支出は、対GNP比でみて、アメリカ一・一%、ドイツ一・五%、日本〇・七%であり、日本はこれまで高等教育への投資を惜しんできたのであるが、最近ではむしろ増額の方向で検討されており、高等教育は財政削減の対象ではないことが分かる。
このように、独立行政法人化を「経費削減」のために進めることは、実際には国家の教育・研究政策ではない。国家の狙いは、大学の知的資本を「国家繁栄」のために活用すべく、競争原理と裁量的管理の両方を実現するようなシステムの確立にあるのだろう。そしてその場合、国立大学の独立行政法人化は、一方では、業績競争の促進、可変的給料体系の導入、雇用の不安定化、パートタイム労働の積極的活用といった、いわゆる「新自由主義」的政策を取り入れようしている。しかし他方では、五年という中期目標の自主的提出とそれに基づく予算配分によって、国家が各大学の発展と衰弱を裁量的に評価しつつ、国家のために教員を動員するという「集産主義」的政策を取り入れている。一般に自由主義と集産主義とは対立する思想であるが、しかし今回の改革では、この二つが相補的に結合しており、いわば「自由集産主義」とでもいうべき改革が進められている。
この自由集産主義に対して、われわれはいかなる態度を取りうるだろうか。これまでの反論は、およそ以下の四つにまとめられると思う。
第一に、改革の「新自由主義」的側面を批判し、雇用の確保や給与の均等性を求める立場がある。これは主として大学の教職員組合の運動にみられる。
第二に、改革の「集産主義」的な側面を批判し、大学運営や研究を裁量的に評価することへの危惧を表明する立場がある。これは自由主義および一部の左翼に見られる反権力主義の立場に共通する見解である。
第三に、改革における自由主義と集産主義の両側面を批判し、このどちらによっても育むことのできない「教養」を重視する立場がある。教養派は、実際には数年前の全国的な教養部廃止策によって痛い敗北を経験しているのだが、しかし独立行政法人化に対する力強い反対論を提出している。そもそも教養の教育は、金銭的によい生活をしたいというエゴから解放されることを美徳として称揚してきた。彼らによれば、教員の生活は政治経済的関心に晒されるべきではなく、また、教養や教育の問題はこれを政治経済化しても解決されないと考える。
第四に、そもそも知的発展のためには膨大な時間と無駄が必要であり、大学において評価すべき目標は中期ではなく長期でなければならないとする見解がある。なるほど、職業教育や応用的な技術開発の部門では独立行政法人化は望ましいとしても、基礎研究や哲学的部門については中期的評価が難しい。したがっていくつかの部門は国立大学に留まるか、あるいは「個別法」に基づく独立行政法人化が望ましいだろう。(一部の大学院大学を国立大学として残すというのは民主党の案でもある。)
以上、四つの反論形態を示したが、自由主義の立場からみた場合、国立大学改革の最大の問題は、単一の評価機関によって裁量的に評価するという集産主義的側面にある。そのような評価によって効率的になる部門は一部にすぎない。それゆえ独立行政法人化は、部門別に分けて行う必要があるだろう。自由主義は必ずしも、中期的効率性を重んじる功利主義でもなければ、市場原理主義でもない。私は成長をベースにする自由主義の立場から、知的成長のためには膨大な無駄が必要であることを認めつつ、国家管理の限界に注意を喚起したい。と同時に、積極的には、評価の長期性と複数性を実現するような政策を求めたいと思う。
(北海道大学教員)
アソシエ21 ニューズレター No.10 2000.2
■リレー連載●国立大学からの発言(第三回・群馬大学)
不毛性の拡散――対症療法を超えた自己吟味を 砂川裕一
昨年のもう晩秋になった頃であったが、群馬大学の一つのキャンパスで開催された学園祭の日に、教職員組合の主催で独法化問題に関するシンポジウムが開かれた。基調講演を依頼した阿部謹也氏の知名度が高かったこともあり、また独法化問題への関心も相応に高まっていたこともあって、群馬大学でのこの種の集まりとしては学生も含めてまずまずの盛況であった。――独法化問題(ここでは国立大学の独立行政法人化問題)が政策や行政の面で何が意図され何を意味する可能性があるかについてはここでは紙幅を惜しもうと思う。すでに本「リレー連載」の前二回で植村氏や橋本氏が整理されているとおりであろうし、またマスコミを通じて当面我々が知りうることがらは流布されていると思われるからである。――とは言え、阿部氏の知名度と独法化問題の及ぼす影響の大きさとを考えれば、そしてさらに同じ時間帯に学園祭のメーン企画として数学者で大道芸人でもあるピーター・フランクル氏の講演会が組まれていたことを考え合わせたとしても、約八〇人という出席者数は群馬大学における独法化問題に対する関心の表層化の度合いを語って余りあるものであろう。
