独行法反対首都圏ネットワーク

「独立行政法人化」を拒否し、21世紀を展望する大学変革の議論が求められている

1999年12月28日

独立行政法人反対首都圏ネットワーク事務局

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1.はじめに − 独法化反対の大きな拡がりは文部省プログラムに強いブレーキをかけている

2.文部省と一線を画す国立大学協会

3.独立行政法人個別法審議からの教訓

4.個別大学生き残り策への縮退は、大学審答申路線-->独法化への道

5.重大な問題をはらむ独立行政法人会計制度

6.独法化の明確な拒否の上に、2000年を大学制度全体を変革するための集中的議論の年に

1.はじめに − 独法化反対の大きな拡がりは文部省プログラムに強いブレーキをかけている

(1)拡がる独立行政法人化反対の声

 いま、全国で国立大学の独立行政法人化に対する反対運動のうねりが起きている。多くの大学の教職員組合をはじめ、複数の学長や教授会での意見表明(京都大理、千葉大文・園芸、東京外語大、鹿児島大教育、金沢大経済など)、教官有志の声明(名古屋大、東京学芸大、新潟大、全大教九州など)、新聞意見広告(宮崎大、大分大など)など、反対の取組みは大学によって温度差をもちながらも大きく広がっている。全大教が呼びかけている「国立大学の独立行政法人化反対・百万人をめざす署名」は、1万を越える数を集めた組合、教員の100%を集めた組合もある。学内はもちろんのこと、駅前や繁華街での署名宣伝行動が多くの組合で取組まれている。各地の宣伝行動では、高校生を含む広範な市民からの反響が寄せられている。
 全国32の国立大学からなる理学部長会議では11月10日に「危うし!日本の基礎科学」を発表し、独立行政法人化に「深い憂慮の念」を表明した。また学術会議会長の吉川弘之氏は10月27日の談話で、「...行政改革・国営事業効率化の視点のみから拙速にこの問題に対する結論を出すならば、我が国の将来の高等教育・研究に取り返しのつかない禍根を残すおそれがある。」と危惧を述べた。さらに幾つかの学会(歴史科学協議会、地学団体研究会、美術史学会など)でも、独立行政法人化に反対や危惧を表明した声明が出されている。学生や院生の間でも医学連の他、全学連が10月3日に、全国大学院生協議会は10月31日に、独立行政法人化に反対する特別決議をそれぞれ出している。また各大学で学生の自主的な学習・批判活動も展開されている。
 さらに『国立大学がなくなるって、本当?!』(日本科学者会議編)や『激震!国立大学』(未来社)、『独立行政法人−その概要と問題点』(日本評論社)など、独立行政法人化を危惧し、反対する立場からの出版活動もあり、発行後も版を重ねている。
 以上のように、大学の各構成員を含む幅広い運動や意見表明が行われる中で、大学を独立行政法人化することによる重大な影響への懸念や疑問、拙速な決断を危ぶむ声は広く一致した認識になりつつある。

(2)文部省プログラムの挫折と「特例措置」幻想の破綻

 ここで、国立大学の独立行政法人化をめぐる動きを振り返って整理しておこう。
 6月の国大協総会を前後して『ジュリスト』(6月1日号)の藤田論文が全国の大学で大量に配布された。この藤田論文は簡単に言えば「通則法+個別法での修正」であり、これが当初文部省が進めようとした国立大学独法化のプランだった。さらに文部省は有識者8名からなる「国立大学の在り方を考える懇談会」を8月10日に発足させ、その権威も借りて、大学に、「独立行政法人化はやむをえない」という状況を作りだそうとした。
 この背景には9月21日の自民党総裁選とその後の自自公連立に向けた内閣改造で、当時文相だった有馬氏の交代が予想されたため、有馬氏の在任中に国立大学側の基本的な了解を得ようと文部省が目論んだことがある(8月19日付で読売新聞が報道)。しかし、8月11日に蓮實東大総長が記者会見で「反対」を改めて表明したのをはじめ「懇談会」でも強い反対の意見が出され、教職員組合でも反対運動が大きく展開され始めた。
 一方、国大協は6月の総会で設置された検討小委員会で「松尾レポート」を元に議論を進め、9月7日に第一常置委員会の「中間報告」を発表した。これは特例法や国立大学法人法も構想した内容ではあったが、9月13日の臨時総会では全体の総意にならず国大協はこれまでの「通則法による独法化反対」を再確認した。
 結局、文部省は国立大学の独立行政法人化の方向を確認するために 9月20日に大学長会議を召集したが、巻き上がる反対の声に押され、文部省案(「検討の方向」)を示すだけに留まざるをえなかった。その後、文部省は各地区別学長会議で文部省案(「検討の方向」)の質疑応答を行った。この地区別学長会議では多くの大学から反対、疑義、質問が厳しく出される中で、文部省は自らの回答によっても文部省案の破綻を明らかにせざるをなかった(11.17「独立行政法人と大学の未来」シンポジウム基調報告を参照)。とりわけ、文部省の言う「特例措置」さえ保証されず、大学自治に関わる項目も通則法の枠内であり、独法化しても定員削減から逃れられず、財政的な自由度はむしろ後退する、など幻想の破綻が明確になった。

