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「大学の現在・未来」 東京大学総長 蓮實重彦氏(NHK教育 3月10日放送)
(2000.3.18 [he-forum 710] 視点・論点「大学の現在・未来」東大総長 蓮實重彦氏)
以下は蓮實重彦東大総長(国大協会長)がNHK教育の番組「視点・論点」に出演して述べた主張を、私がテープから起こしたものです。国民にわかりやすく問題のありかを訴えようと工夫なさっていることに敬意を表します。しかし、国立大学の独立行政法人化に反対する最大の理由はそれが「現状維持を助長する防御的な力学をあたりに波及させるから」というのは、わかりにくい論理なのではないかというのが率直な感想です。また、自民党が「国立大学法人」案を検討している状況において、「通則法によるのでなければよい」と、国大協が法人化を容認する方向に向かう危うさを感じました。大学が法人格を持つことの意義と、どのような法人ならば私達が容認できるのか、改めて議論する必要性を感じています。
新潟大学教育人間科学部 森田竜義
視点・論点
「大学の現在・未来」 東京大学総長 蓮實重彦氏(NHK教育 3月10日放送)
日本のマスコミで大学が話題になることはごく稀であります。大学が新聞・雑誌の紙面を飾り、ブラウン管に登場するのは、ほぼ二つの場合に限られています。一つは入学試験の合格発表であり、いま一つは思わぬ不祥事が学内に起こった時であります。前者の報道は季節的に春に集中しており、後者の報道は突発的でありますが、いずれも読者や視聴者からのきわめて熱い反応が期待できるニュースを構成しております。その二つの話題を除くと、あたかも語るに値する出来事など起きてはいないかのように、一年のほとんどの時期を通じて、大学はマスコミから静かに撤退いたします。社会もそのことをあまり不自然とは思っていないように見えます。ところで、大学における教育と研究という出来事は、一年を通じて休みなく行われております。にもかかわらず、年に一度の集中的な報道によって、入学試験だけがあたかも真の出来事のように思われてしまう、それが私達大学人にとってはいかにもつらいことであります。ある大学の入学試験に合格したということは、その入学試験に合格したという以外の何事をも意味してはおりません。それは一つの結果にすぎず、大学における教育や研究で重要なのは、結果そのものより、そこへと至る過程にほかなりません。大学で未知の自分自身との出会いを演じるか否かは、もっぱらそこで生きられる時間的な体験の質に関わりを持っているわけであります。大学にとっての本当の出来事は、報道されることのきわめて稀な教育と研究の質の維持と、その不断の向上にあるからであります。
ところでごく最近、入学試験の合格発表とも不祥事とも異なる大学をめぐるニュースが、マスコミにもわずかながら登場し始めております。それは、行政改革の一環として国立大学を独立行政法人にするという動きをめぐるニュースにほかなりません。これは、政府の行政改革会議が、平成9年に行政を簡素化するために、省庁を政策立案部門と業務実施部門との二つに分けると決定した時から起こった問題であります。その業務実施部門に法人格を与えて独立させようという発想は、昨年の7月、独立行政法人通則法として明らかにされましたが、国民の大多数はこの問題に今なお無関心であります。しかし、それが国立大学にも適用されかねない状況が確かなものとなって以来、私達国立大学に関係のある者たちはとうてい無関心ではいられなくなりました。私達はもちろん、そうした通則法が大学に適用されることには強く反対するものであります。
文部省が政策立案部門で、大学が業務実施部門だという形態は、現場の教授陣のモラルと、そこで行われている教育と研究の質の低下をまねきかねません。そもそも、自律的な営みである教育と研究とが、他の人々によって立案された政策に従って実施される業務であろうはずもありません。私達は、文部省が大学の独立行政法人化をめぐる検討の基本的な方向を昨年の9月20日に提出するよりも以前に、国立大学協会として通則法が大学に適用されうるものではないという詳細な分析を発表いたしました。仮に国立大学がしかるべき法人の形態を持つならば、それは国立大学法人とすべきだと、その分析は早々と提案しているのであります。私達は世界のほとんどの大学がそうであるように、大学が法人格を持つことにはいささかも反対してはおりません。しかし、通則法をそのまま受け入れることは、日本の将来にとってゆゆしき問題だと考えております。私達が独立行政法人通則法の大学への適用に強く反対する理由は、例えば学長の任免権を文部大臣が持つといった非現実的な事態などいくつも存在しております。教育と研究を保障する財政の問題も、その通則法は何らふれてはおりません。しかし、私はここで、そうした細かな問題にふれるつもりはありません。皆様方にご理解いただきたいのは、一国の将来にとって決定的な意味を持つこうした大学改革が、国の高等教育政策とは一切無縁な行政の問題としてきわめて官僚的に処理されようとしている点です。日本は高等教育政策不在のまま、21世紀に足を踏み入れようとしているのであります。
19世紀から20世紀にかけての大学は、一国の生産力の向上をめざして発展してまいりました。しかし21世紀における大学は、一国の知力の向上に貢献しなければなりません。国の魅力は、その知的なアトラクティブネス、吸引力によって決定されることになるからであります。また環境・情報・生命といったこれからの国際社会に必須のキーワードは情報の量の比較的な増大ではなく、知識の質の組織化を基盤としているからであります。それには教育水準の平均値的な向上にとどまらず、世界の上位3%以内で拮抗しあうすぐれた者達との競争に率先して参加することのできる強靭な個人を作り上げなければなりません。独創的たれといった空疎なかけ声とは異なる実質的な政策とその実現にふさわしい環境とが必要なのであります。そうした環境を醸成するための政策は、しかし、まだ日本では形作られてはおりません。日本の大学の多くは現在、国際的に高い評価を受け始めております。だがそれは、大学自身の力というより、その中で劣悪な施設と貧弱な援助体制にもかかわらず、創意豊かな研究に取り組んできた個人の貴重な活動によるものであります。欧米諸国に比べればほぼ半分の、国民総生産の0.6%ぐらいの予算しか高等教育に投資しようとはしない国の大学にしては、これは驚くべきことだという評価も国際的に定着し始めております。そうした時に、日本の国立大学が独立行政法人という奇妙な制度の犠牲になろうとしているというニュースは世界をかけめぐり、多くの人々がその推移を見守っております。私達は、未来の国民のためにも、また国際的な与論のためにも、理念を欠いた改革には批判的でなければなりません。理念を欠いた改革は、しばしば現状を変えまいとする自堕落な意志をその背後に隠しております。実際、独立行政法人通則法の大学への適用は、大学にことさら変わるには及ばない、現状を幾分か収縮させた形でこのまま生き延びていればよろしいと告げているかに見えます。私が国立大学の独立行政法人化に反対する最大の理由は、それが改革と呼ばれていながらも、実は現状維持を助長する防御的な力学をあたりに波及させるからにほかなりません。
21世紀に向けて、国立大学はもちろん変わらなければなりません。また現に変わりつつありますし、すでに大きく変わってもいます。しかしその変化は、こうした制度改革によってもたらされるものではありません。過去10年来、大学の営みを決定的に変化させたのは、女性の存在にほかなりません。また外国人の存在にほかなりません。これが私の確信していることであります。実際、学生として、また教授として多くの女性や外国人を迎かえ入れることで、大学はこれまでごく自然だと思っていたことの不自然さを初めて自覚することになったのであります。こうして大学は大きな変化を遂げていこうとしております。