独行法反対首都圏ネットワーク

イタリア左翼政権の学校大学改革
(2000.2.9 [he-forum 598] イタリア左翼政権の学校大学改革)

 昨年12月、ミラノの新聞"Corriere della sera"11月25日(木)の1面の大学の自治を奪う法案の記事をレポートしましたが、再びイタリアの大学改革の記事を見つけたので紹介いたします。その後も、くまなくみているわけではありません。今回も偶然に見つけました。訳が下手なのはご勘弁ください。
 どうやら、イタリア左翼中道政権の意図は、イタリアの大卒者の人数がヨーロッパ諸国で極度に低いことが気に入らなくて、数をふやすために躍起になっているようです。イタリアは日本ではどうも変に誤解されているようなところがありますが--昨今のイタリア・ブームに象徴されるように、料理、ファッション、おしゃれの国という面ばかり強調されてしまっているようで--文化芸術の誇り高き国であり、しかも、大学発祥の地たるがごとく学術研究の国です。それが、「激震!国立大学」の若菜みどり氏の「大学は二度殺される」にも言及されているレベルの高いイタリアの大学が危ういということのようです。
 なお、イタリアの事情をご存じない方のために、私の乏しい知識で補足しておきますと(90年代前半に当時日本に留学していたイタリア人に聞いた話なのでちと古いかもしれません):
 イタリアでは、「高校卒業試験」をパスしないと高校を卒業できず、中途退学になってしまいます。この試験は、もちろん到達度評価で競争試験ではないので、日本のような受験戦争にはなりませんが、大変な難関で合格率はかなり低いです。大学受験はなくて、この「高校卒業試験」ぱパスすればだれでも大学へ入れます。この大学を出るのがヨーロッパ一難関なのは有名な話で、下記の記事で左翼中道政権が気に入らないといっているのはこの卒業率の低さです。確か、入学者の3分の1か4分の1しか大学を卒業できないとききました。もちろん大学間に格差はあるので、卒業できない学生はレベルの低い大学へ自由に転校できます(イタリアの大学はほとんどが国立です)。

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"Coriere della sera" mercoledi' 29 dicembre 1999. p. 1, 19.

左翼政権の学校大学改革
(La riforma di sinistra di scuola e universita')
不可解なインテリゲンチャの沈黙
(Lo Strano silenzio degli intellettuali)
アンジェロ・パネビアンコ (Angelo Panebianco) 著