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2.文部省と一線を画す国立大学協会

(1)会長「談話」に見る国大協内部の分岐

 11月17,18日の国大協総会が、「通則法による独立行政法人化に反対」を再確認したことは、「国大協は独法化反対の立場を堅持せよ」という組合を始めとする大学人等の取組みによって、学長が総会で反対、慎重論を発言したためである。総会後の記者会見における蓮實会長「談話」は、まことに分りがたい倒錯した論理のものではあったが、「これまで通り国大協は通則法による独立行政法人化反対」の再確認を国民に明らかにしたことは、重要なことであった。
 今や国大協内部が、独法化に対して異なる態度・姿勢に分岐していることは明白である。絶対反対派、特例措置或いは特例法による条件付き賛成派、この機に乗じようとする千載一遇派、など様々な分岐があろう。しかし重要なことは、国大協が文部省と一線を画さざるを得なくなっていることである。これは正にこの間の反対運動が無視できないほどに大きくなっているからである。従って、各大学での現場における取組みが一層重要となっている。

(2)独法化論議の行方と全大学への影響

 中央省庁等改革推進本部によるスケジュールは、着々進行している。12月14日、先行する国立研究機関などの独立行政法人個別法は成立した。2001年4月1日設立への法的準備は整った。2000年2月には独立行政法人会計基準研究会の最終報告が出され、通常国会への25%定員削減実施を前提とする総定員法の改正案提出、それに基づく7月定員削減計画の具体案作成というタイムテーブルが組まれている。これに合わせて文部省は、大学の独法化を2000年の早い時期に確定すると9月20日の提案で言明している。今、このスケジュールの強行を食い止めることが必要である。12月初めの第1常置委員会アンケートは、それを基礎に条件闘争に入るのではないかとの疑念を生んだ。こうした疑念が完全に払拭されなければ、12月9日「読売新聞」の「特例措置を条件に独法化容認」という観測記事は必ずしも根拠なしとは言えないのである。
 さらに、広島県立 3大学の「独法化」案など、各地で公立大学の独法化への動きが顕在化してきている。独法大学体制が現実のものになれば、私立大学へもこれは波及する。国公私立大学を越えた再編すらあり得るものとなる。現に文部省は、私立大学の破綻に備えた体制の検討を開始しようとしている。国立大学の独法化論議は、国公私立の枠を越えた大学全体の再編を促しつつある。

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3.独立行政法人個別法審議からの教訓

 12月14日の参議院本会議で、86機関・事務(59法人)の独立行政法人個別法などが強行成立した。この審議過程などから明らかになったのは次のような事実である。

(1)減量(=スリム化)のみが独立行政法人の目標

 独立行政法人という制度そのものが、論理なき定員削減の数合わせのための制度であることがますます明らかとなった。総務庁などは、参議院の行財政改革・税制特別委員会の議論において、独立行政法人化の行く末には、民営化や「純減」を目指していることを明言している。国立大学を「一般論として民営化できる」(佐々木文部省高等教育局長)という発言は、国立大学制度の廃止と民営化という意図を露骨に示している。独立行政法人には減量化以外に何らの理念もなく、「これから魂を入れていく」(続総務庁長官)という程度の「理念なき行政改革」であることが確認された。

(2)目標も数値、評価も数値

 独立行政法人における「効率化」は、通則法によれば、あくまで数値化されねばならない。美術館や博物館について「たとえていえば入館者数を用いることが考えられる」(近藤文化庁次長)という発言は、文化を数値で計測可能なものにおとしめようという独立行政法人制度そのものの問題性を示している。評価においても「コスト主義が中心になる」(続総務庁長官)として、予算と直接結び付く評価方法が明言されている。