とりあえず態度を明らかにしておきたいが、私は独法化には現状では反対である。しかし、国立大学が、とりわけ地方国立大学がこの問題に関してどのような態度を採りうるかあるいは採るべきかについて、少なくとも私個人の態度としては腰が定まっているわけではない。大学の、とりわけ国立大学の、そして地方国立大学――この表現には、例えば、地域社会の具体的ニーズに応えるその地方に根ざした個性のある研究・教育の中枢的機関としての自負や、大手とりわけ中央の大学に対して人的資源も予算規模も知的活動力も劣る田舎大学という自嘲や、世界へ向けて日本の研究と教育を担う先端的優良大学に対して地域という名の地方への教育サービスに自己の研究と教育の矮小化を強いられる二流大学という自己卑下など、いくつかの価値意識が絡むが、その地方国立大学――の知的な情況は、かつて大学解体が叫ばれていた頃のそれと何かが変わっただろうか。根底的な批判に曝されて三〇年を経て本質的に何が変化したか。しかし、大学を解体して事がすむわけではないし、独法化したからといって文部行政の軛から逃れられるわけでもない。独法化に反対して守るべき大学の自治もまた空疎な響きを否定できない。地方国立大学のひいては国立大学の現状を強いて作りだしたのは文部行政であるが、その軛を内在的に解き放つことができなかったのは他ならぬ大学人自身である。
大学教師は研究と称して役にも立たないことに金と時間を使っているとか、研究を優先して学生の教育をおろそかにしているとか、研究・教育に携わる当事者からすればおよそ納得のいかない評価がいつの間にか定着してしまっている。実態に対する無知と誤った情報と幾ばくかの悪意がなせるものと開き直りたくもなるが、そういう風潮を助長してきてしまった側面が大学人の側にあることも否定はできない。独法化という理不尽が大学の外のみならず内においても大きな抵抗を引き起こし得ていない理由の一斑もそこにあるだろう。
しかし、国立大学の教員は国家公務員として週四〇時間の勤務時間を拘束されている。いわゆる残業手当は無い。週数コマの授業だけで暇でいいですねと言われることがあるが、その数コマの授業と授業の準備と後始末と学生への対応のために、そしてその学生たちの学習環境や生活環境を整えるために様々な会議や事務作業をこなすことで、勤務時間の大半は消えてしまう。学会や研究会を維持するための実務的な作業が週末や夜の時間を喰い散らかす。最も削りやすい時間は研究時間と睡眠時間である。そんな日々を送っている教員が国立大学にも少なからずいるのである。愚痴を言いたいのではない。独法化によって、つまりは経済効率を基準とした競争原理によって、まず淘汰の対象となるのがこういう教員たちであるということである。独法化によって教育の荒廃が完成するというわけである。
さらにつけ加えなければならないことは、学生の教育は言うまでもなく生涯学習という名の地域教育においてもまた、その教育の質と水準を左右するのは当の教育に携わる教員の、そして教育の場としての大学の研究の質と水準そのものに他ならないということである。言わずもがなのことではあるが、研究よりも教育をという発想それ自体が教育の質を破壊していくのだ。独法化によって、あるいは地方移管という事態によって、地方国立大学が研究機関よりも地域の教育サービスセンターへとシフトしていくことで、その地域的知的公共性へのかけ声とは裏腹に地域の知的な活動力を弱体化させ、上述した地方国立大学に絡み付く価値意識の不毛性(それは中央大手の大学の価値意識の不毛性の裏返しでもある)を地域社会全体の脆弱化へと拡散させてしまいかねない。
独法化反対の主張の多くは学問の自由や大学の自治を守れと言う。教員のみならず多くの事務職員や現業部門の職員の職場を守れとも言う。確かにそれらは守るべきものではあり、当面の態度の取り方としては対症療法的な守りにも意義を見出しうるが、より根底的に問われるべきは守るべきものではなく、現状をどう変革していくかである。大学人としての自己吟味を潜り抜けつつこの腹立たしい現実に対してどのように切り結ぶべきか、あるいは、分離と統合のベクトルが交錯する現代社会の趨向の中で、一地域が一地方に閉ざされるのではなく、社会的にも文化的にも多様な空間と価値とに開かれる地域性をどのようにして創出できるか――そのような「研究と教育の相補性・相乗性」を強化する方途を早急に提示することが求められるように思われる。
(群馬大学教員)
アソシエ21 ニューズレター No.11 2000.3
■リレー連載●国立大学からの発言(第四回・茨城大学)
リアルな共通利害の摘出を 新田滋
国立大学の「独立法人化」の問題は、教育や大学をどうする、といったこととは一切無縁なところから、「国家公務員二五%削減」の数合わせの手品の種としてだけ浮上してきた。あまりに馬鹿らしくて、賛成とか反対というレベルの問題ではない。私学化よりも「独法化」のほうがはるかに悪いのは、それが官庁の天下り先の特殊法人と同じような立場に置かれることになりかねないからである。偽の「行政改革」によって焼け太りのようにして肥大化することとなる「文部科学技術省」という官庁の、である。そこでは確実に官僚制一般の不透明性が拡大再生産され、大学は今以上に自由な研究環境を求めて海外に流出する頭脳の残り滓の場所となってしまう。つまり、この列島の知的な空洞化が促進され、ますます冴えない居住空間となっていってしまうわけである。
