独行法反対首都圏ネットワーク

「国立大学」が消える日 迫る独立行政法人化 (1)
東大病院 官僚支配に「反乱」(東京新聞2/11)
(2000.2.15 [he-forum 608] Tokyo Shinbun 02/11)

『東京新聞』2000年2月11日付

「国立大学」が消える日 迫る独立行政法人化 (1)
東大病院 官僚支配に「反乱」

「私たちが文部省に行ったら、徹底的に国立大病院を改革してみせませす」「事務は全部外注にしてしまえばいい」―。国立大学付属病院の検査部長たちから、肥大化した事務部門や技師不足に、次々と不満の声が上がった。一九九八(平成十)年六月、北海道旭川市で開かれた全国国立大学中央検査部会議。検査部の医師、技師らの批判の矛先は、文部官僚が大学病院を事実上支配し、効率的な運営を阻んでいることに向けられていた。
「事務機構がでたらめ。官僚の弊害が、もろに出てきてる」。九州地方の検査部長は、かつて在籍した私立大学と比較しながら、専門性に欠ける事務官の実態を批判した。「事務部長は明らかに大学病院を見ていない」「病院の本質がまったく分かっていない」。多くの幹部事務官は二、三年のローテーションで大学病院に配属されては去っていく。顔は病院長より虎ノ門(文部省)に向いている。そんな人事異動への強烈な不快感も示された。
出席した検査部長の一人(当時)は、文部省に改善を申し入れたがかなわなかったという。「全然通用しなかった。大学の改革の前に文部省の改革をやれと言いたい」と、今も憤まんやる方ない様子だ。

九七年三月、東京大学医学部付属病院の医師が、同病院の改革案を手に東京・平河町の行政改革会議事務局長(当時)・水野清(七五)の事務所を訪れた。
『経理は厳密に単年度会計であるが故にさまざまなひずみを生じている』『形式的には病院長が責任者で、実務は事務部(文部省)という二重構造にならざるを得ない』―。改革案ではこうした問題点を指摘して、(1)単年度会計の廃止(2)国家公務員からの離脱(3)病院の自己責任の確立(4)事務組織への専門性導入―の四点の実現を求めていた。
病院に所属する三十人の教授のうち、賛同者は十三人。半数以下ではあるが、次期医学部長と次期病院長を含む"主流派"による「独立宣言」は、文部省や他大学はもちろん、東大内部にも驚きの波紋を広げた。
「付属病院は予算を通じて行政に支配され、官僚に迎合する体質が染みついている。実態は文部省病院ですよ」。医師の一人は指摘する。「がんじがらめの規制を何とかしようと、まず数人が話し合った。教授会にかけてもまとまるとは思えないので、その中の有志でやったんです」
文部省の反応は素早かった。翌日には医学教育課長(当時)の寺脇研(四七)が、間もなく任期の終わる医学部長と病院長を同省に呼んだ。「個人で発言するのは自由だが、次期学部長と次期病院長が名を連ねているのはいかがなものか。公的な立場だと誤解を招くのではないか」。寺脇はこう、説明を求めたという。
寺脇はその直前、全国国立大学病院長会議で「財政面から国立大学の民営化の動きがある。対抗するため理論、現実面の検討をしてください」と話したばかりだった。その方針と真っ向から対立する改革案は、同省としてとうてい承服できるものではなかった。
翌々日の医学部教授会では、早くも「遺憾の意」が表明され、同年四月初めには、新医学部長と新病院長が同省高等教育局長あてに「てん末書」を出した。「無知や誤解に基づく記述がいくつも認められる」「民営化を求めたものと解釈された意味において表現が不適切」と、自己批判のオンパレードだった。
「必ず続く人が出ると思い、病院を追われる覚悟で訴えたがダメだった。大変な挫折を味わった」と、有志の一人は残念がる。
現在の独立行政法人(日本版エージェンシー)化に通じる東大医学部有志の"反乱"はこうして、あっけなくつぶれた。だが、行革の課程で、国立大の独立行政法人化が取り上げられる一つの火種にはなった。
水野はこう証言する。「東大病院の話が、国立大の独立行政法人化を考えるきっかけだった。それまで大学のことはよく分からなかったんだよ」

明治期に大学ができて以来、最大の変革ともいわれる国立大の独立行政法人化決定が秒読み段階に入った。企画立案部門と現業部門を分け、現業部門を行政機構から分離する英国型エージェンシーでは、国立大はとうてい対象にはなり得ない。日本の国立大を独立法人化する話はなぜ持ち上がったのか。国立大はどう変わるのか。流れを振り返り、疑問の糸を少しでもほぐしてみたい。

(文中敬称略)
=この連載は社会部・加古陽治が担当します。



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