(3)「意識改革」も評価の対象に

 11月に発表された科学技術庁の「独立行政法人研究運営検討委員会」の第一次提言は、「目標達成のために判断し、行動することをあらゆる法人活動の価値基準の中心に据えるとの意識改革がまずは極めて重要である」とし、このような「意識改革」が主務省の評価委員会の評価対象となる、と述べている。これは、独立行政法人という制度が、その制度への批判を完全に封じ込めようとする意図を明確に持って設計されていることを示している。

(4)中期目標・中期計画は国家戦略(ミッション)のために

 科技庁の「研究運営検討委員会」は、国家が求める戦略的・重点的な政策目標を中期目標に反映させ、独立行政法人もこれに対応する戦略的な研究計画を立案するとしている。研究をナショナル・ミッションに従属させることが、独立行政法人という「実施機関」の目的であり、独立行政法人に与えられる柔軟性や自由度はあくまでそれを効率的に実施するためのものなのである。

(5)誰のための、何のための評価か

 同じ文書は、独立行政法人において法人の長に対する評価の中心に「マネジメント」を据えるとしている。このマネジメントには法人の長による研究者個人の評価が含まれる。そしてこの評価結果は「内部の資源配分に反映」するという。これは、評価が専ら予算(資源)配分のために行われることを示す。独立行政法人制度においては、法人に対しても、また法人の内部においても、評価はすべからく予算配分のためなのである。

(6)「弾力化」という名の切り捨て

 こうした中で、独立行政法人に働く研究者や事務職員は、不断に「弾力化」という名の切り捨ての圧力にさらされる。研究職のみならず、事務職にも能力給の導入が提言され、「任期付き採用の弾力化」の名の下に、パートタイム労働の一般化が行われるというのが、独立行政法人における労働の姿である。ここでは、「国家公務員型」であることはもはや「権利」ではなく、「制約」と受けとめられている。つまり、特定独立行政法人の「制約」を取り除くこと、すなわち、「非公務員型」か「民営化」が望ましい姿であることが前提となっているのである。
 国会審議においてはまた、独立行政法人への「天下り」の拡大も懸念された。現在の審議官以上の96名に対し、独立行政法人では288名の常勤役員が置かれる。総務庁はその数が「上限」であるとしているものの、「天下りは、完全には悪ではない」(続総務庁長官)という発言からみて、独立行政法人が第二の特殊法人となるのは免れない。
 独立行政法人の本質は、いかに国が決めた中期目標を効率よく達成できる機関となるかという点である。今まで多くの研究者にとって、所属する研究機関の維持発展は、各自の研究課題の達成や学問分野の発展という重要な課題に比べてそれほど大きな問題ではなかった。しかし、独立行政法人化に伴い、所属する組織の中期目標の達成がその第一使命となり、発想の逆転を突きつけられることになるだろう。そのようなことで、国民から信頼される学問研究や社会的な発言ができるだろうか?
 総じて、独立行政法人化は、われわれがすでに予測した通り、破綻国家における目的合理性なき制度いじりの典型である、と評価しうるのである。

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4.個別大学生き残り策への縮退は、大学審答申路線-->独法化への道

 個々の大学が「国取り物語」の世界に突入することで、ことは解決しはしない。それは、例えば、「帝国大学」の亡霊であったり、98年大学審議会答申路線を前提にした生き残り策であったりする。
 「帝国大学」の怨霊の世界は論外として、98年大学審答申路線によりかかることで、生き残ろうとすることはどうだろうか? トップ・ダウン的大学運営、運営諮問会議による外部コントロール、「産学連携」=産学融合体の形成、評価システムの導入と資源配分の競争、こういったシステムに大学のあるべき姿を見いだすことができるのだろうか。そうではない。これでは、惨めな現状の延長上に一層貧しい世界が広がるだけではないか。その運営の実態は「中期目標体系」の独立行政法人大学と異なるところはない。それは、98年大学審答申が、独法化を意識して作成されているからである。
 そもそも、87年9月以来の10年余の大学審の活動は、大学に何をもたらしたか? 91年答申に基づく大学設置基準の大綱化、それによる教養教育の解体と外部評価の前触れとしての自己評価システムの導入、97年の教員任期制に尽きる。旧7帝大を中心にひそやかに進められた91年以来の大学院部局化による大学院重点化政策は、大学審の答申による政策ではない。これは86年から東大が進めてきた「学院」構想の変容した形での具体化であり、大学審は、98年答申で現状追認的に述べているに過ぎない。
 ところで、98年10月の大学審議会答申は、6月に「中間まとめ」、10月「答申」と1年足らずで出されているのは何故か。この答申が、行政改革会議等で同時進行していた国立大学の独立行政法人化論議をにらみつつ、それを牽制し、防ごうとしたためである。このことは当時、関係者が様々な場で述べている。このために、98年答申は、従来の大学の在り方について大幅に踏み込んだ内容をまとめ上げ、実質は、独法化に近づいたものとなっているのである。これでは、大学のあるべき姿と異なるのは当然である。