「独法化」だけは誰がどう考えても最悪の選択であり、阻止すべき選択肢である。国立大学を「独法化」するぐらいなら、まず文部省をこそ独立行政法人にでもすべきだろう。
この問題には無関心な人々にも、「独法化」とはどういうリスクがある選択肢なのかということを、イメージとして伝えられたらと思う。くれぐれも、一九六九年の「大学解体」がこんなかたちで現実化したなどという非現実的な夢想は、冗談だけにしておいて欲しい。いかなるポリシーも(諜報とすら訳されうる)インテリジェンスもない蛮行によって、将来のいかなる社会構成・人種構成であるかもわからない日本列島上に住む世代に受け渡すべき文化的インフラの一切を、たらいの水とともに赤子まで流し去ってしまってはならないのである。
だが、問題は国立大学に対する不評にこそあるのではないか。それはそうである。しかし、何が不満で問題なのか。じつに複雑極まりないはずではないか。「市場」の魔法に委ねることで、エコエコアザラクと呪文をかけたかのように複雑な問題群が解決するわけもない。つまり、市場原理主義の発想に立つ限りでは、せっかくの私学化の発想も不毛にしかすぎない。もちろん、「市場」の効率性を活用することに吝かである必要はない。しかし、それは何かの薬品の有効性を活用するのと同じであって、ごく限定された場合にしか有効ではない。そういったことは、さまざまな流派の理論経済学が解明し尽くしているところである。市場に委ねたのでは供給価格が高くつきすぎるが、社会的なニーズとして低廉に供給したほうがいいと考えられたものは、公共財・公共サービスとして税金を使って供給する。だから、東京大学などの旧帝大などは私学化したほうが明らかに効率的だとしても、茨城大学のような地方国立大学はそうはならない。現に米国では、ハーバード大学など学費三〇〇万円もする私学と、低廉な州立大学(日本の地方国立大学に相当)が棲み分けしている。
そんなことも無視して市場原理を万能薬のように信仰するものは、「市場原理主義」と揶揄されてしかるべきである。しかし、揶揄され馬鹿にされるに値するイデオロギーだからこそ、それが現実力に転化したときにはおぞましい結果を招来する。そうしたことは、二〇世紀にはナチスの政権獲得によって余すところなく示された。「中世暗黒時代」が再現され、「啓蒙の近代」への自信喪失が根深くもたらされることとなった。ところで、本物の「中世暗黒時代」とはどんな時代だったか。いうまでもなく古典古代ギリシア・ローマの豊饒な文明や哲学の光明を「異教」として弾圧した後にやってきた、宗教原理主義的な暗闇の時代であった。その暗闇の蔭で旧約聖書の民への迫害によって満たされる人々のカタルシスが正当化されもしたのであった。
古代ローマ帝国において象徴的な事態は、当時のキリスト教原理主義の国教化により、プラトン以来千年の歴史を誇ったアカデメイアがついに六世紀頃に閉鎖されてしまったことである。その時から、「それでも地球は丸い」というガリレオの宗教裁判の時まで、やはり千年以上の歳月が学問にとって空しく過ぎ去った。そのキリスト教も、やがて自由な学問の光明と共存する境地に達して、「啓蒙の近代」が明けそめ得た。しかし、キリスト教原理主義は、実際に千年(ミレニアム!)以上にもわたり人間の知的営為を暗闇に閉じ込め続けることができたのである。「市場」も効率性を発揮する限りでは良きものであるが、「市場原理主義」が何をもたらしうるのかについては、われわれは確かに想像の恐怖感を喚起してよいと思う。
「独法化」をめぐる私の個人的な考えは、国立大学を十把一絡げにして議論することは混乱のもとだということである。なぜならすでに述べたように、東大型はハーバード大学をめざして私学化してよいのだし、茨大型は米国の州立大学のように低廉な高等教育を公共財・公共サービスとして税金を使って供給することに、社会的なニーズがあるからである。そこのところを隠蔽して国立大学群が「幻想的共同性」に包まれるとき、最後に弊履の如くに捨て去られるのは誰か――。
しかし、私学・官学・「独立行政法人」などいかなる形態であれ、そもそも高等教育・研究への公的財政支出の割合が、ドイツに比べて半分しかないという知的惨状に立ち向かうためには、幻想的でないリアルな共通利害の摘出による統一戦線の構築こそが必要であろう。(立花隆氏ほどの科学ジャーナリストさえ『科学技術白書』の瞞着にみちた図表に眩惑され、日本の研究費を巡る環境はすでに世界最高水準だから、今後は厳しい競争こそが必要だと錯覚しているほど危機的な認識状況がある。)
(茨城大学教員)