独行法反対首都圏ネットワーク

日本の高等教育政策を問う/佐々木毅(東大教授)
東京新聞2/15「時代を読む」
(2000.2.16 [he-forum 615] Tokyo Shinbun 02/15, part 2)

『東京新聞』2000年2月15日付

時代を読む
佐々木毅

日本の高等教育政策を問う

また、受験の季節がめぐってきた。受験は最大の国民的行事の一つとして大々的に報道され、それをめぐって相変わらず同じような議論が行われている。しかし、受験の終着駅のように見られてきた大学から見る限り、現実は大きく変化しつつある。
第一に、周知の事柄として、受験勉強と学力の向上との関係が極めて怪しくなってきたことを指摘しなければならない。文科系においてもこのことは議論されているが、理科系の大学関係者においてはこのことは日常的な話題になっている。私の勤務する大学も例外ではない。もちろん、受験勉強の「ために」学力が向上しないのか、それとも受験勉強「にもかかわらず」向上しないのかは事柄として区別しなければならない。私はかなりの程度後者ではないかと考えるが、どちらにしても良い知らせではない。
第二に、受験勉強の終着駅のように見える大学を出たとしても一昔のような良好な就職環境はもはや存在しなくなったことがある。これは一時的な現象なのか、それとも雇用形態の構造的変化なのかについては議論の余地があるが、基本的には後者のように考えるべきであろう。仮に運良く就職できたとしても、かつてのような安定した雇用状態が維持される可能性はそう高くない。その意味で少子化だけが大学の問題ではない。就職への転轍機(てんてつき)としての大学の機能が大きな曲がり角に直面しているのである。
逆に言えば、これまでの日本の受験の仕組みは学力の向上と就職への転轍機としての大学への関門という二つの役割を期待されてきた。そして先に述べたことは、この一石二鳥の状態が今や「一兎(と)をも得ず」の状態に転落しつつあることを示している。この安上がりで便利な仕組みの空洞化を放置しておいてよいのであろうか。少子化は一人ひとりの能力や力量を高めることを要請しているように思われるが、少なくなりつつある若者をこうした境遇にゆだねておいてよいのであろうか。
過日発表された小渕恵三首相の私的諮問機関「21世紀日本の構想」懇談会のキャッチフレーズによれば、「日本のフロンティアは日本の中にある」とのことであるが、それはせんじ詰めれば、われわれ個々人の潜在的可能性の発掘と開拓に専ら期待をかけるということ、もっと言えば、カネやモノよりはヒトが鍵(かぎ)であるということであろう。従って、公共事業にばかりカネをバラまいても日本の将来展望は開けないということ、人間のもろもろの力量と学力の向上にこそ政策の基軸が置かれるべきであるということを示唆している。
もちろん、問題は極めて複雑である。しかし、日本にそもそも高等教育政策はどの程度あったのであろうか。いろいろな量についての政策はあったであろうが、質についてのそれはどうであろうか。
政府は高等教育政策を行う梃子(てこ)と資源を持っていないわけではない。実際、政府は九十九の国立大学をはじめ、膨大な数の研究教育機関を創設し、その存続に相当の国費を投じてきた。これらを将来のためにどう活用するかは一つの重要な政策テーマのはずである。ところが行政改革のご時世ということか、今やこれらの貴重な資源はあたかも単なる厄介物であるかのように扱われ始めている。そこには政策は見えないし、資源を資源と考えているかどうかさえはっきりしない。
いわゆる国立大学の独立行政法人化問題は高等教育政策とは全く関係がない。例えば、独立行政法人化した大学の自主的な経営努力によって一定の成果があがるかのような言い方は、事態の緊急性と財政の現実を無視した相当にぜいたくな(右肩上がりの時代風の)話ではなかろうか。政策の基軸を先のように据えるつもりならば、内容のある政策を出すことに遠慮する必要はない。

(東大教授)



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