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「生き残り病」再論/佐賀大学理工学部 豊島耕一
(2000.3.22 [he-forum 721] 学内規則改正問題)
佐賀大学の豊島です.以下は本学の教職員組合のメディアに投稿したばかりの文章ですが,他の大学でも共通するところが多いのではないかと思います.
規則改正問題の議論が少ないようなので,参考になればと思い投稿いたします.
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「生き残り病」再論
佐賀大学理工学部 豊島耕一
勘定者*はすくたるる [卑怯になる] 者也.子細は,勘定は損徳の考するものなれば,常に損徳の心絶えざる也.死は損,生は徳なれば,死ぬることもすかぬ故,すくたるる者也.又学問者は,才智・弁口にて本体の臆病・欲心などを仕隠すもの也.人の見誤る所也.(葉隠,聞書第一)
【規則改正ラッシュ】
この年度末に教授会通則,評議会規則をはじめとして大量の学内規則の改変が行われた.これを審議した1月11日の理工学部教授会の関連議題は21にものぼり,ほかの審議項目もあわせると全部で実に34議題にもなる.他の学部でもほぼ同様の事態であったと聞く.これらを午後2時半から始まる1回の会
議で決めてしまったのだから,最近の国会の「効率」も顔負けであろう.実際教授会が終わったのは夜だったが,それでも十分な審議がなされたとは私には到底思えない.このような非常識な議事運営が行われたことを非常に恥ずかしく思う.しかも改変にはいくつもの重大な問題が含まれていた.
いまさら後の祭りだと思われるかもしれないが,公然の場での批判はいまだに見られないし,少なくとも記録を残すという意味で問題点を指摘しておくことは重要だと思われる.今後も類似のことが起こらないとは言えないからだ.
これらの改変は昨年成立した「学校教育法等の一部を改正する法律」がこの四月に施行されるのに間に合わせるためとされているが,もっと時間をかけて改正したとしても,それで違法状態が生じたわけではない.そのような性質の法改正であったはずだ.しかも法改正自体にも大きな問題があり,組合などが反対運動を行ったのはまだ記憶に残っているだろう.
【評議会規則の問題点】
評議会規則の改正の主な問題点は,学部選出の評議員を減らし,そのかわりに学長指名の評議員というものを加えることである.評議会が執行機関でなく審議機関であるとすれば,これがいかにおかしなことであるかは次の喩えで明白だ.すなわち国会議員の一部を選挙ではなく総理大臣が指名するというのと同じことなのだ.教授会において私はこのような指摘をしたが,明確な回答や反論は聞かれなかった.
では評議会は審議機関ではなくて執行機関なのか.もちろんそれも論理的には可能だろうが,だとしたら審議機関はどれなのか.評議会に代わる全学的な審議機関が存在しない以上,執行機関という言い訳は通用しないのだ.今日ほどあらゆる組織において,内部的あるいは外部も含めて,チェック・アンド・バランスのメカニズムが求められている時はない.それに逆行しての学長による「一元的支配」に向かうような改変は,アメリカ的なやり方の真似などでは全くない.もしそうなら学長をチェックする明確なシステムが同時に提案されているはずだ.何のことはない,二千年以上も古い,とっくに賞味期限の切れた儒教イデオロギー「徳治」への退嬰に過ぎないのだ.
「もともと評議会は『審議』するだけで決定は学部長がするもの」といった文部官僚の珍説をそのままおうむ返しにする人が多いのも困ったものだ.決定なしの「審議」とは一体何だろうか,もしそれがただの「おしゃべり」でないとすれば...
【教授会通則の問題点】
もう一つの「重要法案」である教授会通則改正の問題点の第一は,評議会規則もそうだが,学部長(評議会では学長)が会議を「主宰する」という言葉を使っている点が挙げられる.「主宰」とは,広辞苑によれば「人々の上に立ち、または中心となって物事を取りはからうこと」とあり,民主的な感覚の「議長」という意味合いからは相当外れている.そもそも,審議機関の「議長」と執行機関である「学部長」とを同一人物とすることがおかしいのであり,これを分離する改正こそすべきであった(注1).ところが,これでは逆にいっそう一体化が強まり,しかも学部長のための「諮問機関」への凋落が強まるだろう.
