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「国立大学」が消える日 迫る独立行政法人化 (3)
流れ読めなかった国大協(東京新聞2/13)
(2000.2.16 [he-forum 611] Tokyo Shinbun 02/13)
『東京新聞』2000年2月13日付
「国立大学」が消える日 迫る独立行政法人化 (3)
流れ読めなかった国大協
一九九九(平成十一)年三月十一日、文部省と国大協は、同省内でひそかに会談をもった。文部省側は高等教育局長の佐々木正峰(五八)ら三幹部、国大協は会長の東京大学長、蓮実重彦(六三)ら四幹部が顔をそろえた。
「二五%の定員削減に関連して、国立大学としても設置形態や独立行政法人化について検討を始めてはどうか」。この席で、文部省側はこう打診をした。「二〇〇三年までというのは時間的余裕があるように思われるが、実際には定員削減が二〇〇一年一月から始まる。二〇〇〇年度の前半から夏頃までに、対応を決めないといけない」
慎重な表現ながら、文部省はこの段階で、定員削減と絡めて、国大協に独法化の検討を勧めていた。
「もはや何もせずに放置するわけにはいかなくなった」。三月十八日に開かれた国大協の理事会で、蓮実は私的に検討を始めることで各理事の一任を取り付けた。しかし「当面の正式な議題とはせず、周辺状況の変化や推移を見極める」として、全体での議論は先送りにした。
蓮実は副会長(当時)の東北大学長、阿部博之(六三)らに相談し、名古屋大学長の松尾稔(六三)に検討をゆだねることを決めた。
四月上旬、蓮実の依頼を受けた松尾は自ら四人のメンバーを決め、極秘の検討を始めた。一カ月半に四回、松尾がかつて会長だった東京・四谷の土木学会の会議室に集まっては、政府方針の問題点を分析した。
松尾の頭文字を取り「M研究会」。五人は「毎日のように、十いくつもの会議が開かれている」(松尾)中に紛れて、議論を繰り広げた。「私心を捨てて、毎日のようにEメールをやりとりしながら、仕上げていった。日本の教育・研究の将来がどうなるべきか、本気で話し合った」と、松尾は振り返る。
こうしてできあがった「松尾リポート」は、国立大学のあり方や独法化の問題点をまとめてあり、以後の検討の土台となった。
「国大協としてどう対処すべきか、独法化に関してどんな条件が考えられるか、しかるべき組織で検討いただかねばならない」。あらがいがたい政治の流れを感じた蓮実は九九年六月十六日、国大協の総会でようやく独法化問題の検討を提案し、阿部が委員長を務める委員会が担当に決まった。蓮実はそのとき初めて「ポケットに持っているこのリポートをたたき台に提供する」と、松尾リポートの存在を明かした。
「新しい自主・自律体制の確立と大学にふさわしい設置形態のあり方の検討が真剣に行われるべき時期に来ている。教育・研究の質の向上を図る観点に立ってできる限り速やかに検討を行いたい」。文相(当時)の有馬朗人(六九)が、国立大の学長たちに公式に独法化の検討開始を伝えたのは、その翌日のことだった。
◇
国大協の動きが水面下にあるころ、東京、京都、名古屋など旧七帝大の副学長たちは、独自の検討作業を進めていた。九九年三月、東北大の発案で始まった「懇談会」。ここには副学長のほか、各大学の教授が一人ずつ参加し、一時は声明を出す計画もあった。
国立大の存否にかかわる大問題を前にしながら、国大協は表向き沈黙を守っている。大学人として、もっとオープンな議論を進めるべきだというのが、積極派の副学長の意見だった。
「勉強会をつくって議論して(独法化問題の)ひな型をつくろうとした。できれば国大協や文部省に提案するシンクタンク的な機能を持ちたかった」。副学長の一人は、こう証言する。中央省庁等改革推進本部顧問会議のメンバーの東北大教授、藤田宙靖(五九)を呼び、じかに独法化のレクチャーを受けたこともあった。
しかし、副学長たちのもくろみは実現せず、九九年秋以降、会は単なる情報交換の場に後退していく。
「当初、意気込んでいたものとは違ってしまった。個人の立場ならいいが、副学長は大学の看板を背負っており、ブレーキがかかってしまった」(副学長の一人)。強者である旧帝大だけ勝手にやっている―。他大学のそんな目を副学長たちは恐れ、声明やひな型づくりを断念した。
政治の動きに応じて着々と検討を進める文部省に対して、国立大学側の出遅れは明らかだった。内部で検討を進めるだけで世論に訴えることもなく、その間に独法化への流れは加速していった。
(文中敬称略)