 左翼中道政権の時代になってから1年の4分の1が経過しようとしている。「聖職者たちの裏切り」(tradimento dei chierici)の情況について、私は大衆の注意を喚起したい。1996年に左翼中道が政権に就いてから、2つの性格が顕著である。政治的に義務のある向きであろうとも単なるシンパであろうとも、インテリゲンチャ、著名人、文化人の高度の集中化(野党側の用意していたものよりももっと強い集中化)と、強固に遂行される、小学校から大学院に至るまでの教育制度全体の改革、革新的変革の試みである。ともに目下進行中である。後者の改革は、今や壊的結末に至ろうとしている。議会で議論されている学校のサイクルの変革と大学改革(いわゆる3・2制(tre piu' due)--前期課程の学位に3年、後期課程の学位に2年)の施行のゆえである。
 部外者にしてみれば、この二者間には緊密な関連があるのではないかと思われるかもしれないし、あるいは、かかる左翼のインテリゲンチャが、イタリアの教育制度改革の流れのあらゆる段階で巻き添えになっているのみならず、まさにそのことを着想した張本人ではないか、要するに、まさに彼らがある意味でこの改革を指導しているのではないか、と思うかもしれない。
 それは誤り以外の何ものでもない。左翼インテリゲンチャ集団が、短い時期(数年前いわゆる「マリノッティ案」(bozza Marinotti)なる大学における労働の資料が編纂された時)に大学改革についての初期の議論に参加したという事実はあるが、彼らのうち多くは、あまねく逃亡していて、「彼らの支持する」政府の政策(清潔を自認する左翼中道の政策)によってなされている、基礎から最高位までの教育制度の改革の企てには、概して参加していない。教育科目についての政府の主たる相談相手が労働組合であったという結果(学校改革の場合は非常に明白であるが、大学改革の場合はほとんど目には見えないが、ほとんど行われていないというわけではない)、彼らは熱狂的に改革者を支持して活動しているのである。
 左翼中道の望んでいる教育制度改革については、全体的に判断しないことには何も判らない。事実、それは鎖のように相互依存するシステムなのである。大学で何が起ころうとしているのかを理解し、何が起こっているのかを観察するために、義務教育と同じようなものであると仮定してみよう。そのためには、この改革が明白な統一的まとまりをもたされていることを理解することが必要である。
 それは驚くことではない。学校のサイクルの変換も、いわゆる「3・2制」も、多かれ少なかれ同時期--ベルリングェル(Berlinguer)とその幹部たちが教育省も大学省(後者ではベルリングェル時代からの継続性を保証するためにグェルツォーニ(Guerzoni)次官が今日まで留任している)も支配していた時代からプローディ(Prodi)内閣の時代まで--に同一頭脳で着想された。
 全体として観察したところ、左翼中道の「教育改革」は、量と質の交換の理念で着想されたようである。イタリアでは、大卒者や学位取得者の数が他のヨーロッパ諸国と比較して少数であるが、絶えず嘆かれていることを利用して、周到に準備した後、学位取得者や大卒者の数を--是が非でもどんな手を使ってでも--増やそうと決断したのだ。事実、これが着想者の哲学なのである。その結果を得るためには、当然、「要求」の縮小、つまり、教育制度の文化的水準と質の徹底的な低下がもたらされるのである。
 正直云って、高校卒業試験(maturita')よりも信頼できる試験を望んだこと(私に云わせれば、改革を着想した本当のねらいに反している)について、功績をベルリングェルに与えたものの、彼の意に反して、学校のサイクルの変換が明白な質の低下をもたらしたことをあまりにも多い情況証拠が暴いている。1年の学習サイクルの縮小を見よ。確固とした職業技術を習得しないままでの義務教育での留年を見よ。高校の前半の学生が無駄な実習の2年間になってしまう危険性を見よ。
 大学改革も同じ論理をたどっている。むしろ、もっとひどい。前期課程(3年)の学士(laurea)は、徹底的に質と要求を低下させる。学生に合法的に割り当てられる必須受講時間と受講免除時間の間に関連を定めるよう法律が強要するからのみではなく(義務的すぎたり長すぎたりのテキストを用いてはならない)、ほとんど勉強しない学生、「改革された」未来の学校を卒業した者たちが、おそらくこの3年間課程に行かれると予測されるからである。
 皆さん、ともに考えてみよう。学校のサイクルの改革と大学改革は、(大学前期課程の)修了者、学位取得者の知識の低下をあらかじめ形成している。前述の修了者、卒業者の人数を増やすために必要な低下なのだ。さて、左翼中道政権は、我々の教育制度を方向転換させるときも権力を持っていた。そして、それを指し示された支持の下に実行した。将来の我々の学校、大学は、もっと大勢の卒業生、もっと大勢の学位取得者を大量生産すればするほど、反対に総体的な質の低下という高価な代償を支払わされる。そして、他のヨーロッパ諸国とは異なって、高学歴の象徴としての肩書きという気休めにもならないのである。
 さて、左翼とその周辺のインテリゲンチャは、かかる事態について何と発言しているのだろうか?公式にはほとんど何も云っていない。左翼中道政権を支持しているインテリゲンチャの圧倒的多数は、大かれ少なかれ、学校改革、大学改革にはのんびりしたことにも無関心のようだ。一体これが許されてよいのか?自国の教育制度の変化について、文化人が黙殺することが許されてよいのか?それを実現するためだというならなおのこと、まさに彼らの政治的同朋ではないか?まさに、これは聖職者の裏切りではあるまいか?
 インテリゲンチャで、左翼中道と政治的に直接責任があるか率直に支持している人々を、大学教授だけに限定して、リストアップしてみると大勢いる。著名人に限定して何名か列記してみよう:ウンベルト・エコ(Umberto Eco)、ミケーレ・サルヴァーティ(Michele Salvati)、パオロ・シロス・ラビーニ(Paolo Sylos Labini)、ニコラ・トランファリア(Nicola Tranfaglia)、パオロ・オノフリ(Paolo Onofri)、アウグスト・バルベラ(Augusto Barbera)、ジュリアーノ・アマート(Giuliano Amato)、ジャンフランコ・パスクィーノ(Gianfranco Pasquino)、アルトゥーロ・パリージ(Arturo Parisi)、マッシモ・カッチャリ(Massimo Cacciari)、ジャンニ・ヴァッティモ(Gianni Vattimo)、アルベルト・アゾール・ローザ(Alberto Asor Rosa)、ステーファノ・ロドタ(Stefano Rodota')、ルイージ・スパヴェンタ(Luigi Spaventa)、ラウラ・バルボ(Laura Balbo)、フランコ・バッサニーニ(Franco Bassanini)、キアーラ・サラチェーノ(Chiara Saraceno)、フィリッポ・カヴァッツッティ(Filippo Cavazzutti)。他にも大勢いるが、スペースの関係で列記できない。私は、何人かの左翼中道に近い立場のインテリゲンチャと、彼らの支持する政治勢力によって実現されている教育改革について語り合う機会があったが、彼らは、概して諦めて首を横に振るか、ため息をつくかであった。いったいどうして彼らは語らないのか?なぜ、「彼らの」政府がこの分野で行いつつあることに無関心なのか?(左翼の規範によれば)「斜視の」保守主義者の私が抗議しても、左翼中道政権にはなんらインパクトにはならないだろう。彼ら、
左翼陣営が、(非公式に首を横に振るだけにとどまらないで)公然と批判を展開すべきではあるまいか?左翼中道政権に対し、意見に耳を傾けるようにしむけることができるのは、私ではなくて彼らなのだから。
 かつて、西洋の左翼インテリゲンチャが沈黙してスターリンの共謀者となった時代があった。少なくとも、それは今日の左翼中道とその周辺のインテリゲンチャの立場ではない。それでは、なぜ、ベルリングェル、グェルツォーニ、CGIL学校支部(CGIL scuola)(訳注:CGIL=ConfederazioneGenerale Italiana del Lavoro(イタリア労働総同盟)、イタリア最大の労組)の共犯者に落ちぶれるのか?



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