独行法反対首都圏ネットワーク |
12月29日のイタリアの大学改革に関する記事の続報
(2000.3.17 [he-forum 706] イタリアの大学改革 続報)
岐阜大学附属図書館の石田です。
先日紹介しました、ミラノの新聞"Corriere della sera"12月29日のイタリアの大学改革に関する記事の続報です。12月29日のパネビアンコ氏が批判していた大学省次官グェルツォーニ氏からの反論です。ひどい訳で申し訳ありません。
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"Coriere della sera" mercoledi' 4 gennaio 2000. p.
36.
大学改革における量と質の関係についてのアンジェロ・パネビアンコ氏の発言について
(Al proposito di un recente intervento di Angelo Panebianco sul
rapporto tra quantita' e qualita' nella riforma degli atenei)
大学の第一の目的は市民を育成することだ
(Universita': primo obiettivo saper formare i cittadini)
大学省次官ルチアーノ・グェルツォーニ (Luciano Guerzoni) 著
アンジェロ・パネビアンコ氏は、最近の発言で("Coriere della sera"12月29日)左翼中道の「教育改革」全体の着眼理念は「質と量の交換」だと主張されている。この問題は、「左翼とその周辺のインテリゲンチャ」の主張の判定のためではなく、すべての学生やその家族よりもまず市民にその評価を提供するために、適正な比較と掘り下げを必要にするような重要性を帯びている。
改革を行わない場合の「高価な代償」がいかばかりであるかをすべて、我々は知っている。しかし、現実の大学の研究機構の総合的な古めかしさと非効率性は、永年にわたり後生の世代へ負担を転嫁してきている。国は、改革のための決定的方策を捨てて、同時に、我が国の大卒者たちは----他のヨーロッパ諸国の遙かに若い大卒者たちとの競争のあげくに、割の合わない就職を強いられている。あたかも十分でないかのようだ。学位収得課程の苛烈しさ----はイタリア中に「留学生」(修学人口の3分の1以上)と言う例外をは育み、在籍者の65パーセント以上が大学での勉学をあきらめるいうどの西洋諸国とも比較にならないほどの中退の割合の高いこと。
私は、ベルリングェル大臣とならび、我が国の大学教育制度の質についての主犯である、と、パネビアンコ氏から指摘されているが、この改革は、故意の予測するからはなくて、すでに広く発表された法律や措置によって、学術共同体全体をすべてのに巻き込んだ比較を目的として、改革の準備することのために、評価されることを、私はあえて求めたい。
大学の教育の自由のための一般的法規は、(前期課程の)学士と専門の学士の具体的な人間形成の目的を定めているが、それは、研究の質によっては異ならないが、人間形成の目的と文化や職業の関連した輪郭の特殊性の機能した知識と能力の深化の程度により異なる。さらに、ゼッキーノ大臣発案の新法(1999年10月19日法令370号)では、全国レベルでの、大学、効率、研究の質、それに--初めて--大学教育の評価システムが制定される。さてそれでは、質を犠牲にして量をとるというロジックはどこにあるのか?もし、我が国の大学を全く改革したくないために、改革の主要な目的である、大学の研究のよりすぐれた質を正当に憂うためにイデオロギーのマスターキーを使いたくないというのなら、教育システムについてのヨーロッパの傾向が--生涯にわたって--最大多数の市民を教育し育成するキャパシティーがどれほと質の第一のパラメータであるかを予見している、とことを心に留めておきでもしたほうがよいだろう。ヨーロッパでは、教育課程における質と量をめぐる時代遅れな批判は、今では知性を欠いているように思われる。もし、イタリアのインテリゲンチャが、いかなる機関に属していようとも、このことに気づき始めるなら、万人にとって利益となると私は信ずる。