独行法反対首都圏ネットワーク

文系・理系の区分は幻想 新千年紀へ教育再構築を
阿部謹也(日経1/10「持論」)
(2000.1.12 [reform:02539] 阿部謹也氏,日経 1月 10 日 7面「時論」)

 佐賀大学の豊島です.日経新聞1月10日7面「時論」の阿部謹也氏の文章です.後半部分は大学にも関係があるでしょう.
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時論
文系・理系の区分は幻想
新千年紀へ教育再構築を

阿部謹也 共立女子大学学長

 日本で暮らしていると気がつかないことでも、外国で暮らすと日本との違いが目立つことがしばしばある。日本では日常のあいさっとなっている言葉に「今後ともよろしくお願いします」「先日はありがとうございました」がある。この言葉は極めてよく使われるが、欧州でも米国でも全く使わない言葉なのである。あらかじめお札をいう、あるいはさかのぼってお礼をいう習慣が欧米にはない。
 このことは欧米社会に「世間」がないということと深くかかわっているのだが、わが国の世間は贈与と長幼の序を原理としているだけでなく、時間を共有している関係でもある。欧米の社会では個人は自分の時間を生きているのであって、家族以外にはそれを共有できる人は極めて少ないのである。何かしてもらった時にはその時点でお
礼をいい、それで完結するのである。ここに欧米の社会と日本の社会との根本的な違いがある。
 この違いは日本人の人間関係のすべてを規定しているといえるほどの影響力をもっている。同じ時間の中で生きているため、常に先輩・後輩の関係が問題になる。自己を常に何らかの尺度で位置づける必要が生じてくる。このことは意外なことに全く関係がないかに見える学間の分野にも大きな影響を与えている。
 明治期に近代的学制が敷かれた時、今日の文科、理科の区別も生まれた。これは産業と技術の面で先進国に追いつくための政策として産み出されたものであったが、この百年の間に文系人間と理系人間の区分が実際にあるかの幻想をはぐくんできたのである。
 文科・理科の区分は欧米にはない。日本だけの特異な状態なのである。自然科学と人文・社会科学との間に本質的な違いはない。いずれも人間の科学なのである。このことが十分に理解されていないため、わが国ではとんでもない事態が現在起こっている。
 科学技術の振興が垂視されることは結構であるが、そこに社会的側面への配慮が欠けているために、例えば核燃料サイクル開発機構(旧動力炉・核燃料開発事業同)の原子力開発に安全性の問題が生じた。同機構には優れた技術者は大勢いるであろう。
 彼らは専門家として事態を把握していると思っているため、社会の側の反応に鈍くなる。いったん小規棋な事故でも起これば社会は大きく騒ぐ。専門家たちはそれを無知な人々の反応として無視しようとし、次の事態には隠そうとするようになる。そこに社会科学者がいれば事態は異なった展開を示しただろう。
 ジェー・シー・オー(JCO)の臨界卑故は論外としても、ロケットの打ち上げの失敗も含めてわが国の自然科学が現在あい路にさしかかっているように見えるのも、長い目でみれば文科・理科の区分に固執している政策の結果と見ることもできるだろう。
 リベラルアーツ(一般教養)は本来自然科学と人文・社会科学を共に包摂しているものなのである。理科や数学に対する関心が小学生の間で薄れているという指摘がある。それも理科の教育の仕方に問題があるためなのである。新千年紀(ミレニアム)到来を機に、科学研究の原点に立ち返って自然科学と人文・社会科学の教育方法を再開発してみたらどうだろうか。
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筆者は一橋大学前学長、専門は西洋社会史



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