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5.重大な問題をはらむ独立行政法人会計制度

(1)有馬前文相による財政自由度増大論の欺瞞

 通則法第37条によって「原則として企業会計原則によるものとする」とされた独立行政法人の会計制度について、有馬文相(当時)は本年9月20日の国立大学長・大学共同利用機関所長等会議における挨拶の中で「国からの運営費交付金も使途の内訳が特定されないため、費目等による予算執行上の制約が解消され、教育研究活動の実態に応じた弾力的な予算執行が可能となります」等と述べ、企業会計を原則とする独立行政法人会計制度によって財政上の自由度が拡大するとの見解を表明した。また、退任後、週刊『エコノミスト』(99年11月30日号 "「反対」だった私が独立行政法人化推進に回った理由「今のままでも潰れるところは潰れる」")のインタビューに前文相という肩書で応じた有馬氏は、「授業料は完全自由化の世界に入るのか」という編集部の質問に対して、「それはそうだ。.....安くする高くするというのは大学のメンバーの人たちの覚悟だろうし、それは皆さんが考えていることを実行すればいい。タダにしたっていい、やっていけるなら。」として授業料の決定権も大学に移るかのように言い切ったのである。
 こうしてかって文部省の最高責任者であり今も看板である有馬氏は、会計制度上も有利であるとして独立行政法人化推進の論陣をはっておられる。しかし、有馬前文相のいう自由度増大の論理が欺瞞に満ちたものであることは今や明確になりつつある。
 第1に、わかりやすい授業料に関していえば、10〜11月初めに行われた各地区ごとの国立大学学長会議で、文部省自身が独立行政法人化後も学生定数・授業料は文部省の管轄事項であると明言していることからも、有馬前文相の発言は全く事実に反している。
 第2に、2000年2月を目途に『独立行政法人会計基準』をまとめるべく議論を積み重ねている独立行政法人会計基準研究会の議事録や『中間的論点整理』(1999年9月20日を検討してみると、有馬前文相のいう財政自由度増大論が完全に欺瞞であることが浮かび上がる。
 さらに、去る12月17日宮脇淳北大法学部教授(独立行政法人会計基準研究会メンバー)を招いて行われた「第21回北大を語る会」での議論や、現在精力的に進められている全大教中央執行委員会での検討経過をも参考にすると、独立行政法人化が大学を財政的にも破産させていく危険が明確になって来る。独立行政法人会計制度についてはなお不明な点や未確定の部分も多々あり、更に分析と検討を続ける必要があるが、その骨格は「破産促進会計制度」ともいうべきものであるように見受けられる。

(2)企業会計原則とは似て非なる複雑混迷の会計制度が作られようとしている

 独立行政法人会計基準とは、「独法がその会計を処理するに当って従わなければならない基準であるとともに、会計監査人が独法の財務諸表等の監査をする(通則法第39条参照)場合において依拠しなければならない基準である。」(独立行政法人会計基準研究会『中間的論点整理』)この策定に際しては、前述のように通則法第37条において「原則として企業会計原則によるものとする」と謳われているのであるが、そもそも、「公共的な性格を有し、利益の獲得を目的とせず、独立採算制を前提としない等の独立行政法人」(『中央省庁等改革の推進に関する方針』)に利益の獲得を目的とする企業会計原則を接木しようとしたところに混迷の出発点がある。かくて、会計基準研究会は議論の冒頭から、「独立行政法人の特殊性を考慮して必要な修正を加える」(『中央省庁等改革の推進に関する方針』)ことが求められたのである。その修正作業の結果、形づくられようとしている会計制度は、企業会計原則とは似ても似つかぬ複雑に混迷・混乱したものとなっているといわねばならない。実際、9月20日の『中間的論点整理』では、"独立行政法人の会計制度がいかに企業会計原則と違うか"ということへの留意を紙面の相当量を割いて6点にわたって説明している。詳細は『中間的論点整理』(http://www.kantei.go.jp/jp/account/991019ronten.html)をご覧いただくとして、とりあえず要点を紹介しつつ、問題点を指摘する。(「 」内は、『中間的論点整理』からの引用)

