独行法反対首都圏ネットワーク

大学における「戦後の終わり」
佐々木毅(東京新聞朝刊12/16)
(1999.12.16 [he-forum 486] 東京新聞 「時代を読む」)

佐々木(東職書記長代行)

 佐々木東大法学部長は現在の成り行きにどうやら不満を表明しています。その背後に在るものは何なのか・・・・・・・?
 東大では、まだ、2つの検討会の内容が明らかにされていません。年内に出されるかどうかもわかりません。
 14日学内署名・宣伝行動を行いましたー東職HP参照ー。

東京新聞朝刊(99年12月14日)「時代を読む」

大学における「戦後の終わり」佐々木毅

 大学行政の片隅から社会の構造変化と大学との関係を見ていると、「お受験」騒ぎとは全く別の世界が見えてくる。
 変化の要因は周知のように二つある。第一は、学校体系と社会生活との棲(す)み分け関係が終わったことである。つまり、就職までは学校体系の中で生活し、卒業とともに全く別の世界(世間)に「新しく」入っていくという、一種の単線型の仕組みが崩れたのである。
 第二は、少子化現象に伴う大学をめぐる市場の「成熟化」現象がある。このうち前者のインパクトの方がはるかに大きい。
 先のような棲み分け構造は幾つかの特徴的な現象と結びついていた。例えば、世間は大学で何を学んだかをほとんど間わず、しかも、終身雇用が当然のものと考えられていた。
 大学での教育の中身を間う代わりに世間は入学試験を重視し、マスコミは入試を国民的行事に仕立て上げ、それに便乗した。そして、大学自身もこの社会的に「埋め込まれた」役割を暗黙裏に受け入れたように見える。それは教授にとっても学生にとっても、理屈づけはともかく、それぞれにベル・エポック(よき時代)を意味した。
 しかし、「新卒はいらない」とまではいわないにしても、雇用情勢の激変によって大学生の就職内定率が下落してくると、この前提は崩れる。整然とした棲み分け構造は大きく乱れ、大学はその内実を問われ、少子化現象がさらにそれに追い打ちをかけるようになった。これへの応答として、ある大学は、成績管理を厳格にし、教育ヘエネルギーをもっと注入する。もう一つは社会との垣根をどんどん低くしていくことによって大学そのものの「世間化」を計ることである。
 この二つはともに限界を抱えている。「教育重視」路線は当然であるとしても、それが世間で評価されるかどうかは分からないし、「世間化」路線の方は何故わざわざ大学に行かなければならないかが分からなくなる恐れがある。
 こうした状況が集中的に表れているのがいわゆる文科系である。文科系は戦後、大量のホワイトカラーを生み出してきたが、教育の効果はほとんど間われることがなく、従って、専門性ともほとんど無縁であった。しかし、雇用環境が大きく変る時、受験勉強の果てに学部教育の提供できる内容とその将来的なリターンに黄信号が点灯し始める。この「中途半端さ」はいかなる意味でももはやプラスを意味しない。
 ここからポスト戦後型大学の姿を想像すれば二つの道が考えられる。一つは先に述べた「世間化」の道をひたすら進むことである。もう一つは学部教育の果たし得る役割を限定的に考え、専門的な教育を大学院で本格的に行う道である。これは先の「教育重視」路線につながるが、世間との関係は実務教育を通して最終的に結びつくことになる。目下、科学技術の領域で大学を産業界と結びつける試みが話題になっているが、これは古い話題である。問題は社会システムの管理能力の養成に大学を絡ませる覚悟があるかどうかである。
 日本では政党や企業、官庁が杜会システムの管理能力をそれぞれ自前で育成するものと見なされてきた。しかし、この「タコツボ」型の管理能力養成システムはその閉鎖性やあいまいさの故に限界が明らかになった。このことに目を閉じて科学技術の振興しか考えないところに「懲りない」心性が表れている。
 これに対して社会システムの管理能力の育成に大学をかませることは、大学と世間との棲み分けに積極的に終止符を打ち、社会システムの管理能力を「タコツボ」的に育成することに限界を画することに通ずる。それは人材の流動性にもつながるが、社会の変化と大学の変化とを有機的に結びつける点に特徴がある。残念ながら、国立大学の設置形態いじりにはそうした構想がほとんど感じられない。(東大教授)



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