独行法反対首都圏ネットワーク

英国のエージェンシーと日本の独立行政法人の違い─
(2000.3.27 [he-forum 746] Masahiro Kobori's Home Page (2))

 he-forum 613で紹介した小堀眞裕氏のページに新しい論説が掲載されましたので、お知らせします。

 http://www.asahi-net.or.jp/~YE9M-KBR/

英国のエージェンシーと日本の独立行政法人の違い─

日本型エージェンシーに幻想を持ってはならない。

 英国ではエージェンシーを賛美していない。たしかに、労働党政権下でも受け継がれているが、労働党政権が保守党から受け継いだのはブリティッシュ・レイルの民営化など他にもたくさんある。エージェンシーはそれと比べて英国で賞賛されているわけではない。にもかかわらず、日本でエージェンシーに言及するとき、常にそれは賞賛されてきた。そして、その賞賛を土台として、実際に日本がそれを導入しようとしたときに、英国のものから一層グレード・ダウンさせたものを導入しようとしている。結果として、改革を進める上で、大いに疑問符がつく独立行政法人が今導入されようとしている。

1、実は、英国ではエージェンシーは賛美されていない。

 この間、このHPで日本的エージェンシーのことに触れましたが、いくつか少なからぬ反響もあったので、ここでこの問題に少し詳しく立ち入りたいと思います。こちら英国で私は英国の行政を批判的に研究させていただいているのですが、そういう中で気がついたのは、どうも日本で賞賛されているようなエージェンシーや公共サービス改善に対するここ現地英国での風当たりはとても冷たいと言うことです。たしかに、英国ではブレア政権になって以来、行政面ではエージェンシーを含めてほとんどの保守党政権期の試みが受け継がれているのは事実です。しかし、昨年のパスポート発行の遅延やNHSのフル・クライシスなどを通じてブレアの公共サービスに対する風当たりは必ずしも良くありませんし、また行政学関係の英国の学術雑誌を見ても、エージェンシーやクワンゴ(特殊法人)に対する問題点の指摘などはたくさん見ても、日本の学術論文・雑誌論文でやっているような感じでそれらを賞賛している文献は見たことがありません。

 こういう違いを不思議に思って、日本からいくつかの学術雑誌を最近取り寄せたのですが、さもありなん。日本の学術雑誌で英国のエージェンシーを好意的に書いている論文のほとんどが、Cabinet Officeなど英国官庁の文献しか引用・参照していませんでした。エージェンシーを賞賛する論文を書いている方々には、官僚の方々も多かったので、仲間意識で英国の官僚の資料をたくさん使ったのかもしれません。

 では、英国の学術的議論はどういうものが多かったか。一言で言えば、エージェンシーと行政責任のあり方を問う意見が目立ちました。英国では、大臣責任制という考え方が伝統的に存在しています。この考えは、その省庁内のすべての事柄に対する責任を担当大臣が負うということをさします。日本においてもこれは基本的に同じスタンスで、行政のコントロールを議会が行うために必要な手続きであるわけです。

 ところが、英国で導入されたエージェンシーは、省庁が決めた計画をエージェンシーが実施するという仕組みになっているので、従来の大臣責任制という考えでは対応しきれない事柄が生まれてきました。例えば、エージェンシーで起こった大きな問題としては、チャイルド・サポート・エージェンシーとプリズン・サーヴィス(刑務所)で起きた問題がありました。前者の場合は、問題が発生した後、エージェンシーの長が省庁の大臣任せにせずに、機敏に動き回り、なぜ失敗が起こったのかをテレビ・ラジオで説明して回り、ある意味では良い方向で大臣責任制からはみ出てしまいました。このケースでは、大臣が出てきても詳細がわからないときに、実際の担当者が出てきて国民に説明したと言う点では、アカウンタビリティーにとって良いことであったかもしれません。実際、日本でも薬害エイズの時には、その担当者を引っ張り出すことが重要であったわけで、この点で、エージェンシーも使いようによれば積極的な効果を生み出すわけです(もちろん、この問題を通じても大臣責任制の形骸化という否定的側面を指摘する人もいる)。

 しかし、プリズン・サーヴィスの場合は、これとは正反対の負の側面を浮き彫りにしています(ところで、日本のいくつかの雑誌論文ではこのプリズン・サーヴィスが絶賛されていたが、そう言うものに限ってこの事件には一言も触れていない)。このケースでは、度重なる脱獄事件が起こった後、その責任を大臣とエージェンシーの長が擦り付け合いました。大臣の側としては、責任はエージェンシーの側にあるのであって、したがって大臣は辞任する必要はないというスタンスを取りつづけたのに対して、エージェンシーの長の側は我々は建てられた計画を執行しているだけであって、計画段階での不備に責任を負う必要はない、脱獄事件は刑務所のキャパシティーを考えない計画のせいだったと反論したわけです。結果的に、大臣はエージェンシーの長を罷免しましたが、長は訴訟を起こし、脱獄事件の責任が執行段階になかったことを立証し、裁判に勝って決着しています。