 第1に、「独法は『公共的な性格を有し、利益の獲得を目的とせず、独立採算制を前提としない』」。「従って、国の財源措置に頼る独法の会計における収益と費用の関係は、営利企業のそれと比較した場合、その対応関係が逆になっていると認識することが必要」となる。つまり、国からの交付金は負債として計上され、交付金を独立行政法人が使用して発生した効果を金銭で評価し、その金額に相当する債権を国が放棄していくという思想である。
 第2に、「独法には、毎事業年度における損益計算上の利益(剰余金)の獲得を目的として出資する『資本主』を制度上予定していない」。「そこで、企業会計原則上の資本と利益の区分の原則の意味については、独法の制度上の特性に応じて、必要な修正を加えて理解しなければならない」。これは資本と利潤の厳密区分は不要であることを意味するものであり、企業会計の根幹が否定されている。
 第3に、「独法の業務活動においては、政策の企画立案に関連する場合が往々にして発生する。そのような場合においては、独法独自の判断では意思決定が完結するわけではなく、国の政策等によって独法の活動が規定されるといったことがおこる。このような場合には、これに起因する収入や支出を独法の業績を評価する手段としての収益や費用、すなわち損益計算に含めることが妥当かという観点から議論することが必要である」。ここにある「国の政策等によって独法の活動が規定される」という件は大学にとって重大な問題を含んでいるが、ここでは言及せず会計問題に絞って検討する。当然のことだが、企業会計では、損益計算書に含めない当期損益が存在することはありえない。
だとすると、『中間的論点整理』は、2つの会計部分が混在するという複雑怪奇な制度を想定していることになろう。
 第4に、「『独立行政法人の事業年度は、毎年4月1日に始まり、翌年3月31日に終わる』(通則法36条第1項)とされ、独法は毎事業年度における業務の実績について評価を受けることになる(通則法第32条参照)とともに、独法は3年以上5年以下の期間において定められた中期目標を達成するための中期計画を定め、その中期目標の期間の終了後、中期目標の期間における業務の実績について評価を受け(通則法第34条参照)、さらに、『当該独立行政法人の業務を継続させる必要性、組織の在り方その他の組織及び業務の全般にわたる検討』(通則法第35条第1項)を受けることになる。すなわち、独法の制度設計においては、中期目標の期間における業務の実績の評価に資するために提供される会計情報も必要になる。この関係で、中期目標の期間の最終年度の取扱が毎事業年度と会計的に異なる取扱をしなければならないことも考えられる。このような場合、そのような異なる取扱いが予定されていない企業会計原則に基づく会計処理のあり方に工夫を加える必要があるのではないか。」少々長いがほぼ全文を引用した。ここでも、工夫の名のもとに、複雑な操作の必要性が示唆されている。この複雑さは、当然のことながら連続的な利潤追求活動を前提にしている企業会計に、中期計画の達成状況によっては廃止も想定した会計制度を接木した結果生じたものと解すべきであろう。
 第5に、「独法は『極力自律性、自発性を与えるような制度設計とする』というのが、行政改革会議の最終報告(平成9年12月3日公表)以来の基本的な考え方であり、この観点に立って独法にインセンティブを付与することが要請される。」即ち、「損益計算上の利益の処理及び当該処理を行った後の積立金の処分に関連して、特に留意しなければならないポイントである。」「他方、運営費交付金がその収入の大宗を占める独法にあっては、運営費交付金の財源は税金であり、その扱いは厳格であるべきであるとする考え方にも合理的な論拠がある。」ここでも「会計の仕組」の工夫が表明されているが、自主的努力による部分と交付金による部分という2つの独自に集計算定しなければならない損益計算の流れが存在する複線的な会計システムの導入も考慮されざるをえない。収入の区分は可能であっても費用等の区分経理はどうするのかということ一つをとっても、運営上の複雑難解さが予測される。

