独行法反対首都圏ネットワーク

国立大学の独法化問題と文化/天岸祥光 静岡大学理学部長
(2000.3.30 [he-forum 761] 国立大学の独法化問題と文化)

 『大学の物理教育』3月号(小特集・独立行政法人化)に掲載の論文です。
 脱稿は昨年末と承知します。その後、事態は慌わただしく展開し、また議論は大学論・学問論へと深化していますが、独立行政法人化の問題点そのものは依然として解決の兆しを見ません。著者の了解を得て紹介・配信させていただきます。

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国立大学の独法化問題と文化

 天岸祥光 静岡大学理学部長

 既に成立したあの通則法(注1)を戴いて、今文部省が検討している方向で99の国立大学が独法化した場合、国立大学はどうなるのか.私の直感的な結論から先ず述べることにする.それは、
1)大学における物理教育はいかにあるべきか、などと教育を真剣に考える人達、あるいは知の文化を維持していく原動力になる人達が国立大学から次々と姿を消していくであろう、

2)「独立」というからには、大学は文部省の縛りから解放されると思われがちであるが、それは間違いで逆に縛りが強化され、結局文部省の一人勝ちになるであろう、

 ということである.従って、国立大学がこのまま本当にこの通則法の下に独法化されることを許すならば、我々国立大学の教官は少なくともこれからやってくる若者達に何と懺悔したらいいのだろうかと考えてしまう.
 文部省も初め独法化に反対した根拠の一つになっている通則法については、もうあちこちで議論され、問題点が指摘されているので今更とも思うが、どんな「特例法」がその下にできようと(国大協が言っている「特例法」あるいは「特例措置」と文部省の言っているそれはニュアンスが違うという主張があるが、あの通則法の下でのそれである限り、大同小異である.)、こんな法律が我々の「憲法」となるのかと考えると、目眩がするし、とても信じられないことが白昼堂々とまかり通ることへの虞を拭い去ることができないので、私なりにそのことについて次に述べることにする.
 通則法の第2条に謳われているように、独立行政法人の目的は、「国が自ら主体となって直接に実施する必要のないもののうち、民間の主体にゆだねた場合には必ずしも実施されないおそれのあるもの又は一の主体に独占して行わせることが必要であるものを効率的かつ実効的に行わせること」であり、その法人は「適正かつ効率的にその業務を運営するよう努めなければならない」(第3条)のである.そして、主務大臣は各独立法人に対し「3年以上5年以下の期間」の「中期目標」を定め(第29条)、各法人はその目標を達成するために「中期計画」を作成し、主務大臣の許可を受けなければならない(第30条).また、各法人は各事業年度における実績について、主務省に置かれる「独立行政法人評価委員会(第12条)」の評価を受けなければならない(第31条)し、その評価委員会は政令で定める審議会に対して、その結果を通知し、必要があれば法人に対して「業務運営の改善その他の勧告をすることができる」(第32条)のである.審議会は各法人の事業の改廃に関し、「主務大臣に勧告」することができ、主務大臣は「所要の措置を講ずるものとする」(第35条)のである.一方、法人の長(学長)は主務大臣が「任命」するのではなく「指名」するのであり(第14条)、また、「交付金」の会計は「企業会計原則」とする(第37条)と記されている.
 以上からも主務省の監督権はいやがうえにも巨大化することは明白であり、こういった法人を「運営」するには我々素人ではダメで、マネージメントに長けた専門家が主務省から天下り的にやってくることも想像に難くない.特に第18条の主務大臣が任命する「監事」とは、まさにそれではないだろうか.一方、大学の行う教育・研究活動を「業務」とか「行政」と呼ばなくてはいけない違和感もさることながら、この通則法のどこをとっても大学を念頭に置いて作られたものでないことも一目瞭然である.例えば教育が3ー5年のスパンで「効率的」に行われたかどうか評価されるなどということは、正気の沙汰ではない.これでは入学試験の倍率や就職率のような単年度ごとに数値化できる項目だけでその大学の「教育」の実績が評価され、教育100年の計などという言葉は死語になってしまう(既に死語になっている?).基礎的な学問の研究活動においても然りである.こういった民間資金に頼ることの難しい長期的で大胆な資金投入の必要のある部門が真っ先に矮小化されることは火を見るより明らかである.
 あれよあれよという間にこのような事態になってきたのは、言うまでもなく国家行政のスリム化のために、橋本内閣によって設置された行政改革会議に端を発している.しかし急速に加速度を増したのは、小渕内閣の下の「経済戦略会議」にあると思う.その最終答申で、規制緩和と市場原理を導入し、国立大学を独立行政法人化し将来的には民営化も視野に入れて、段階的に制度改革を進めることをあげている.