 こうした問題性は、当然日本でエージェンシー制度を導入した際にも起こりうるわけで、当然念頭に置いておかねば成らないことでしょう。

2、日本の独立行政法人は、英国のエージェンシーからも独立している。

 英国のエージェンシーは、こういう問題を持ちつつも、シチズンズ・チャーターやSFNCなどを通じて、市民に対するアカウンタビリティーの向上に対して、意味をもちうる可能性は否定できません。しかし、それが意味を持ちうるとしても、それはエージェンシー制度のみの効果というよりも、その他のシチズンズ・チャーターなどの他の試みがあってこそ、その効果を増加させるものです。

 この点、日本で現在考えられているエージェンシー(独立行政法人)は、ほぼ単独でその役割を担おうとしているといえるでしょう。しかも、その独立行政法人は、いくつかの重要な点で、英国のエージェンシーとは異なっています。その第一は、英国のエージェンシーは省庁から独立しておらず、その下にあるのに対して、日本のエージェンシーは、担当の省庁から独立した法人となります。また、第二は、英国のエージェンシーにおいては構成員は国家公務員であるのに対して、日本のエージェンシーは国家公務員と非公務員方の二つが考えられています。第三に、英国のエージェンシーではその長が多くの場合選挙で選ばれているのに対して、日本では大臣による任命制になる可能性が指摘されています。

 一方で、日本ではあまり指摘されていませんが、英国では90年代半ばにクワンゴ(特殊法人)の非民主的あり方が問題とされてきましたが、そこにおいて問題となったのは、クワンゴが実際には、国家予算の3分の1もの金を使いながらも、ほとんどその実態が知られていないということでした。英国の議会はおろか、監査に携わる機関も状態を把握しておらずに、問題となったわけです。ここらへんの事情は、日本の特殊法人も同じですが、今度できる独立行政法人は、どの範疇に分類されるのでしょうか。英国のエージェンシー場合は、国の機関であることは間違いないので、上部の省庁と同じく監査を受けます。しかし、独立行政法人の場合はどうなるのでしょうか。構成員が国家公務員の場合は、省庁と同じく扱われるのでしょうか。また、非公務員が構成員となるような場合にはどうなるのでしょうか。また、情報公開法では当面特殊法人は対象からはずされますが、独立行政法人はどういう扱いになるのでしょうか。ちなみに、英国のエージェンシーは、英国の情報公開法の対象に入っています。

 こうして見てくると、日本型エージェンシーと言われている独立行政法人は、実は英国のエージェンシーが持っているようなアカウンタビリティーに対する担保をほとんど持ち合わせていないことがわかります。その意味では、日本における独立行政法人に詳しい藤田宙靖氏が言うように、日本の独立行政法人は、日本型エージェンシーとして見ないほうが賢明であろうと思われます。しかし、にもかかわらず、その独立行政法人が曲がりなりにも行革の切り札としての評判を得るためには、「英国で成功したエージェンシーの日本における適用」といううたい文句が有利に作用したことは間違いないでしょう。おそらく、今このHPを読まれる方々の中にも、今の独立行政法人構想は英国のエージェンシーの成果を取り入れたものとして支持できると思っていた方もいらっしゃるかもしれません。

 要するに、第一に、独立行政法人が法制化される背景としては、英国のエージェンシー制度が過度に美化され、またそれが矮小化され、第二に、実際に日本で法制化される段階で、英国のエージェンシーの持つ積極点や英国行政改革の背景が殺ぎ落とされ、結果として、まったくの別物が「英国におけるエージェンシーの成功」という極めてイデオロギー的な操作によって登場したといえるのではないでしょうか。

3、独立行政法人は、改革を促進するか。

 ところで、こうしたエージェンシーですが、果たして本当に日本の行政改革に貢献するのでしょうか。私の個人的な意見としては、それには大きな疑問符がつきます。もちろん、私がこのように日本における独立行政法人に悲観的な意見を書くのは、日本の行政は改革の必要はないというスタンスからではありません。むしろ、巨額の財政赤字を抱える日本にあっては、行政改革は避けては通れないものであることはいうまでもありません。しかしながら、それでもなお、この独立行政法人案に対して否定的な意見を書くのは、それが国民の期待を裏切ることはほぼ確実のように思われるからです。つまり、この独立行政法人を通じて、日本という国は相変わらずの半官半民の税金浪費大国のままでありつづけるか、さもなければ、スリムになるなら何でもいいという拒食症的ダイエットしかできない国になるのかのいずれかのように思われるからです。