 このように、独立行政法人へは企業会計制度を根本的に修正した複雑混迷の会計制度が適用されようとしているのである。この制度下での財務諸表は、企業会計制度のそれとは似ても似つかぬものとなり、企業会計のもつ効率性などは全くの絵空ごとではないかという懸念が会計のプロフェッショナルから早くも指摘されている。この複雑混迷の会計制度が定員削減圧力のさらに強まる事務機構に対して押し付けられ、独法化された大学はその第1年度からパニックに襲われるであろう。

(3)根本的検討が必要な独立行政法人会計制度

【企業会計原則が評価システムを規定する】
 形づくられつつある独立行政法人会計制度は上記のように複雑に修正してはいるものの、全てをキャッシュフローとして把握・表現する企業会計原則の形式は当然維持されている。まず国からの交付金は前述のように負債としてカウントされる。そして、独立行政法人側の収益に相当する部分は、独立行政法人の活動と成果への評価に対応して、国が債権を放棄するという形で発生する。国が債権をどの程度放棄するかは、国が独立行政法人の活動と成果をどのように評価するかにかかっているのである。既に我々は評価システムの諸問題を様々な面から指摘してきたが、その評価システムが企業会計原理によって逆規定されるという倒錯した事態が生じるのである。これが単なる杞憂ではないことは、先行する独立行政法人化個別法強行過程からも見ても明らかであろう(上記3.(2)参照)。学問の府としての大学はこの会計制度によって質的にも破壊解体されるのではないだろうか。

【財政上の自由度はない】
 有馬前文相や文部省によって喧伝された財政上の自由度増大に関連してまず関心があるのは、剰余金である。この問題については11月17日の第9回基準研究会で議論されている。「独立行政法人は、公共上の見地から確実に実施されることが必要な事務・事業を行うことを目的に設立され、その財務構造は、中期計画に沿って通常の運営を行った場合、損益がニュートラルになる(つまり、損益が差し引きゼロになる−引用者注)ように構築されることが求められている」とされ、従って剰余金は中期計画の枠内での使用のみが認められるのである。換言すれば、中期計画を乗り越えるような新たな課題への挑戦には用いることはできないのである。さらに、中期計画の枠内でも、例えば、5年の計画を4年で達成するなどした場合、「第21回北大を語る会」における宮脇教授の講演では、「それは"予算の先食い"を意味することになるので認めらないだろう」(参加者のメモによる)と懸念が表明されている。資金を外部調達した場合も、「公共的な性格を有し、利益の獲得を目的とせず、独立採算制を前提としない」(『中央省庁等改革の推進に関する方針』)以上、国からの交付金が減額されるとの見方が強い。これでは、独立行政法人会計制度は外部資金などを獲得する誘因にはならない。こうしてみると、財政上の自由度が増大すると鳴物入りで喧伝された企
業会計原理の導入は、対極である最も不自由で無気力な会計制度の構築をもたらすということになる。

【独立行政法人会計制度の根本的検討を】
 以上見て来たことをまとめれば、この会計制度による財務構造のもっともノーマルな姿は、帳簿の上では常時負債を抱えた状態であり、最後の時だけニュートラル、すなわち差引ゼロであるということになる。これは倒錯した企業会計原則ともいうべきものではないだろうか。そして、この倒錯は、「利益の獲得を目的とせず、独立採算制を前提としない」独立行政法人に、「利益の獲得を目的とした」企業会計原理を接木した結果必然的に発生した事柄なのである。この制度によって、大学は交付金という借金から出発し、中期計画の達成具合の評価を経て、いわばその借金を棒引きにしてもらうことになる。借金棒引きの評価が得られなければ破産を強いられよう。かといって「才覚」を働かせて剰余金が出ても、新たに浮かび上がった課題への使用は認められず、自助努力による外部資金調達も次期交付金の削減へと連動する現実的な恐れがある。結局のところ、この会計制度は、国の交付金の削減方策として強固に機能し、大学の破産を準備し、促進する以外の何物でもないように見受けられる。
 この独立行政法人会計制度を規定する会計基準については、独立行政法人会計基準研究会での議論がまだ続行中である。今、我々にとって緊急に必要なことは、提起されている独立行政法人会計制度がいったい大学の運営に何をもたらすかを厳密に検討することである。財政制度への検討も行わないまま、独立行政法人への肯定的態度をとることは自殺行為に等しい。