言うまでもなくこれは改正学校教育法の言葉を引き写しにしたものだが,同じ言葉を使わないと違法ということもなかろう.あまりの追随主義,conformismには吐き気を催す.
見逃せないもう一つの問題は,教授会の審議事項(第3条)を法律に無条件に連動させている点である.自らの意思で何を審議するかを決めず,外部組織である国家の決めることに無条件かつ自動的に従います,という,およそ「自治」を標榜するものとしてはあるまじき態度をとってしまった.このよ
うな条文の作り方は実用上も問題がある.常に六法全書がそばにないと何を審議していいのかさえも分からないのだ.
【文化教育学部評議員のとった態度】
上に述べたように理工学部の教授会はこれらの改正案をスピード審議で一回で通してしまった.しかし文化教育学部教授会は評議会規則案に反対を決議した.これには敬服するが,しかしその後の処理に問題がある.何と同学部の評議員は教授会決定に反して,評議会で改正案に全員が賛成してしまっ
たというのだ.
評議員は個人として評議会に参加するのであって必ずしも教授会の意思を伝えるだけではない,という理論はある.しかしそうだとしてもそれにはアカウンタビリティーが付随する.つまり少なくとも所属する教授会で,評議会でどのような態度をとるかをあらかじめ表明しておく義務はあるはずだ.そのような,いわば裏切りの表明にもかかわらず,文化教育学部教授会は評議員の「個人の意志」にまかせてしまったのか,是非知りたいものだ.
このような愚かな改正を易々と通してしまった教授会や評議会の責任は重大だが,提案者たち個人の責任も見逃すわけにはいかない.
【心理学】
以上述べたような批判は,私だけでなく多くの人が持っていたと思う.しかしなぜこのように簡単に,さしたる抵抗もなく通ってしまうのだろうか.実際,理工学部教授会での採決でも反対は多いときでもわずか数名だった.
一つの理由は,われわれが「生き残りのため」というレトリックにあまりにも弱いということだ.そのようなひ弱な精神が大学教職員の「三無主義」をもたらしている.世の中の大勢(見かけだけのものにせよ)に逆らうことは多かれ少なかれ危険な事だが,それに単に従順であるだけでは何の変革もできない.それどころかむしろこれこそ社会全体にとっては危険なことなのだ.半世紀少し前の歴史を見ればこのことは明らかだ.
したがって,「原則に照らしてどこまで妥協できるのか」という永遠の課題に悩みながら,個人や組織にとっての何らかのリスクは覚悟しつつ決定・決断をしていく,というほかはないのだ.「生き残りのためにはやむを得ない」というだけの従順な決定はバカでもできる(注2).批判者に対し「佐賀大学が潰れてもいいのか」といった種類の「反論」を投げつけるというのもお粗末の極みである.
もう一つ,自分の行動や発言のしかたについてそれをあまりにも組織に頼りすぎてはいないだろうか.「組合も何も言っていないし...」という態度だ.「跳ね上がり」という言葉もまだ死語になっていないかも知れない.大組織であれ小組織であれ,その指令を待って行動するというパターンはもう時代遅れで,第一それでは事態の進展に間に合わないのだ.(2000.3.22)
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* 勘定高い者の意味
注1 総理大臣が国会議長を兼務することを想像されよ.あるいは株主総会
の議長を社長が兼ねることを法律で決めてしまうことの異常さでもよい.
注2 このような極端な弱腰状態,腰抜け人間に対する治療本が最近発行さ
れた.
須原一秀,「高学歴男性におくる弱腰矯正読本」,新評論,2000年1月.