 もともと、大学のみならず小中高の教育方針は産業界と連動している.かつて小学校の算数のレベルが世界的に高かったのも、我々の時代には高校で3科目の理科が必修だったのも、直接・間接的に産業界のそのような教育界へのテコ入れがあったからだと思う.我々大学人も、結局は多くの学生を産業界へ送り出しているのだし、その就職率を大学間で争っているのである.今は「理科離れ」だの「分数が分からない大学生」が話題になっているが、こういった問題は大学の大衆化も原因になっているとは思うが、それにも増して、情報化時代を迎えた産業界(第2次産業)がこれまでの基礎的な学習よりはもっと情報化社会に相応した効率的な学習・内容を修得した(パソコンを操作できる)人材をより多く求めはじめた事と無縁ではないであろう.このように、都市化=工業化が進み、文明が巨大化するにつれて、当然の事ながらその基盤の一翼を担っている大学に対する文明社会からの要求は肥大しかつ内容も変わってくる.すなわち、今回の国立大学の独法化問題は国家公務員の定員削減と連動して産業界の圧力も無視できないのである.
 しかし一方で、ヨーロッパの大学の生い立ちからも分かるように、もともと大学というものは、非生産的、非権力的な「知の営み」を営々と支えてきたのであり、言ってみれば人間の文化的活動の内、「知」の部分を担ってきたのである.こう考えると大学は文明と文化の両面を支える原動力になってきたといってもいいであろう.文明と文化は明らかに違うが、村上陽一郎によれば、文化というものは一般的には攻撃性はないが、ある「文化」がある時他の文化をブル・ドーザのごとくなぎ倒し始め肥大化すると、それがやがて「文明」になるのだという.しかし、普通は自ずからこの二つは性格を異にしているはずで、文明化とはエネルギーを大消費する都市化のことであり、文化とは本来人間の心底からの営みのことであり、そこには「遊び」と「祈り」が込められ、時間を超越したものがあると思っている.
 明治になって一気にヨーロッパの大学を「輸入」した日本の大学(東京帝国大学)は、初期の頃から工学部を持っていた.これはある意味において、世界に例を見ないほどの画期的なことであった.つまり、「知の文化」を中心に据えてきたヨーロッパの大学が、文明を支える部分の導入に対して依然ためらいを見せていた時期に、さっさと文明の担い手を大学の中心部に据えてしまったのである.「科学」を生み育てる過程を経験してこなかった日本は、「科学」と「技術」を明治以降いきなり輸入したため、その価値観のちがいをしっかり認識する時間的余裕がなかった.「科学技術創造立国」、「科学技術基本法」などの名称にみるまでもなく、日本人はとうの昔に「科学技術」(「科学と技術」ではない!)という欧米にはない新語を発明した.「科学」と「技術」を殆ど同意語のように使ってなんら違和感を持たない日本人の感覚がこうして生まれたのだと思う.このように「科学」のみならず「文学」に於いても「文明」が優先してきたのが日本の大学の現状であろう.さて、この様に考えてきて、今度の国立大学を独立行政法人化しようとする動きは、国立大学を一歩進めて「文明」の維持・発展装置としてのみ機能させ「知の文化」の原点を抹消しようとする行為である、と言ったら言い過ぎだろうか.
 平成12年2月には国大協の臨時総会が開かれるだろうし(注2)、そのころ文部省の方針ももっと顕在化してくるであろう.しかし私が非常に心配していることは、こんな重大な時期を迎えているのに、肝心の国民の殆どが事の重大性を知らないということである(大学人も本当は良く分かっていない、という問題もある).これは誰の責任であろうか.大学審議会は平成10年10月に「21世紀の大学像と今後の改革方策についてー競争的環境の中で個性が輝く大学ー」という答申を出し、その中身を吟味する間もなく、それに基づいて国立学校設置法等の法律が大幅に改正され、一方「答申」に沿った大学改革が求められ、どの国立大学でも大変なエネルギーを費やして「改革」を検討してきた.しかしその分厚い「答申」には、独法化問題についてはほんの一行程度しか触れていない(「中間報告」では全く触れてなかった).ある意味では、国立大学は最近この大学審議会の無責任な「答申」に振り回されてきたといってもよい.今その渦中に居る我々大学人は、評議会を中心に、一方で「独法化問題」を議論し、一方で「改革」を検討し、一体毎日何をやっているのか自分自身でも整理がつけられない状態である.もともといろいろな点で国民にアッピールすること怠ってきた国立大学ではあるが、今回は何はさておいても国民の理解を得るべく我々大学人が行動すべきであったはずなのに、その行動が鈍かったのは、言い訳がましいことを承知で言えば、この「答申」による大学改革に翻弄されてしまっていたことも無視できないと思っている.それにしても、「独法化」と「答申」の両方に深く関係した有馬前文部大臣の思考過程には純物理学的にはとても理解も納得もできないものがある.
 大学に「改革」が必要なことは誰も否定できない.しかし、「通則法」に基づくこのような理念無き「改革」などどうして許すことができるだろうか.だとすれば、文部省と国大協の緩慢な取引の中で、今我々は緊急に何をすべきなのか、思いあぐねているというのが偽らざる気持ちである.

(注1)http://www.monbu.go.jp/news/
(注2)結局臨時総会は開かれず、一部大学長の集まりが2月末にあったとの情報がある他、3月上旬に国大協の理事会が開かれるとのこと.



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