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6.独法化の明確な拒否の上に、2000年を大学制度全体を変革するための集中的議論の年に

(1)原点に立ち返った議論だけが事態を打開できる

 国立大学協会の混迷は、同時に国立大学全体の混迷の反映である。これをどう打破すべきかが、われわれに問われている。それには、今一度原点に立ち返った議論を徹底することしかない。
 第1に、独法押しつけの政治過程への批判が必要である。本来、1999年1月の「中央省庁等改革推進大綱」、4月の同「推進に関する方針」において、「2003年までに結論を得る」とされていたものが、25%定員削減政策の数合わせのために、にわかに浮上したという政治的押しつけ過程自体を根本から批判しなければならない。これは本年秋に問題となった介護保険を巡る政治過程と同様な質の問題である。社会の将来を左右する高等教育の在り方が、このような目先しか考えないやり方で決められ、そのスケジュールに沿って進められようとしていることへのはっきりとした拒否を大学は訴えなければならない。
 第2に、25%定員削減政策と国家財政の分析が必要である。現在の破綻した国家において、25%定員削減政策拒否と高等教育への公的支出の正当性と必要性の主張と説得をなさねばならない。これを欠いた「公的財政支援」一般の
要請は、具体性を持たない。とりわけ、2000年度の予算原案が85兆円の歳入のうち32兆6千億円を国債に依存するという、破綻不可避の大盤振舞いをしている現状の分析と批判を踏まえて、高等教育への公的財政支出はどのようになされるべきかを説得的に論じる必要があろう。
 第3に、独立行政法人制度自体の制度的検討が必要である。独立行政法人制度は、国家行政組織と公務員制度に新たなカテゴリーを導入する試みである。この制度としての妥当性の検討が必要であり、とりわけ、これが国民に対す
る公的サービスの向上になりうるかの観点からの検討が必要である。
 第4に、国立大学の独法化への徹底した分析と批判が必要である。これには、少なくとも、次の4点の全面的分析と批判が行われねばならない。

 1)中期目標−中期計画体系による行政機関の下部機関化
 2)人事制度の官庁体系化(主務大臣による学長任命以下、上からの任命制度)
 3)国家評価機関による統制
 4)企業会計原則による財務運営

 国立大学協会における今までの議論は、これらの諸点に十分答えていない。
 独法化絶対反対の立場からも、通則法下の独法化反対=特例法、国立大学法人法による独法化論からも、或いは、通則法下での特例措置での独法化論からも、ほとんど議論は提起されているとは言えない。真正面からの議論を尽くし、様々な意見を公にすべきである。そうすることによって、大学が大学であるために必要な条件が何であるかは明らかになる。そこからだけ、事態を打開する道は生まれる。

(2)2000年を日本の大学のあり方を巡る徹底した議論の年に

 大学は現在を代表するとともに、未来を代表する。
 大学は今の社会を前進させる知的機関であると同時に、「現在」を批判し、矛盾を打破する方向を生みだすものでもある。そのために、大学は時代の最先端に立ち、時代と向き合い、時代の深層に分け入って、その流れを感知し、見通し、新たな自然観、世界観、人間観を生みだす役割を果たさなければならない。それをわれわれは果たしているだろうか?
 今、国立大学協会と大学がなすべきことは、独法化にどう対処するかではなく、独法化拒否を明確にした上で、この問題を正面から見据え、分析し、批判し、その中から日本の大学のあるべき形を見いだすことであると考える。独法化は、大学が何であってはならないかを逆照射している。われわれは、この独法化問題を打破する論理と取り組みを生み出しうるときにのみ、未来を代表することができ、未来に責任をとることができるのではないだろうか。「自ら問題を発見し、それを解決する能力」を学生の中から引きだし、養い、育てることが、大学には求められている。それが可能なのは、大学が自らその能力を保持することによってであろう。
 われわれは9月20日、「沸騰する論議」を呼びかけた。2000年を迎えるに当たって、再度その論議を呼びかける。
国立大学協会は、1年間の徹底した議論の末に、大学再生の道を見いだす作業に率先して取り組んでいただきたい。そして政府と文部省に対しては、その議論の行方によって結論を出すようにしていただきたい。
 深く、徹底した議論とそれに基づく取り組みが、社会の未来を救うことになると考える。

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