 独立行政法人にしたところで、担当省庁からのフリーハンドがどこまで可能なのかの法的担保はありません。中期目標を立てるとありますが、そこで細かい部分が書かれない保証などどこにも無いわけです。もし、細かい部分や核心となる部分まで書かれたり、書かれなくても計画書の作成・提出段階で指導が入るなら、首相官邸自身がHPで自白しているような「事前に『箸の上げ下げ』まで強く統制してしまうので、自発的な効率化や質の向上が図れない」これまでの許認可・指導行政に何ら変わりがないような状況すらありえます。ところで、この首相官邸のHPは爆笑物です。優秀な官僚さんたちも筆を誤ることがあるんですね。自らこれまでの官僚政治に関する批判を認めています。必見です。

 競争原理と言う点でも、懸念があります。目標の段階で、あまりにきつく縛るならば、当然、どんなマネージメントをしても成功は難しくなるでしょう。英国のプリズン・サーヴィスで起こったような、うまく行かなかった場合の責任の擦り合いも当然予想されます。

 また、この問題で一番深刻なのは、独立行政法人が天下りを制限する何らの考慮も持っていないということです。独立行政法人の構成員が国家公務員である限りにおいては、天下りという表現は当たらないかもしれませんが、将来それが非公務員型になり、半民営化状態(まさに一部の特殊法人と同じ)になった場合、喜ぶのは誰でしょう。少なくとも官僚たちは天下り先が増えることになるのではないでしょうか。しかも、計画を作るのは担当省庁で、任命権限も担当省庁の大臣が持っているわけですから、計画をよく知るその省庁の官僚はその独立行政法人を運営する最も有力な候補者と、公平な視点で見てもなりうるわけです。こういう独立行政法人で、国のスリム化はどの程度可能なのでしょうか。

 しかし、藤田宙靖氏がいうように、小渕政権は国家公務員を25%削減するということを公約にしてしまった以上、国立大学の独立行政法人化を含めてそれは断行されるという見方があります。この国立大学の独立行政法人化に関してはこれまで議論沸騰と言う状況で、行政改革会議のメンバーであった藤田宙靖氏自身も国立大学や教育それ自身のためにはならないとHPでも公言しているように、多くの問題点をはらんでいますが、それについては、各HPを参照してください。

 いずれにせよ、この国立大学の独立行政法人化がその哲学と言うよりは、小渕政権の計画から逆算された数合わせ的な性格を持つものであることが雄弁に示すように、本当に国の贅肉を削るための行政のダイエットなどではないということです。

 ここで、英国の行政改革の話に帰りますが、実は英国においては、ここ十年来の改革の過程の中でほとんど一度も「行政改革」という言葉は使われてこなかったという事実に言及しておかなくてはなりません。このHPでは、日本のみなさんに理解しやすいように、英国の行政改革という言葉も私自身使っていますが、こうした表現は実は英国では使われていません。

 それではなぜ使われないか。それは、英国での改革が行政という政治の一部分の改革とは捉えられていないからです。英国では、これまで行政改革という言葉よりも、憲政改革(Constitutional Reform)やモダナイゼイションなどの言葉が使われ、いかに無駄を省くかよりも、いかにアカウンタビリティー(説明責任)を増すかということが議論の対象となってきました。

 つまり、英国での改革の本題は、いかに国家の運営を民主的にして行くのかということであって、日本のように無駄を省くために「大なたを振るえ」ということではないということです。もちろん、日本でやたらと「大なたを振るえ」という表現が用いられる背景には、英国と比べて官僚の権限の肥大化や財政赤字の深刻化などがあることは事実です。しかしながら、英国の成果を学ぶと言う以上、行政改革を結果としての公費の抜本的削減と言う狭い次元で捉えるのではなく、それを通じてより国家が健康になっていくという民主的な視点も必要ではないでしょうか。ただし、ここで一言断っておくと、現在のブレア政権の業績が民主的視点の上で作られてきたと言うことではありません。しかしながら、ブレア政権を取り巻く、世論や学会での議論は、狭い意味での行政改革ではなく、広い意味での国家の民主的改革がアジェンダであったというのは事実です。

 したがって、日本における、とにかく削るという行政改革では、今後日本の行政や未来にとって必要な部分までが削られてしまうという懸念が非常に大きいというはたしかです。本当に削らなければならない部分は何かを議論する前に、英国で成功したという誇張した表現によって独立行政法人が一人歩きしてしまうことは、その意味で非常に危険であるわけです。



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