独行法反対首都圏ネットワーク |
「国立大学」が消える日 迫る独立行政法人化 (2)
「公務員型なら」文相も転向(東京新聞2/12)
(2000.2.16 [he-forum 609] Tokyo Shinbun 02/12)
『東京新聞』2000年2月12日付
「国立大学」が消える日 迫る独立行政法人化 (2)
「公務員型なら」文相も転向
『文部省からの独立』を求めた東大病院有志による"直訴"事件は、文部省や学内の反対でつぶれた。しかし同大医学部は一九九七(平成九)年八月、正式に改革案を出し、事実上、独立行政法人化支持に踏み切った。直訴を受けていた行革会議事務局長(当時)の水野清(七五)も同年十月、東大と京大を先行して独法化する案を打ち出した。
東大病院の火種は、再び燃えかけたが、行革会議では結局合意に至らず、同年十二月の最終報告では「大学の自主性を尊重しつつ、研究・教育の質的向上を図るという長期的視野に立った検討を行うべき」だとして、国立大学を独法化の検討対象から外した。
「"長期的視野"というのは、やらないのと同じ。事実上消えたと思った」。会議の中心メンバーで、現在も中央省庁等改革推進本部顧問会議に残る、東北大教授の藤田宙靖(六四)は振り返る。水野も「(含みを持たせた表現は)私の顔を立てて入れてくれたようなものだ」といったんあきらめたことを認める。
しかし「消えた話」は突然、復活する。「政治の動きとして、定員削減の話が出たことが大きい」と、藤田は指摘する。行革会議の最終報告では、国家公務員を十年間で一割、削減することになっていた。それが小渕政権の方針で二割に増え、自民、自由両党の合意で昨年一月には二五%にかさ上げされた。
そんなに多くの官僚を減らすのは、事実上不可能で、当初の一〇%以外は独法化による削減分とされた。その削減の対象として政府が目を付けたのが、十二万五千人もの定員を抱える国立大学だった。
◇
九八年の暮れから、翌年一月にかけて、文部大臣(当時)の有馬朗人(六九)と総務庁長官(同)の太田誠一(五四)は三たび会談した。官僚を交えない「差し」の話し合い。太田から話を持ちかけ、自らが会員となっている東京都内のレストランや国会内の空き部屋で、有馬に国立大学を独立行政法人化させるよう迫った。
「長期的視野とは、どのくらいの期間か」。国立大の独法化に執念を燃やす太田が尋ねた。「長ければ長いほどいい」と考えた有馬が出した答えは「二〇〇八年」。太田は納得せず「十年後まで待てない。政治家にとって、やるというのはせいぜい一年先の話だ」と、有馬を追い込んだ。
「経済面は保障する」「国立大学だけ削減しないわけにはいかない」。太田は二五%の定員削減をちらつかせながら、さまざまな口説き文句を連らねたといわれる。「決定権はこちらにあるんですよ」。最後は、こう有馬に決断を迫り「二〇〇三年」までに結論を出すことで、二人の大臣は折り合いを付けた。
「大学の自主性を尊重しつつ、大学改革の一環として検討し、平成十五年までに結論を得る」。九九年一月二十六日に決定した「中央省庁等改革にかかわる大綱」には、明確にタイムリミットが盛り込まれた。国立大独法化への流れは、このとき形作られた。
◇
「独立行政法人化は効率化の観点から行われるもので、大学の教育研究になじまない」「国立以上に財政支援がなされるとはとうてい考えられない」「大臣からの中期目標の提示、中期計画の認可等の仕組みは、大学の教育研究活動の自主性に反する」―。水野が東大と京大の独法化案を出した九七年当時、有馬はこう反論、独法化に強く抵抗していた。その一年後、小渕政権下で文相となっていた有馬が宗旨変えしたのはなぜか。
「あの時は、独法化は民営化の第一歩だと思っていた」。有馬はそう説明する。ところが行革委の最終段階で多くの機関が「国家公務員型」となった。国が人件費を賄うなら反対の理由は一つ消える。「公務員型なら、大学改革の選択としてあり得ると思っていた」と有馬は言う。
先進各国の大学の多くは法人格を持っている。国立大のままでは、細かい規制に縛られる。文部省と直接の関係を切り、教育や研究についての方策を自律的に考えて運営するのも悪くない・・・。次第にそう考えるようになっていた有馬が、太田との会談で妥協し、独法化へと踏み出すのは、自然な帰結だった。
(文中敬称略)