独行法反対首都圏ネットワーク |
イタリアの大学の自治権を奪う法案
(1999.12.10 [he-forum 469] イタリアの大学の自治権を奪う法案)
はじめまして、岐阜大学附属図書館資料受入係の石田と申します。
イタリア・オペラが趣味なのでミラノの新聞"Corriere della sera"を時々愛知県図書館でみますが(東海地区の大学図書館にはイタリア語紙は名古屋大学の"l'Unita'"しかありませんので)、みるのは音楽記事だけですが、先日11月25日(木)の1面に大学の自治を奪う法案の記事が目にとまりましたので、紹介いたします。訳が下手なのはご勘弁ください。オペラ関係記事を捜していて本当に偶然に見つけました。その後の報道はあえて捜してはいませんので知りません。ご専門の先生方にお任せします。
5年から10年前イタリア語をイタリア人の留学生に習ったとき、イタリアの大学生に較べて日本の大学生の勉強しないのに驚いたことを常々きかされていましたので、このイタリアの大学に関する記事には驚かされました。同様の意味で、先日出版された「激震!国立大学」の若菜みどり氏の「大学は二度殺される」にボローニャ大学についての記述にはいたく共感をおぼえました。しかし、この新聞報道です。
私は図書館の職員ですから、大学の自治の議論など充分に理解できませんが、私の図書館就職の動機は、羽仁五郎「図書館の論理」でした。同氏「教育の論理
: 文部省廃止論」も読みました。教育内容に干渉ばかりしてくる文部省は廃止すべきでと言う論説は羽仁五郎以外にも多くあったように思います。今日の大学への攻撃をみているとほんとうにそのとおりだと思います。いま、文部省廃止論で対峙するかたはみえないのでしょうか?
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"Coriere della sera" giovedi' 25 novembre 1999
自治権を奪う改正
(Una riforma che toglie l'autonomia)
もし大学が研究を失ったら
(Se l'universita' perde la ricerca)
アンジェロ・パネビアンコ(Angelo Panebianco)著
大学大臣(ministero per l'Universita')オルテンシオ・ゼッキーニ(Ortensio Zecchini)は、大学教授の法的身分を改めることを決めた。用意された法案は、2つの理由により、全体としてきわめて厳しいと私は考える。ひとつには、それのもつ大学の自治権への正面攻撃だからであり、もう一つには、それを生み出す大学教官の労働の「官僚的サラリーマン性」の概念ゆえである。もしこの措置法が現実のものとなったら、我々の大学はよりよいものとはならず、決定的によりひどいものとなるであろう。
まず、(政府の政治的階級が口先では養護している)大学の自治権から始めよう。多くの可能性の中から、私は2つの飴を選ぶ。教授集団が2つの階層(正教授(orinari)と短期教授(prpfessori
tout court)、または、現在の会員)に分かれることを確認した後に、第2条によれば、正規教授の定数は、今後、各々の集団について2つの階層の合計の4分の1を越えることはできない。この措置法が通過するならば、大勢の現在の研究者たち同僚たちの出世を阻害するような「栓」が発生するであろうことは別にしても、本当に重大な問題は次のようなことだ。この規定によって、様々な学科目においてその時々によって必要な主任教授(ordinario)を自主的に自由に決定する権利を、学部、学科、学士課程から、剥奪することが、仕組まれているのである。一種の絞首台の縄のような現実がとおってしまったら、大学の自治権がうわべだけの見せかけの自立にすぎなくなったら、何が残るのであろうか?
