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国立大学独立行政法人化と鹿児島の将来
(2000.1.9 南日本新聞99.11.6)
南日本新聞 平成11年11月6日 文化欄投稿
国立大学独立行政法人化と鹿児島の将来
鹿児島大学学長補佐 田中邦夫
最近急浮上してきた国立大学の独立行政法人化問題は,特に“地方への影響”という視点から考える必要がある。この独法化問題は,国の事業の「減量」を図るため,「市場原理」によって「民間でできるものは民間にゆだねる」との考え方に由来する。その本質は,大学教育全般への市場原理導入にある。
まず,行革の「市場原理」導入の日常生活への表れ方を考えるため,新聞料金規制に関する公正取引委員会の論議を見てみよう。大都市の密集した住宅地帯の購読者が,過疎地の配達コストまで負担するのは「市場原理」に反する。したがって全国一律の新聞料金規制は撤廃すべきである(例外なき規制緩和論)。この論埋は当然,全国共通定価の商品すべてに当てはまる。
ここから明らかなように,市場の論理は,首都圏・大都市に有利に働き,財とサービスの流れを大都市へ集中化させる“大都市の論埋”なのである(地方の不利)。そして,まさにこの大都市の論埋の国立大学への適用が,国立大学独法化にほかならない。
この問題は鹿児島県民全体にどのような影響を与えるのであろうか。まず,鹿児島大学をはじめ地方国立大学の予算は,国家財政によって支えられており,授業料収入や地元企業との産学連携で支え切れる規模ではない。これは,先の新聞料金規制の場合と同じように,地方国立大学も,大企業と多くの人口を擁する首都圏・大都市の“税収その他の国家による地方への再配分”によって維持されてきた,ということである。国立大学独法化は,まさに“大学教育予算に関するこの再配分機構そのものの解体
”にほかならないのである。それは,本県全体,また全国の地方諸県に対して“激震”を与えないではすまないであろう。
この独法化・民営化が進めば,私立大学並みの授業料値上げが不可避となる(数倍,医学部などでは十倍くらい)。
行革で国の減量が進み,税負担が軽くなるかと思いきや,そのつけが大学教育費の国民負担増となって跳ね返ってくるわけである。しかも,本県の場合,県民所得が全国平均と比べてきわめて低いという現実がある。すると,県民子弟の大学入学可能率は,首都圏その他と比較して著しく低下することになる。
また,企業との提携といっても,数も種類も規模も限られた産業構造しか持たない地方都市では,成り立つ学問も限られてくる。その教育研究は景気変動の波を直接受けてしまう。当然,鹿大は現在の規模を維持できず,著しく縮小せざるを得なくなる。かくして,不可避的に,本県全体の教育研究規模・文化規模の縮小”起こる。これは,全国のすべての地方について言える。
こうして,日本社会全体は,大都市と地方との間で,経済格差が教育格差を生み,その教育格差が逆に経済格差・生活格差を増幅する,という悪循環に陥ることになる。ここから,きわめて重大な論理的帰結が出てくる。
行革には,「官から民ヘ」(国家による保護から市場競争ヘ)と「国から地方ヘ」(地方分権)という二つの方向性があるが,それらは,じつは逆向きでたがいに矛盾する,という事実である。規制撤廃は,地方から大都市部へという集中化として,地方分権の分散化作用と真っ向から対立する。“地方の時代”が叫ばれて久しいが,独法化は,決定的にこの流れを逆流させることになるであろう。現代はむしろ“地方受難の時代”なのである。
かくして,独法化問題は,大学改革をはるかに超えて日本の地方の教育的・文化的・経済的生活基盤の存立,また国土の調和的発展の可能・不可能の問題となる。
大学改革は,独法化といった粗雑・乱暴な考え方によってではなく,大学全入時代の学問教育・職業教育・生涯教育の関係性とか,中央と地方の調和的発展と国立大学の意義といった,本質的な視点に立ち返って再出発すべきであると考える。