第二には、大学の自治権への攻撃について考えてみよう。大学教官は、年間500時間を教育に割り当てなければならず、そのうち120時間(2つの大学課程と等価)を直接的教育に割り当てなければならない、と決められている。500という数字が漠然として気味が悪いこと(フランスの大学の憲章からあちこちで引用されているようだが、フランスの大学は、グランドゼコール(Grandes
Ecoles)といくつかの秀でた研究機関は別にして、明らかにヨーロッパ最悪である)は別にして、これまた、大学の自治権への良識を欠いた攻撃である。事実、大学のような複合的組織体では、数多くの教官が、課程の正教授、研究なと通常の労働の他に、多種多様の任務を行うことが必要である。しかし、「いかなる任務を誰に託するか」についての規定は、学科、学位課程といった、自身の要求を熟知している唯一のものに属するべきである。法律によって定められるべきものでなはない。
今日、既に、学部の固有の要求を基礎として、多くの教官は120時間を教育に費やしている(あるいは、2つの課程を受け持っている)。人によっては、追加課程にまでも、等しく重要な様々な任務を向けるよう学部は求めている(外国の大学との契約を守らなければならない者、自分の学科の評価のために会議を組織しなければならない者、図書館を管理しなければならない者、大学院課程を組織しなければならない者、などさまざまである)。
もし、大学の自治を尊重することを望むなら、こう云わなければならない。現行法に既に規定されている教育研究の通常任務のほかに、教官は、年間多くの時間を、自分の学部、学科、学位課程に提供する義務がある。そして、これらのことは、その特有の要求を基本として、充分な自治権の中で、いかように時間を使うのかを決定するべきだろう。
この法案は、大学の自治権を足の下に置いているのみならず、全く教育だけしかしない、研究をしない、罰を受けるに相応しい大学のモデルを提案している。この法令は、大学教授を最低のカテゴリーのサラリーマンとして扱い、学生との直接的関係と教育に捧げる時間の「量」は評価すべきことだが、教育の「質」評価すべきことではない、といっているのである。しかし、政治家たちに思い出させるのは教授にとっては屈辱的ですらあるように、大学教官が、年々ますます疲労して、新譜なマニュアルの繰り返しに陥ったとするなら、研究とエネルギーの著しい唐詩を必要としている。新しい華麗をよりよく維持したい者は、例えば、その準備のためにとても多くの時間を費やさなければならない。
(註:ここまで1面、以下19面へ)
そして、この準備時間は、もちろん教育に捧げる時間である。この法廷の起草者たちはこの準備時間を少しも考慮しないで、教官の労働について、けちなビジョン薄っぺらな官僚性を持っていることを露呈している。教官には、研究するためだけではなく、学生に提供しようとしている課程を責任制と創造性によってよりよくするための経験のためにも時間とエネルギーがあることは、彼らにとっては全く重要ではないのだ。一日に何時間かの間、学生窓口に属するサラリーマンだけを望んでいるのだ。その窓口でサラリーマン教官のすることの質は、やつらには重要ではないのだ。その上、講義を充分に準備し、論文を真剣に読むなど必要充分な時間(その時間もまさに計算されていないのだ)は、提案されている500時間に達するのである。学術機関(第3条)で費やす時間はいうまでもなく考慮されていない。結果として、研究のために残される時間は徹底的に縮小される。
法案は、学生との直接的関係に与えるべき時間の量の拡大に全てを向けているため、研究のみならず、教育の質までも打ち砕いている。現在、大学には、今までと同じように、研究をしない教官、講義の準備をしない教官、疲れたマニュアルの反復者にすぎない教官がいるのも事実である。法案が犯す致命的な罪悪は、まさにこのような教官を、あらゆる教官のモデルとして提案していることである。
最後に、私は想像するのだが、条文を書いた人は、うわべだけの専門職のパート・タイム教授があまりにも大勢いて学生と教官との関係が問題をはらんだものとなっている学部か、または、学生もほとんどいなくて、サボり教授ばかりの幽霊学部(イタリア半島にはどこにも存在しないはずだが)しか念頭になかったのではあるまいか。イタリアのごく一部の学部の問題を埋め合わせるために、このような大学全体を制裁する道が選択されるのである。本当に、これ以上ひどくすることはできない。